目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえ 07

 結局この日、綱吉は学校にいる間は何も言ってこなかった。
 休み時間ばかりでなく授業中もちらちらと獄寺を気にしている素振りは見せていたが、綱吉の反応はそれだけで、獄寺はそれに気付かないふりをしながら、何とも言いがたい居心地の悪さと、後ろめたさに満ちた安堵を感じていた。
 屋上で会話をした後、山本が、綱吉に何をどう告げたのかは分からない。
 だが、約束した以上、彼は決して余計なことは言わなかっただろう。
 あいつから話すまでそっとしておいた方がいいとか何とか、適当にぼかしてくれたはずだった。
 あの後、獄寺も四時限目からは教室に戻ったが、三者面談期間中の授業は午前中で終わりであり、昼食と清掃を終えたら、面談も部活動もない生徒は下校することになる。
 当然ながら、山本は部活へと去ってゆき、獄寺と綱吉だけが取り残される形となった。
 獄寺は気まずさから、綱吉は戸惑いからだろう。
 山本が教室を出て行った後、微妙な沈黙が二人の間に流れたが、先に「帰ろっか」と切り出したのは、綱吉の方だった。
 だが、それを受けて獄寺が、はい、といつもと同じようにうなずいた時、綱吉の目にほっとしたものが浮かんだのは、自分の気のせいだとは獄寺には思えなかった。
「──十代目…」
 昼下がりの道を綱吉のペースに合わせて歩きながら、獄寺は罪悪感に耐えかねて、そっと隣の人の銘を呼ぶ。
「あの、山本のヤローから何か聞いたかもしれませんけど、俺、御心配おかけしちまってるみたいで……」
「……うん」
 正直な綱吉の返事に、獄寺は胸を突き刺されるような痛みを覚えた。
 優しい嘘でごまかされるよりは百倍マシだが、それでも、自分の失態が原因で彼に余計な心配をさせているという現実は、獄寺には何よりも辛い。
 だが、獄寺がそれ以上何かを言う前に、綱吉が機先を制した。
「獄寺君、今日これから君の所に行ってもいい?」
「え……」
「うちに来てもらったんじゃ、皆がうるさくてちゃんと話せないと思うから」
 いつの間にか二人の足は止まっており、綱吉はまっすぐに獄寺を見上げてくる。
 不思議に透明で強い、そのまなざしから獄寺は逃げられなかった。
「獄寺君が話したくないんなら、俺も何も聞かない。でも、急に態度を変えた理由を聞く権利は、俺や山本にはあると思うんだ」
 琥珀色に陽光を透かす綱吉の瞳は、自分たちは友達ではないのかと訴えかけているようであり、また、そう信じているようでもあり、不意に獄寺は、言葉にできない苛立ちにも似た感情が込み上げるのを感じた。
 ───頭ごなしに命令してくれればいいのだ。
 考えていることをすべて話せと。
 何一つ隠すことは許さないと。
 綱吉にはそうするだけの権限がある。
 自分の命すら、その手に握っている唯一の存在なのだから。
 なのに、そんな言い方をされたら、自分の意志で選択をしなければならなくなってしまう。
 話したくないことを話す覚悟を、あるいは、自分を対等の存在であるかのように扱うこの人に一切の負担を感じさせない言い方を。
 獄寺とて、人間の尊厳というものに対する感覚が鈍いわけではない。むしろ、矜持は人一倍強いと自覚している。もし綱吉以外の人間に何か命令をされたとしたら、猛烈に反発するだろう。
 自分が認めた人間以外の言葉など、獄寺は絶対に受け入れない。
 だからこそ、獄寺は主人と認めた綱吉から絶対の信頼を受けたかったし、また、彼には自分を道具のように使いこなす絶対君主であって欲しかった。
 そしてそれが、正しいマフィアのボスと構成員の姿でもある。
 けれど、綱吉はその形を許してはくれないのだ。
 決して道具ではないのだと、対等な何かであると常に無言で訴えかけてくる。
 そして、そんな綱吉の態度は、いつでも獄寺の中に相反した反応を引き起こし、混乱させる。
 一人の人間としての自分は、対等に扱われることを……大切な人に大事に扱われることを喜んでいる。
 しかし、綱吉に忠実な右腕でありたいと思っている自分は、有能な道具として扱ってもらえないことにもどかしさを覚えている。
 その矛盾した二つの感情の相克は、今も獄寺の胸のうちで渦巻き、火花を散らしていて。
(──ああ、駄目だ)
 獄寺は綱吉のまなざしから目を逸らさないように務めながら、ぐっと拳を握り締める。
 こんな矛盾した感情を放置していたら、いつか必ず、暴発して綱吉を傷つけてしまう。
 そんな事になったら、自分は生きてはいられない。
 だから、そうなる前に選ばなければならなかった。
 今の自分を変える道を。
「──十代目」
 内心の葛藤の激しさに相反して、銘を呼んだ声は平静だった。
「うちに来ていただくのは構いません。……でも、あまり沢山のことは話せないと思います。これは、俺の問題なんです」
 そう告げると、獄寺を見上げる綱吉の目はかすかに揺れて。
「──そういう言い方はずるいよ」
「え」
 思わぬ返事に驚いて、獄寺は綱吉の顔を見直す。
 綱吉は、琥珀色の瞳に迷いと、だが強い意志を載せて獄寺を見つめていた。
「獄寺君はずるい。君の今日の態度は、俺にだって関係のあることだよ。今日の君はいつもの君じゃなかった。それが悪いって言ってるんじゃないよ。
 ただ、どうして急に変わったのか分からないから、俺も山本も心配してるんだ。これが何日かしていつもの君に戻るんなら、俺も何にも聞かない。でも、そうじゃないんだろ……?」
 こんなことを口にしてもよいのかという迷いと、何かが変わってしまうのではないかという不安と、それを上回る相手を案じる思い。
 それを正面から見せ付けられて、獄寺は身動きできなくなる。
「十代目……」
 いっそのこと、命令して欲しかった。
 綱吉が獄寺に示しているのは、茨でできたやわらかな檻だ。
 出入りは獄寺の意志で自由にできる。だが、その度ごとに全身を鋭い棘で傷つけなければならない。
 だが、逆らえなかった。
 綱吉がボスであるからというだけではない。
 獄寺が自分で選んだ、世界で一番大切な人だったから。
 うなずくことしかできなかった。
「分かりました。うちに来て下さい。それでもやっぱり、全部は話せませんが……」
「うん、それでもいいよ」
 それでもいいよ、とそう言った綱吉の声に、一瞬獄寺は目を伏せて。
 行きましょう、と綱吉を促した。



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