目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえ 12

 恋をして髪を切るなんて、感傷的な少女のようだと思わないではなかった。
 もっとも、想いを断ち切ろうとして、その象徴に髪を短くしたわけではない。
 ただ、この数日間の間に自分はめまぐるしく変わった、その一つのけじめとして、肩につくかつかないかの長さでずっと通してきた髪を切ろうと思った。それだけのことだ。
 リボーンに自分の幼稚さについて指摘を受けたのが火曜日、綱吉と話をして、その後、自分の感情の在り方に疑問を抱いたのが水曜日。
 そして木曜日、金曜日と獄寺は自分を観察することに費やし、土曜の丸一日をかけて観察結果を分析して確信に至り、日曜日にそれをどう受け入れるか考えて、髪を切ることに決めた。
 久しぶりに耳の出る長さにすると、今度はなんだか物足りないような気がして、両耳にピアスを開けたのは単なるおまけだったが、悪い判断ではなかったと獄寺自身は思っている。
 髪はまた伸びるが、ピアス穴は常にそこに異物を通しておけば、半永久的に塞がることはないからだ。そちらの方が、何かの象徴としては都合が良かった。
「十代目……、沢田綱吉さん、か」
 慣れない短い髪の感触にまだ少し違和感を感じながら、獄寺は呟く。
 ありふれた響きの名前を呟くだけで、甘くてじわりと重く、切ないような感情が胸を締め付ける。
  だが、獄寺はその感覚を嫌だとは思わなかったし、否定してなかったことにしようとも思わなかった。
 むしろ、これが自分だ、という思いの方を強く感じる。
「俺って案外、打たれ強かったんだなー」
 結局の所、指折り数えてみれば、獄寺が自分の恋心に気付いて思い悩んだのは木曜から土曜の三日間だけだった。
 思ったよりも落ち込みが浅く、期間も短かったことに自分でも感心しながら、獄寺は朝早い空を見上げる。
 決して報われない恋、更にいうなら、報われることを望んではいけない恋をしたのだから、本来の自分の性格上、地球の裏側に突き抜けるくらいに激しく落ち込んでもおかしくないのに、そうはならなかったのは、やはり相手が相手だったからだろう。
 この想いは──とりわけこの想いから生まれる独占欲は、十代目のためにならない。自覚と同時にそう悟ってしまったら、落ち込むよりも先に、この先どうするかを考えなければならなかったのだ。
 もちろん自分の心に気付いた当初、突然砂漠の真ん中に放り出されたかのように途方に暮れたことは否定しない。
 怖かったし、とんでもないことだとも思った。
 けれど、どこか無意識で獄寺は、その砂漠の上には満天の星が輝き、地平線の向こうにはオアシスがあることを確信していたのだ。
 そして言うまでもなく、迷い人を導く星は綱吉であり、渇きを癒してくれるオアシスも綱吉だった。
 綱吉を想うことから生まれる絶望と悲哀さえ、綱吉が導いて癒してくれる。そう気付いたとき、獄寺はこの恋について嘆くのはやめようと決めた。
 第一、どれほど嘆こうと、どう足掻こうと、この先、綱吉に対する想いが薄れるとは思えない。
 そう確信できるくらいに、獄寺は綱吉が好きだったし、綱吉が存在の全てだった。
 ならば、事あるごとに沸き起こる胸の痛みにも、いずれ慣れっこになって、それが当たり前になるだろう。そうなる日を、一日でも早くと願いながら待つしかない、と割り切ることにしたのだ。
 それに、決して報われない想いではあっても、それがイコール不幸というわけではない。
 少なくとも綱吉は獄寺が傍にいることを受け入れ、存在が失われることを惜しんでくれる。
 獄寺に良くないことがあれば心配し、良いことがあれば本人以上に喜んでくれる。
 それらの感情表現は恋とはかけ離れたものではあったけれど、一番大切な人からそんな優しい心を向けられるのは、間違いなく幸せなことだった。
 もちろん、彼を好きなのだから、笑顔が自分だけに向けられたものであってほしい、他の人間と親しくして欲しくないというような欲は、どうやっても付きまとう。
 そればかりはどうしようもなさそうだったから、仕方がないと諦めて、感情を表面に出すことだけを控えるつもりだった。
「俺は、あの人の傍に居られればいい。あの人の役に立てたら、それでいい……」
 この週末、何度も自分に言い聞かせた言葉を、そっと空に向かって繰り返す。
 もちろん、今はこうして割り切ったつもりでいても、この先事あるごとに、この想いは自分を苦しめることは分かっている。
 恋をしたのは初めてだが、幼くして家を出て街を彷徨っていた獄寺は、恋に狂った男や女の姿を幾度も目にしたことがあった。それに自分の性格を考え合わせれば、おそらく死にたいくらいに辛い思いをすることもあるだろうという程度の予想はつく。
 だが、それでもやっぱり好きなものは好きなのだ。
 離れられないし、離れたくない。
 無理に引き離されるようなことにでもなれば、それが命令であれば従いはしても、きっと綱吉の傍を離れた瞬間から、自分の心は壊れ始めるだろう。
 だったら、傍にいるためには、想いを隠したまま、十代目の右腕として真実ふさわしい存在になるしかない。
 そう覚悟を決めてしまえば、あとはもうやるべきことは、一つのけじめとして髪を切ることくらいだった。
「んー。でもやっぱ慣れねえなぁ」
 極端に短くしたわけではないが、それでも長さ自体は切る前の半分程度といったところだろう。
 耳をかすめる毛先の感触に眉をしかめながらも、獄寺は沢田家の門前で足を止める。
 携帯電話の時刻表示を確認すると、あと五分もすれば綱吉が出てくる頃合の時間だった。
(あ、やべ。緊張してきた)
 想いを自覚して、髪を切って、ピアスを開けて。
 他人の目には大して変わりなく見えても、獄寺の中では、ほんの数日の間にあまりにも色々変わりすぎた。
 綱吉が出てきた時の自分の反応や、少しばかり外見を変えた自分に対する綱吉の反応を考えるだけで、何やら背筋がむずむずとして胃が締め付けられるような感じがする。
(赤面したらどうしよう、……って考えてると余計緊張するだろ。考えるな俺!)
 心頭滅却、心頭滅却、と異教の呪文を脳裏で唱えていると、ガチャリと玄関のドアが開く音がして、獄寺はぱっと目を開けた。
「行ってきまーす」
 いつもの明るい声と共に、足音軽く綱吉が玄関を出てくる。
 そして、
「獄寺君、おはよう」
 そう言いながら門扉を開けた所で、綱吉は、あ、と短く声をあげて足を止めた。
「おはようございます、十代目」
「髪、切ったんだ。……あ、ピアスも?」
 目を丸くしながら近付いてきて、しげしげと頭半分背の高い獄寺を見上げる。そのまなざしに、獄寺は少しばかり体温が上昇するのを自覚した。
 だが。
(……コレってなんか、いつもと同じ気が……)
 思い起こせば、綱吉の姿を見るだけで嬉しくなり、事あるごとに感情を乱高下させていたのは、一番最初の出会いの時からずっとの話である。
 むしろ自覚がなかった分、その表現は激しく、あらわであったような気さえする。
(もしかして……アホ牛と同じくらいうざくねーか、俺)
 今から思うと、よく綱吉が呆れもせずにこの過剰反応に付き合ってくれたものだと、その心の広さに感謝感激するしかない。
 俺って……、と過去の自分に対する自己嫌悪で少しばかり虚しくなりながらも、獄寺は注意を綱吉の方に戻した。
「ピアス開けるの、痛くなかった?」
「大したことなかったっスよ」
「ふぅん」
 感心したように獄寺の耳元に見入っていた綱吉は、一歩下がって改めて眺め、そして少しばかり控えめな印象の、彼らしい笑みを浮かべて。
「似合ってると思うよ。髪形も、ピアスも」
 何でもない賛辞に、かっと全身が熱くなる。
 嬉しい、という思いと、この人が好きだ、という想いが鼓動と共に全身を駆け巡る。
 が、獄寺はそんな自分をぐっと抑えた。
「ありがとうございます、十代目」
 ここで感情を全て出してしまったら、何のために髪を切ったのか分からない。
 だから、いつもよりも少しだけ控えめに嬉しさを伝えると、綱吉は特に気にする様子もなく、うん、とうなずいてから、少しだけ慌てた顔になった。
「あ、急がないと遅刻しちゃうよ」
「そうっスね。行きましょうか」
「うん」
 並んで歩き出しながら、これでいいのだ、と獄寺は思う。
 突然全てを変えるのは無理だし、無理にそうしようとすれば、今度は綱吉に心配させることになる。
 だから一つ一つ、静かに変わってゆけばいいのだ。
 気付いたら、変わっていた。そんな風にさりげなく、自然に。
 そして一ヵ月後、一年後には、今よりも強く、思慮深くて優しい、彼の右腕にふさわしい人間になっているように。
(大丈夫、俺は変われる)
 この人が好きだから。
 誰よりも大切で、傍にいたいから。
 そのためになら変わってみせる。
 そう心に呟きながら、獄寺は携帯電話の時刻表示を確認して、小さく眉をしかめた。
 門前での立ち話はほんの数分のものだったが、そもそも綱吉が玄関を出てくるのは、いつでも少々ギリギリのタイミングなのである。ほんの数分の道草が命取りになりかねないのだ。
「うーん。こりゃあマジで急がないと遅刻っすね」
「だよね。……走る?」
「はい。俺は構いませんけど、十代目を遅刻させるわけにはいきませんから」
「獄寺君だって、遅刻は駄目だよ。じゃあ、行こっか」
 仕方がない、と慣れた通学路を駆け出した綱吉に続いて、獄寺も走り出す。
 そして、そのまま二人は振り向くことなく、校門までの道程を一息に駆け抜けた。



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