誰が為に陽は昇る 16

 ミラノのマルペンサ空港に降り立った瞬間、綱吉が感じたのは空気に入り混じる淡く甘い香りだった。
 花の香りのようでもあり、果実の香りのようでもあり、ほのかにスパイシーでもある。
 周囲を行き交う様々な人種的特長を備えた人々や、耳慣れない言語でのアナウンス、イタリア語の案内表示などを跳び越えて、その香りこそが綱吉に異国にいるという事を実感させた。
「……なんか意外」
「え? 何がです?」
 ターンテーブルで荷物が出てくるのを待ちながら綱吉が呟くと、耳ざとく獄寺は聞きつけて問い返してきた。
 が、普段なら体ごと綱吉を振り返るのに、一瞬視線を向けただけで、再び鋭いまなざしをターンテーブル上を滑ってくるトランクの数々へと戻してしまう。わずかな異変でも見逃すまいとするその隙のない仕草に、なるほど、これが日本以外の国を旅するということか、と思いながら、綱吉は答えた。
「ほら、よく国によって空気の匂いが違うって言うだろ。日本だと味噌と醤油の匂いとか」
「ああ、しますね、確かに。成田に下りてあの匂いを感じると、日本に戻ってきたんだなーって実感するんですよ」
「そうなんだ?」
「はい。やっと戻ってこれて、十代目にお会いできるって嬉しくなります」
「……あ、そう」
 ほがらかに言われても、コメントに困る。
 心のままに頬を赤らめてニコニコできればいいが、そういうわけにもゆかない。しかし、口で素っ気無く応じはしても、人間の体というものは素直であって、綱吉は自然に頬が熱を帯びるのを感じる。
 獄寺が荷物に集中していて、こちらを振り返る様子がないのを幸いだと思いながら、何でもない調子で続けた。
「とにかくさ、俺なりにイタリアはどんな匂いなのかなーって考えてたわけだよ。日本が味噌醤油で、韓国がキムチなら、イタリアはトマトやニンニクかなって」
「なるほど」
 獄寺はこちらを振り返らない。が、笑ったのが声の調子で分かった。
 からかったり冷やかしたりするのではない、彼が自分だけに向ける楽しそうで幸せそうな笑み。
 それがきっと今、彼の顔には浮かんでいるのだろう。
「でも全然違ったから、意外。俺が想像力貧困だっただけなんだろうけど……、何なのかな、この匂いの素って」
「そうっスねえ……あ、荷物出てきましたよ」
 答えかけたものの途中で言葉を切って、獄寺は二つの大きなトランクを軽々と掴んで床の上に下ろす。
「……よし、鍵も壊されてねーな」
 そして、目視で異常がないことをざっと確かめてから、ようやく綱吉の顔をまともに見た。
「とりあえず移動しましょうか。プルマン(バス)乗り場はあっちです」
「うん」
 綱吉も素直に同意して、自分のトランクを受け取る。
 質問の途中ではあったが、綱吉の問いかけをなおざりにする獄寺ではない。それが分かっているから、敢えて答えをせかさずにトランクのキャスターを転がしながら歩き出す。
 すると案の定、すぐに獄寺は話し始めた。
「イタリアの匂いを十代目はどう感じました?」
「んー。一言で言うと、甘い、かな。花の匂いみたいな感じ」
「それは多分、profumoですよ」
 プロフューモ、とイタリア語で言われて、綱吉は一瞬考え込む。
「profumo……、香水?」
「Si」
 いつもと同じように綱吉の速度に合わせて歩きながら、獄寺は笑顔でうなずいた。
「この国では男も女も、子供の頃から何かしら香りを身につけてますから。街中の人の多い建物の中は、どうしてもこういう匂いになるんですよ。屋外に出れば、また違います。農地だと土や植物の香りがしますし、海辺だと潮の香りが強いですし。日本だってそうですよ」
 生活感に満ちた匂いが感じられるのは、大勢の人がいる空間だけの話であって、自然が多い土地では当然、人間の匂いは感じられなくなる。
「フランスも空港や駅は、似たような香りがしますよ。多分、世界で一番香水が好きな国は、フランスとイタリアのどっちかじゃないですかね」
「……そういう獄寺君も、昔からコロンはつけてたよね」
 普段から結構な量の火薬を持ち歩いている獄寺ではあるが、しかし、ダイナマイトを使った直後でもない限り、彼が火薬の臭いを漂わせていることは滅多にない。
 近付いても感じるのは、煙草とコロンの入り混じった、少しくすんでいるのに清々しさが胸に残る彼独特の香りだけだ。
 それを綱吉が指摘すると、獄寺は苦笑するように笑った。
「まぁ、俺もこの国で生まれて育ってるんで……。シャワー浴びた後に何かしらつけないと落ち着かないっつーか、それが当たり前になっちまってるんですよ。もちろん、日本とイタリアじゃ湿度から匂いに対する感覚まで全然違ってますから、量とか付け方には一応、気をつけてますけど」
「へえ」
 言われてみれば確かに、獄寺の身につけている香りを心地好く感じたことはあっても、きついと感じたことは一度もない。
 むしろ、クラスメイトの女子がつけているコロンの香りの方がよほど強烈だろう。特に夏場の体育の授業後などは、教室中に蔓延する甘ったるい香りに、綱吉や獄寺を含めた男子生徒が眉をしかめていることも度々あるくらいなのだ。
 比べると、獄寺の身につけている香りは、質も彼女たちのものよりもずっと上質で、さりげなく彼という人間を印象付けながら、心地好さだけを残してゆく上級のアイテムだった。
(──あれ?)
 そこまで考えた時、綱吉はあることに気付いて、隣りを歩く獄寺を見上げる。
「ねえ獄寺君。今はこの距離でも、君の香りを感じないんだけど。これって君がさっき言ってた気候の違いのせい?」
 肩を並べて歩いていれば、いつもなら必ず感じる香りを感じない。
 それを指摘すると、獄寺は小さく笑んだ。
「そうです。乾燥してたり気温が低かったりすると、嗅覚は鈍くなるんですよ。まぁ、飛行機に乗ってる間は付け直さなかったですから、香り自体が消えちまってるっていうのもあると思いますけど」
「そうなんだ」
 納得しながらも、何となく綱吉は物足りないものを感じる。
 だが、小さく口元を曲げた綱吉に気付かなかったらしい獄寺は、そのままの調子で続けた。
「だから、十代目の期待をぶち壊すようで言いにくいんですが、実のところ、ヨーロッパの空港は国によって匂いが違うってことはないんですよ。というより、印象に残るほどの匂いは感じないって言う方が正しいです」
「え、そうなの?」
「はい。俺も西ヨーロッパの幾つかの国は実際に行ったことがあるから知ってますけど、印象に残るほどの匂いを感じるのは、やっぱりアジアですね。あと行ったことはないですけど、中南米やアフリカも、何かしらの匂いはすると思いますよ」
「……そーなんだ」
 今度こそ本当にがっくり来て、綱吉は小さく溜息をつく。
「俺、結構楽しみにしてたんだけどなー」
「すみません、ご期待に添えなくて」
 殊勝らしく謝罪しながらも、獄寺も笑いを隠しきれていない。
 綱吉の無知を笑うような彼ではないから、どうせ微笑ましいとかそんなことを思っているのだろうが、今一つ気恥ずかしく、面白くないことには変わりない。
 だから、報復とまではゆかないものの、少々の鬱憤晴らしを込めて、綱吉は宣言した。
「じゃあ獄寺君、ホテルにチェックインしたら、コロン付け直してね。いつもの香りがないと、君と一緒にいる気がしないから。そのせいで、俺がはぐれたりしたら困るだろ」
「え、あ、はい」
「でもって、それから街へ出て、山本へのお土産を考えるのを手伝って」
「はい。……って、初日から野球バカへの土産ですか!?」
「そんなの初日も最終日もないでしょ。ミラノだって明日までしかいないんだし、いいものを見つけたら、買っておかないと」
「それはそうかもしれませんけど……」
 なにも初日からでなくとも、と思っているのが丸分かりの渋い顔で、獄寺は口の中でぶつぶつ言っている。
 そんな中学生時代の面影をそのまま残した獄寺が、微笑ましくもおかしくて、綱吉は小さく笑った。



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