目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえ 11

 綱吉を自宅まで送って帰る夜道の風は、快かった。
 今朝あんなにも最低な気分だったことが嘘のように、心は凪いでいる。
 それどころか、ほわほわと温かいもので満たされていて、これが幸せというものだろうか、と獄寺は考えた。
 現金なものだとは自分でも思うが、どうしようもないくらいに最低最悪な自分を綱吉が「そのままでいい」と肯定してくれた、そのことだけで痛んで仕方がなかった心のささくれが綺麗に消えてしまったのだ。
 やっぱり十代目はすごい、と呟きながら獄寺は自分の部屋があるマンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。
 もちろん、肯定してもらえたとはいえ、綱吉の言葉に甘えるつもりは獄寺にはなかった。
 これまで綱吉の負担にばかりなってきたことは事実であるし、今の自分には至らない部分が多すぎる。
 真実彼の右腕に似合う自分になるためには、変わらなければいけない。その思いは、今朝と変わらず獄寺の中にあった。
(──いや、同じじゃねえな)
 朝の感情は、どうしようもない悲壮感と絶望感が隣り合わせだったが、今は違う。
 大切な人のために強くなろう、少しでもマシな人間になろう。そんな真っ直ぐな想いが、獄寺の背筋を貫いている。
 そのことが何よりも幸せだ、と感じた。
 この喜びは、すさんで歪み、捻じ曲がった日々の経験を持つ者にしか分からないだろう。
 もう一度、日の光を浴びて真っ直ぐに伸びられることが、それを許されたことがどれほど心を明るく、輝きに満ちたものに変えるのか。
 すべてが綱吉との出会いのおかげだと思うと、それだけで獄寺の口元はほころんだ。
「やっぱ俺、十代目がすっげー好きだなー」
 エレベーターの筐体から降りながら、全身に満ちる温かな思いに促されるままにそう呟いて。
 数歩歩いて、
「……あ、れ?」
 獄寺はよろめくように足を止める。
「俺……」
 別におかしなことを口走ったわけではない。
 獄寺は出会ったその日から綱吉に忠誠を誓ってきたし、誰よりも敬愛してきた。ボスとしても一人の人間としても、彼がとても好きだと素直に思う。
 傍にいたいし、笑顔を見たり、声を聞いたりすると、それだけで幸せになれる。嬉しくて叫びたくなる。
 だが。
 ───どんな風に、どれくらいまで『好き』なのか。
 初めて、獄寺はその基準の存在につまづいて、そこに立ち止まったまま、めまぐるしく思考を巡らせた。
 もともと獄寺の他人に対する許容範囲は、決して広くはない。だが、幾人かのいい意味での例外はあって、たとえば、イタリア本国のボンゴレ九代目も、心の底から尊敬しているし立派な人だと思う。
 シャマルはあちらこちら気に食わないところだらけだが、それでもすごい奴だと思う。
 綱吉の両親も、あの十代目の御両親というだけで尊敬に値するし、人間的にも愛情に満ちた素晴らしい人たちだ。
 山本や笹川兄、ヒバリは、顔を見るだけでむかつく部分もあるが、本音の所では悪くない連中だとこっそり思っている。
 他にも、『気に食わないが、まぁ存在を許せる』連中は、こうして考えると案外いる。
 だが、どれほど考えても、手放しに『好き』だと思えるのは、綱吉一人しかいなかった。
「十代、目」
 獄寺はこれまで、恋愛感情で誰かを好きになったことがない。
 仕えるべきボスを持ったのも、綱吉が初めてであり、だからこそ、判断すべき基準が分からなかった。
 どこまで好きになったら、それはボスに対する敬愛の域を超えるのか。
 どんな風に好きになったら、それは敬愛の念ではなくなるのか。
 気持ちを正直に綴るなら、獄寺は綱吉の全てが好きだったし、世界中の何よりも綱吉が大切だったし、綱吉のためなら自分が死んでも構わなかった。
 そんな風にボスを絶対の神のようにしてしまう部下は、世間でも決して珍しくはない。環境が特殊で過酷であればあるほど、その傾向は強くなる。
 戦場において部下が上官を、暗黒世界において部下がボスを全面的に信頼し、尊敬していなければ、それは即、死に繋がることを知っているから、部下は命を預けられるボスを求め、ボスも絶対的な忠誠を誓う部下を求める。それは人間の情愛というよりも、むしろ生き延びようとする動物の本能であり、自然の摂理と呼んでもいい心の動きだろう。
 そして、生まれた時からマフィアの世界に身を置いていた獄寺にとっては、命がけの忠誠に値するボスを求める想いは、もはや本能に近い感情だった。
 なのに、獄寺は今、自分の何気ない呟きに引っかかり、そのまま流してしまうことができないでいる。
 自分がボスを好きで、大切に思っているのは当たり前のことなのに、なぜ今更、たった一言につまづき、立ち止まっているのか。
 分からない、と苛立ちかけた時。
 ふと脳裏で何かが閃いた。
「あー……」
 あれはもう、今から一年以上前のことになる。
 ボンゴレ十代目の座を懸けたリング戦の最中で、初対面のクローム・髑髏が綱吉に好意を示して頬にキスしたのを目の当たりにして、獄寺は激昂したことがあった。
 彼女ばかりでなく、綱吉の正妻になると公言してはばからないハルのことは最初から大嫌いだし、綱吉が憧れている京子については、彼女自身には欠点らしい欠点がないのに、どうにも苦手意識があって、彼女と話す時にはつい身構えないではいられない。
 それらの感情と、いま自分の呟きに引っかかったことが一本の糸に繋がるのなら。
「俺は……」
 獄寺は顔を上げ、マンションの廊下の窓から、綱吉の家がある方角へとまなざしを向ける。
 十代目、と心の中で呟いた時、じわりと重苦しい、それでいて甘いような痛みが心臓の辺りに広がった。
 その痛みに気付いたとき、獄寺はもう自分が、何にも気づいていなかった頃には戻れないことを、砂漠の中に立ち尽くしているような茫漠とした思いと共に悟った。



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