目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえ 08

 十月の半ばともなればエアコンは必要ないが、朝、窓を閉め切って出た部屋の空気は、少しだけよどんでいるように感じられた。
 それとも、よどんでいるのは自分の感情のほうなのか、分からないまま獄寺はリビングに綱吉を招き入れて、南側の窓を開ける。
 途端に、澄んだ秋の空気がふわりと流れ込んできて、獄寺は何だか少し切なくなった。
 この日本の秋の空のように綺麗で優しい人に、今の自分はふさわしくない。
 どうしてそんな簡単なことに今まで気付かなかったのだろうと、新たにやるせなさがこみ上げてくるのを感じながら、ゆっくりと振り返る。
 綱吉は、じっとこちらを見ていた。
 咎めるのではなく、むしろ自分が余計なことを言ったのではないかと、案じるような目をして。
 その気弱なほど優しい瞳の色に、ああ、と獄寺はひそかに嘆息する。
(この人を傷付けては、いけない)
 平和な国で、両親に愛されて大切に大切に育てられた子供。
 そんな彼は、人を疑うことや傷つけることは、『悪いこと』だと信じている。
 だから今も、自分に対して『悪いこと』をしてしまったのではないかと心配している。
 元はと言えば、勝手に空回って迷惑をかけ、挙句、心配をさせている自分の方が遥かに罪が重いのに、この人はそんなことは微塵も考えもしないのだ。
 世界の醜い部分を知らない、綺麗で、優しい人。
 涙が出そうだった。
 ───この人の傍にいたい。
 この人の傍で、自分は色々なことを知った。
 同年代の少年少女とただの子供のように遊ぶことの楽しさや、声を上げて笑うことの喜び。
 仲間や大切な人が傷付けられたときの怒りや悲しみ。
 信頼され、存在を求められたときに感じた、至福の感情の嵐。
 すべて、彼と出会ったときから始まった。
 誇張ではなく、本当に彼が、世界をくれたのだ。
 血と硝煙の臭いに満ちた薄汚い世界ではなく、光とあたたかさに満ち溢れた美しい世界を、こんな自分に。
 ───あなたの傍にいたい。
 彼の傍にいる限り、自分は優しくなれる。
 大切なものを守るために強くなれる。
 命が、人間が尊いものだということを思い出せる。
 ───あの頃の自分には、もう戻りたくない。
 故国でスモーキン・ボムの名を馳せていた頃の自分は、きっと底が見えないほどにすさんだ目をしていただろう。
 すべてを憎み、世界を呪っていたあの頃。
 何もかも破壊しつくしてしまいたかった。
 狂犬のように目に付いた相手すべてに喧嘩を売り、破壊し、そしていずれ、自分もゴミ屑のように野垂れ死ぬのだろうと信じて疑わなかった、幼い自分。
 そして、その幼さと凶暴さを引きずったまま、この人に出会い、全く違った価値観と強さに打ちのめされ、のぼせ上がってしまった、浅はかな自分。
 けれど、もうそんな自分ではいられないし、いたくない。
 ───俺は、変わりたい。
(ああ、そうだ)
 今のままでは自分が苦しいから変わる、などという器の小さな理由ではなく。
 どうせ変わるのなら、こんな自分でも必要だと言ってくれた人のために、誰よりも強く、大きくなりたい。
 そして、彼が大切にしている人々を妬んで苦しむのではなく、自分も彼と同じように大切に思えるようになれたら。
 きっと、世界がもう一つ、変わる。
(十代目)
 改めて、獄寺は自分が選んだ唯一人の存在を見やる。
 自分が不甲斐ない人間であることは事実だ。
 だが、より良い人間になりたいというこの思いは本物だった。
 ───だったら、逃げてはならない。
 この先も、彼の傍にいたいのなら。
 自分と彼に、まっすぐに向き合わなければならない。
 自分の中にある、彼にとっての一番の存在でありたいという想いは、おそらくどうやっても消せない。
 あまりにも彼が大切すぎて、だからこそ、自分も彼の特別でありたいと願わずにいられないのだ。
 それは美しい感情ではない。我儘で、貪欲な想いだ。
 けれど、その感情を上手く昇華できたなら、自分は真実、望む方向に変わることができるかもしれない。
 真実、誰よりも彼を思い、彼の役に立つ『右腕』になれるかもしれない。
 そんな小さくほのかな希望が、ふと獄寺の内に生まれ、淡く輝き始める。
「十代目」
「う、うん」
 銘を呼んだだけなのに、今にも「ごめん」と謝りそうな綱吉の様子に、獄寺の口元に小さく自嘲交じりの微笑みが浮かぶ。
 先程路上で感じた苛立ちは間違いなく本物だったが、澄んだ秋の風を受けてほんの少し冷静になってみれば、この優しい人が頭ごなしの命令などできるはずもないということは、とうに分かっていた当たり前の話にすぎない。
 そして自分もまた、そんな彼に一抹のもどかしさを感じつつも、惹かれ、その優しさを損ねたくないと思ったのではなかったか。
 頭ごなしの命令をすることを嫌い、部下の一人一人の身を家族のように案じる、一見ボスらしくない、けれど最高のボス。
 そんな彼に相応しいのは、この人らしさを損ねない、思慮深い右腕だ。
 少なくとも、今の自分ではない。
 そう腹をくくって、獄寺はソファーに腰を下ろしている綱吉の向かい側に自分も座る。
 そして、話を切り出した。
「まず、あなたに謝らなけりゃいけないことがあります」
「え……?」
 告げた途端、綱吉の瞳が不思議そうに丸くなる。
 その琥珀に透ける色合いを見つめながら、正直に話せる部分は話そう、と獄寺は決意した。
「これまでの俺の態度、です」
「君の……?」
「はい」
 まっすぐに獄寺は、綱吉の目を見る。
 今朝、見るのがあれほど怖いと思った、綺麗な瞳。
 今もまだ、目を合わせるのは怖かった。けれど、獄寺は目を逸らさない。
 そして、静かに話し始めた。



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