誰が為に陽は昇る 09

「ただいま」
「おう」
 綱吉が自分の部屋のドアを開けると、早々と専用のハンモックに転がった家庭教師が、そのままの姿勢で返事を返してきた。
 見たところ、まだ寝る気はなさそうだったが、かといって階下でエスプレッソを飲みながら奈々と話をする気分でもないのだろう。
 考え事というほどのことではなく、ただ一人きりの時間をゆっくりと感じたい。そんな雰囲気だった。
「山本、元気そうだったよ。この前会った時よりも、もっと日に焼けて黒くなってた」
「だろーな。あいつは手抜きなんかできねーやつだ」
「うん」
 野球も、そして剣も。
 いつでも山本は直球勝負、真剣勝負で、相手を傷つけたくないという思いは強くとも、だからといって勝負を譲るような真似は決してしない。
 そして、そのために、自分にも妥協せずに鍛錬を、それも楽しみながら続けることができる。
 山本はその明朗快活な性格といい友情の厚さといい、元から美点の多い人間だが、一度決めたことを決してひるがえさず、努力し続ける忍耐強さも、また比類ない長所の一つだった。
「甲子園、優勝する気満々みたいだったよ。まだ県大会も始まってないんだけどさ」
「当然だろ。負けるつもりで勝負するアホがどこにいる。そもそも山本も俺の生徒の一人だ。決勝は完全試合で優勝しなきゃ許さねえぞ」
「またそんな無茶を……」
 綱吉は野球にはさほど興味はないが、いわゆるノーヒットノーランの完全試合など滅多にできないことくらいは知っている。
 だから、リボーンがまた無茶を言い出したと思ったのだが、しかし、リボーンは可能性がゼロであることを強要するような家庭教師でもない。山本ならやれると本当に思っているのだろうと見当をつけたが、それについては口には出さなかった。
「とにかく甲子園の準決勝からは、応援に行くって言っといた。お前も行くだろ?」
「もちろんだ」
 実に彼らしいリボーンの即答に、綱吉は小さく微笑む。
 普段はクールで、時には冷淡にすら見えるのに、自分の生徒が試されるような場面には、リボーンは必ず立ち合い、そうしなかったことはこれまで一度も無い。
 綱吉自身、リボーンが勝負に手を出しはしなくとも戦いの場に臨席していてくれることを、心強く思ったことが何度あったか知れなかった。
(そう。リボーンは俺の家庭教師なんだ)
 数々の修羅場をくぐり、多くの生徒を育て上げてきた彼には、今の自分の心理など白い紙に大きくマジックで書いたように透けて見えていることだろう。
 けれど、彼は何も言わない。
 綱吉が間違った判断をしそうになるまで口出しすることは無く、正しいと思われる方向に決意を定めた時だけ、いつもの無表情を少しだけ崩して笑うのだ。
 ならば、今の綱吉がすべきことは一つだけだった。
(自分で……考えなきゃ)
 守るということがどういうことなのか、どうすれば大切な人々を守ることになるのか。
 自分で出さなかった答えなど答えではないとリボーンに教えられて、もう何年にもなる。
 だが、そうと分かっていても、これは一人で回答を出すには余る、とてつもない問いであるように綱吉には思われた。
(少なくとも今夜一晩考えて、答えが出るようなことじゃないよな)
 リボーンに悩んでいることを気付かれないようにと思うのは、無駄な行為でしかない。
 だから綱吉は、途方に暮れた溜息を一つついて、気になっていたもう一つの事柄へと思考を切り替えた。
「なぁ、リボーン」
「何だ」
「イタリア旅行のことだけど……お前が反対しなかったのは、何でかと思って」
 先日、その話を夕食後の席で切り出した時、リボーンは反対するどころか、むしろ援護射撃をしてくれた。
 「大丈夫だろう」というささやかな発言だったが、あれは母が決心するには十分な一言だったように綱吉には思える。
 だが、綱吉の心理も獄寺の心理も見透かしているだろうリボーンが、二人きりでの旅行をすんなり認めたということが、綱吉にとっては不可解だった。
「理由が必要か」
「……うん」
 頭の後ろで両腕を組み、目深にボルサリーノのソフト帽をかぶって半ば表情を隠したリボーンの問いかけに、綱吉はうなずく。
 自分が、いつになく神経質になっているという自覚はあった。
 一月ほど前に自覚した自分の中にある想いについて、獄寺に恋をしたこと自体に後ろめたさはないものの、次代のドンとしては咎められるべき感情だということは分かっていたから、自然、リボーンの言動にも過敏に反応してしまう。
 晴れて両想いになれないことは承知しているから、綱吉としてもこの恋に何をも望むつもりはないが、唯一つ、獄寺と引き離されるような事態だけは絶対に避けたかった。
 そればかりは、何がどうあっても耐えられるとは思えない。
 そして、リボーンはそうできる権限を持っている人物なのだ。
 だから、綱吉はリボーンの反応が怖かった。
「ツナ」
 短い沈黙を挟んだリボーンの声は、静かで落ち着いていた。
「俺はな、お前と獄寺はアホだが馬鹿じゃねえと思ってる。そして、お前がこの時期にイタリアに行くのは、どう転んだって無駄にはならねえ。なら、後はお前たちの自己責任だ」
「自己責任……」
「そうだ。そもそもお前たちが言い出したことなんだからな。──だがな、ツナ。お前らが馬鹿な答えを持って帰ってきたら俺は容赦しねえぞ。それだけは肝に銘じとけ」
「……分かった」
 正確には分かっている、と答えるべきだった。
 そう、最初から分かっていた。
 リボーンは綱吉の……ボンゴレ十代目の家庭教師であり、他の何者でもない。クールに生徒を一人前に仕立て上げようとする彼の選ぶ道はいつでも明快で、揺らぐことは無いのだ。
 ただ、そうと分かっていても、今回ばかりははっきりと言葉で聞きたかった。
 それはリボーンに対する綱吉の甘えだっただろう。だが、珍しくも彼がその甘えを許してくれたことに、綱吉は心の中でそっと感謝しながら口を開く。
「リボーン。俺は……これ以上、お前を失望させる気はないから。ちゃんとイタリアに行って、あの国を見て帰ってくる。それは約束するから」
「何言ってんだ、馬鹿ツナ」
「え?」
「言っとくが、俺はお前に失望したことなんざ一度もねーぞ。勝手に決め付けんな」
 驚いて見れば、ハンモックの上に転がったままリボーンは面白げに笑ってこちらを見ていて。
「ま、ダメダメなのは間違いねえがな。もともと俺に家庭教師の依頼が来るのは、もう手の施しようがねーっていう究極にダメダメな奴だけに限られてんだ。お前といい、ディーノといいな」
「リボーン……」
 褒め言葉と受け取るには微妙な、だが明らかに自分を肯定してくれているリボーンの言葉に綱吉は戸惑い、返す言葉を失う。
 そして、困ったまま小さく笑った。
「ありがと、リボーン」
「礼を言うのは、まだ早えぞ」
「うん。分かってるけど」
 それでも、リボーンは綱吉を否定しなかった。その心の中にある想いも。
 もちろん決して許されたわけではない。だが、頭ごなしに否定されなかったことで、ようやくここしばらく張り詰めていた肩の力が抜けるのを綱吉は感じる。
 久しぶりに今夜は良く眠れそうだ、と思いながら、綱吉はリボーンとの会話に切りをつけ、風呂に行く支度を始めた。



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