誰が為に陽は昇る 13

 獄寺が沢田家で夕食まで馳走になって帰ってきたのは、夜の九時を少し回った頃だった。
 こんな時間になったのには別に深い理由があるわけではなく、早速ながら夏休みの課題を綱吉と共に片付けていたからである。
 本来、獄寺も綱吉も進学希望を出していないのだから、課題も休み明けの実力テストも関係ないはずなのだが、そんな言い逃れをリボーンが許すわけもない。
 ましてや夏休みの半分を海外旅行に費やそうというのだから、残り半分は勉学に励まなければ、どんな制裁が待っているか知れたものではなかった。
 ただ幸か不幸か、高校の夏休みの課題には小学生のような絵日記や自由研究、図画工作といったものはなく、ひたすらに問題集ばかりだから、とにかく問題を解いてしまえば、すべては片付く。
 だから、獄寺と綱吉は、旅行前の十日間を問題集を解く期間、旅行後の十日間を休み明けの実力テストに備える期間として設定し、課題を配布されたその日から早速、その攻略に取り掛かっていた。
 夏休みの課題は、英語の問題集が2冊、数学の問題集が1冊で、獄寺にとっては三日もあれば終わる量だったが、綱吉にとってはそうではない。
 しかし、半月前まで期末テストに向けて猛勉強していた余韻が残っているらしく、今日までのところの進捗具合はスムーズだった。
 冷房が効いてくるまでの短い間に、室内の籠もった蒸し暑い空気にうんざりしながら、獄寺は開襟シャツの前ボタンをはずす。
 何故、日本の学校には制服などというものががあるのか、つくづく謎だった。
 こんな風に夏は蒸し暑く、冬は寒い国なのだから、その日の天気に合わせて各自が自由に服装を調節できるようにするのが合理的なはずなのに、見栄え重視なのか固定観念なのか、校則で定められるままにかれこれ六年近く、堅苦しい制服を着る羽目になっている。
 毎朝、何を着るか考える手間が省けるのは楽といえば楽だったが、押し付けられたものを身につけるのは獄寺の性分ではなかったし、何より標準制服では隠しポケットがせいぜい一つしかなく、武器の隠し場所にも困る。
 そのために結局、見た目は制服と同じデザインの上下をイタリアのサルトー(仕立て屋)に特別オーダーし、更に自分の美意識と反骨精神、なによりも武器の隠蔽のために着崩すという二重の手間をかける必要が生じており、獄寺にとって制服とは、とことん厄介なものでしかなかった。
 けれど、その厄介な制服との付き合いも、あと半年で終わる。そう思うと妙な感慨も湧いてこないではない、気もする。
「……結局、六年も学校に通っちまったんだな」
 獄寺が日本の並盛中学に編入したのは、中学一年生の初夏だったから、正確にはこの夏で丸五年の計算になる。
 だが、改めて考えると、随分と長い年月だった。
 その間、学校で何を学んだかというと、何一つ学んではいないのだが、それでも人間関係だけは微妙に変わったように思う。
 少なくともイタリアにいた頃には、同年代の少年少女に気楽に声をかけられるということはまず有り得なかったし、誰かから特別な好意を寄せられたこともなかった。
 昔なら、差し伸べられた手を跳ね除けることに何のためらいも罪悪感もなかったのに、今は、獄寺の本当の姿を知らないからこその好意だと分かっていても、向けられた感情を拒絶することは、獄寺の心に小さな後味の悪さを残してゆく。
 ──好きな人に好きだと告げることが、どんなに勇気の要ることか。
 ──好きな人に拒絶されるのが、どんなに辛いか。
 そんな彼女たちの気持ちが容易に理解できるからこそ、冷たく接することが彼女たちのためだと頭では分かっているのに、罪悪感めいた感情を振り払いきれない。
「俺もまだまだ甘いな……」
 溜息をつきながらも獄寺は、女生徒を階段の踊り場に残して教室に戻った時、自分に向けられた綱吉の表情を思い返す。
 それはいつもの、獄寺が少女たちの好意を拒絶して戻ってきた時の表情とは、微妙に違っていた。
 それで気付いたのだ。自分が傍を離れていた間に、彼もまた、同じ状況に遭っていたことを。
 そして彼も自分と同じように、好意をすげなく拒絶したのだと。
 いつの頃からかというと定かではないが、高校に入った頃からは明確に、綱吉は同年代の少女たちの関心の対象となっており、その数は月日を追うごとに増えていっている。
 告白劇など日常茶飯事、というと言い過ぎだが、それでも月に一度くらいはあるのではないだろうか。バレンタインデーやクリスマスといったイベント時には、それこそ数え切れないくらいの女生徒が近寄ってくる。
 だが、綱吉は一度も彼女たちの好意に応えたことはなかった。
 どんな断り方をしているのかは分からないが、一度振られた少女が再度、寄ってくることはない以上、相当にきっぱりと拒絶しているのだろう。
 その結果として、綱吉はリボーンが恋愛を禁じているわけでもないのに、彼女を作ったことは一度もなかったし、誰かに恋をしているような素振りを見せたこともなかった。
 綱吉が誰を好きか、ということについては獄寺は考えたことがない。というよりも、考えないようにしていた。
 考えても仕方のないことだからだ。
 中学生の頃、綱吉が笹川京子に淡い憧れを抱いていたことは知っているし、ハルが綱吉の素性を知った上で好意を示し、綱吉が友人レベルではあってもその好意を受け入れていることも知っている。
 けれど、それらは全て自分には関係のないことだ、と切り捨てるようにしていた。
 考え始めてしまえば、泥沼にはまる。
 他の誰も選ばないで下さいと、信頼以上のものを俺に下さいと叫びたくなるのは目に見えていたから、獄寺は敢えて、綱吉のそういった面からは目をそらし続けていた。
 だが、それでも心は正直なもので、今日のように綱吉が寄せられた好意を拒絶するたび、安堵する自分がいるのも確かな事実で、そのことが少しばかり苦しかった。
「───…」
 溜息を一つついて、獄寺は取り出した煙草に火をつける。
 手に届かない人を好きになったのだと気付いてから、かれこれ三年近くになる。
 だが、想いが報われないままであっても、獄寺は、今の自分の立ち居地に満足していた。
 出会った頃とは違う確かな信頼を、今の綱吉は自分に寄せてくれている。必要とあれば、いつでも彼の傍にいて、彼を守ることができる。
 まだ名実共にボンゴレの十代目と、その補佐役となったわけではないが、夢見ていたことはほぼ叶えられたといっていい。
 けれど、それでもまだどうしようもない欲が、獄寺の裡にはくすぶっているのだ。
 どんな氷水をかけられても消せない炎が、獄寺を誰よりも強くもすれば、誰よりも弱くもする。
(あなたが……好きです)
 たとえ聞く者がいなくとも、口に出して言うことすらできない。
 一度口に出してしまえば、想いは無限に膨れ上がる。分かっているから、心の中で呟くだけだ。
 目を閉じて、獄寺は昼間、涙目で廊下を駆けていった短い髪の女生徒を思い返す。
 たとえ実らない恋であったとしても、好きな人に好きだと言えた少女が、少しだけ羨ましい、と思った。



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