誰が為に陽は昇る 12
開け放たれたままの教室のドアの向こうから女生徒二人の姿が現れたとき、綱吉は半歩前にいた獄寺がわずかに身構えるのを感じた。
教室内には、もう自分たち以外誰も居ない。
廊下にはまだ生徒たちの声が遠く行き交っているが、自分たちを狙って襲撃しようというのなら、今は絶好の機会だろう。
だが、獄寺君、と綱吉は小さく呼んで、その行動を制する。
現れた女生徒二人には、見覚えがあった。片方は一年生の時に同じクラスだったし、もう一人も隣りのクラスの女子で、生物の合同授業の時に見かける顔だ。
そして、二人は明らかに緊張し、わずかに紅潮した面持ちでこちらを見ており、殺気などとは無縁であることが一目で分かる。
これは、と思うと同時に、
「あ、あの……!」
隣りのクラスのセミロングの髪を明るい茶に染めた少女が、顔を真っ赤にしながら上ずった声で呼びかける。
「獄寺君に、話があるんだけど……」
ああやっぱり、と予想が当たったことに内心、溜息をつきながらも、綱吉は表情には出さずに、こちらを振り返った獄寺にいつもと同じ笑みを向けた。
「いいよ。行ってあげなよ」
「──はい。すぐ戻りますから」
「急がなくていいからね」
あくまでも平静な綱吉に対し、獄寺はその瞳にほのかに苦々しいものをたたえていたが、それ以上は何も言わずに、茶髪の女生徒と廊下へ出て行く。
もう一人のショートカットの女生徒は、彼女の付き添いということだったのだろう。わずかに友人の後姿を見送った後、少しばかり所在なさげに出入り口の柱に背を寄りかからせた。
こういう時に友人に付き添いを頼む、という心理は男である綱吉には全く分からない。
だが、女の子というものは、男なら絶対に連れ立ってゆかないような場所にも必ず一緒にゆくものだということは、京子やハルを見ていて知っていたから、この状況にもさほど戸惑わなかった。
どうやらお互いに相棒が戻ってくるのを一緒に待つしかないらしい、と妙な微苦笑を覚えつつ、綱吉は手にしていた学生鞄を手近な机の上に置く。
と、かつてのクラスメイトだったショートカットの女生徒が口を開いた。
「ねえ、沢田君と獄寺君って、どういう関係?」
「どうって、友達だけど?」
「友達に見えないから、聞いてるんだけど……」
それはもっともな言い分だった。同級生の傍に四六時中張り付き、しかも敬語で接する獄寺の態度が普通の高校生の友情に見えるのであれば、そいつは間違いなく病院で視力検査を受けたほうがいいだろう。
しかし正直に答えるわけにはいかないし、答えたところで、自分たちがマフィアの関係者だという事実は、はっきりいって全く真実味がない。
さて、どうごまかしたものか、と綱吉は思考を巡らせる。
これまでの経験からいうと、百パーセントの嘘を信じてもらうのは難しく、半分ほど真実が入り混じった嘘なら案外、人はすんなりと信じたりするものだ。
だから、綱吉はためらいなく後者を選んだ。
「……あんまり人に言わないで欲しいんだけど。獄寺君が子供の頃、家族と上手くいっていなかった時に、俺の家で獄寺君の世話をしてあげたことがあってね。獄寺君は、ああ見えてもすごく律儀でマジメな所があるから。今でも俺や俺の家族に対して、めちゃくちゃ気を使ってくれてるんだよ」
「──そうなの?」
「うん。だけど、俺が話したっていうのは内緒ね。俺、獄寺君に嫌な思い、させたくないから。他の人にも言わないで」
「……うん」
それきり黙った女生徒に、うまく信じてもらえたかな、と思いながら綱吉は、獄寺ともう一人の女生徒のことを考える。
──中学時代に比べると人当たりの棘が幾分少なくなったものの、高校に入っても、獄寺はその鋭い容貌と着崩した制服や幾つものアクセサリーのために、どちらかといえば周囲に敬遠される生徒だった。
だが、対照的に人当たりのやわらかい綱吉が常に傍にいるせいか、徐々にクラスメートたちも獄寺の存在に慣れ、三年生ともなった今は、休み中の予定を打診される程度には親しみを持たれるようになっている。
しかし、獄寺の方はといえば、相変わらず自分から他人に声をかけることはしなかった。
朝夕の挨拶の呼びかけには無愛想ながらも応じるし、話しかけられれば短い受け答えもするが、それ以上のことはなく、冷たくならないギリギリの線で他人と接している。
その姿には、かつてのような人間不信、人間嫌いの気配はないものの、打ち解けるほどには他人に気を許せずにいる獄寺の心の影が、綱吉には感じ取ることができた。
だが、生まれた時からマフィアの世界で生きてきた獄寺にとっては、本当にそれがギリギリのラインなのだ。それが分かっているから、綱吉は獄寺の態度について、あれこれ口にしたことはない。
見知ったクラスメートであっても、ここが平穏な国の平穏な学校だと分かっていても、決してすべてを信用することはできない。──それはもう、綱吉が当たり前に嘘を口にするようになったことと同様、どうしようもないことなのだ。
だから、無理に一般人のように振舞う必要はない。彼は彼らしくあれば、それでいい。綱吉はボスとして、その全てを受け止めるだけだ。
けれど、と思う。
あの女生徒は、そんなことは知らない。
彼女だけでなく、この学校の誰も、本当の獄寺を知らない。
知らないのに獄寺のことを好きになってしまった少女が、少しだけ可哀想だと思った。
彼女が普通の日本の少女である以上、獄寺は決して彼女を近づけない。興味がないからでもあるし、いわれのない危険に巻き込まないためにも、決して彼女に情をかけない。
本当の彼は、他人を傷つける事に後ろめたさを感じる優しい人間なのに、ファミリーと相手のために残酷なくらいに冷たく好意を拒絶する。
そのことを少しだけ悲しい、と綱吉は思った。
「──ねえ」
ともすれば沈み込みそうだった思考を、少女の細い声が断ち切る。
「何?」
「あの二人、うまくいくと思う?」
「……どうかな」
「獄寺君は、付き合ってる子とかはいないんだよね?」
「それはいないけど……」
俺には分からない、と結末を知っていても、綱吉は答える。他に答えようがなかった。
けれど、とりとめのないような女生徒の声は、もう一つ、綱吉にボールを投げてくる。
「……じゃあ、沢田君は」
「え」
「沢田君は、好きな人とかいないの?」
これには少しだけ驚いて、綱吉は女生徒を見る。
彼女は相変わらず出入り口の柱に背を寄りかからせていて、そしてうつむいた表情は見えない。けれど、ショートカットの髪の間から見える耳が、赤い。
俺もかよ、と内心で突っ込みながら、綱吉は何にも気付かないふりで雑談のように続けた。
「好きな人は、いるよ。すごく綺麗で、優しくて、何にでも一生懸命な人」
「……誰?」
「それは内緒。本人に言う前に、誰かに言うことじゃないだろ」
「……そうだけど」
ごめんね、と心の中で呟いて、綱吉は空気が固形化したような、気まずい沈黙をやり過ごす。
と、程なく一人分の足音が教室に近付いてきて、女生徒がぱっと廊下に出て行き、その相手と二言三言交わしてから、走り去ってゆく。
入れ替わりに教室に入ってきた獄寺に、綱吉はいたわるような、同類相憐れむような曖昧な笑みを向けた。
「帰ろっか」
「──はい。お待たせしてすみません」
「謝られるほど待ってないよ」
何事も無かったかのように、連れ立って教室を出る。
綱吉も獄寺も、互いに何も言わず、何も聞きもしなかった。黙って廊下を歩いて、正面玄関へと向かう。
そして、靴を履き替えて玄関を出た瞬間に目を射た夏の陽射しに、綱吉は瞳を細めた。
───きっとあの二人の女生徒は、これから肩を寄せ合って泣くのだろう。
実らなかった恋を泣いて、嘆いて、そしていつかは、きっとまた新しい恋をする。
自分たちではない、他の誰かに。
「あとちょっとでお昼だよね。ついでだから、駅前で何か食べてから帰ろうよ」
「そうっスね」
梅雨明け宣言が出たばかりの夏空は、晴れてはいても多過ぎる水蒸気に淡く煙っている。
その空を見るともなしに見上げ、彼女たちが次にする恋は幸せな恋だといい、と欺瞞だと思いながらも綱吉は心に呟いた。
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