目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえ 05

 まるで今朝の悪夢の続きのようだ、と思った。
 すぐ傍にいるはずなのに、綱吉が見えない壁の向こうにいるかのように感じられ、声すら遠く聞こえる。
 だが、獄寺の目の前にあるのは、何の変哲もない、いつもと同じ休み時間の風景だった。
 獄寺の隣りの綱吉の席まで山本がやってきて、何やかやと綱吉に話しかけている。
 話の内容は次の授業で提出しなければならない宿題のプリントや、店頭予約が始まったばかりの新作ゲームについてで、特に目新しいことがあるわけでもない。
 獄寺はその二人の様子を、ただ頬杖をついて眺めていた。
 いつもなら山本が自分の席を離れて近付いてきただけで威嚇し、追い払おうとしていたのだが、今日はそれをせず、自分とは縁の薄い内容の会話に口を挟みもしない。
 だが、内心では、獄寺はそうしたくてたまらなかった。
 いつものように感情任せに山本に怒鳴り散らせば、おそらくこの胸のうちにあるもやもやしたものが少しは晴れる。
 そして、何を言っても飄々と受け流してしまう山本に対する、いつもの苛立ちがそれに取って代わるだろう。
 しかし、それはしてはならないことだった。
 じっくりと観察するまでもなく、山本と言葉を交わす綱吉の表情は屈託なく、楽しそうに見える。
 それを邪魔して楽しい時間を台無しにする権限など、獄寺には無いのだ。
 たったそれだけのことに、どうして指摘されるまで気付かなかったのだろうと、自分の無神経さを疎ましく思いながら、獄寺は立ち上がった。
「すみません、十代目。ちょっと一服してきます」
 これ以上この場にいるのはキツい、と言い訳と笑顔の下に本心を押し殺してそう告げ、教室の出入り口へと向かう。
「獄寺君?」
「もーじき、休み時間も終わるぜ?」
「そのうち戻りますから、気にしないで下さい」
 山本の言葉は無視して綱吉にだけ答えると、廊下へ出て、なんとなく階段のある右方向へと歩き出した。
 そして、階段の前で昇るか降りるか数秒考えてから、上へと向かう。
 幸いというべきか、階段を上りきって屋上に出るまで休み時間の終わりを告げるチャイムは鳴らず、あからさまに授業をサボる意図を教師に見咎められることもなかった。
 ゆっくりと端まで歩いて、給水塔を支える脚柱に背を預けるようにして腰を下ろし、ポケットから取り出した煙草を一本くわえて、火をつける。
 少なくとも一服したいという口実は嘘じゃねぇよな、と獄寺は一人ごちながら、空を見上げた。
 今日も良く晴れた空は、吸い込まれそうに青い。
 その透明な青が今は目に眩しく、もやもやとしたままの胸が痛んだ。
 今朝、どうにかするには大き過ぎるほどの自己嫌悪を無理やりに押し殺し、いつも通りに沢田家まで綱吉を迎えに行って、学校には来たものの、普通にふるまえている自信はまったくなかった。
 否、普通にふるまう云々以前の問題だろう。
 山本がどれほど綱吉に親しげに接しようが、他の級友が綱吉に話しかけようが、今日の獄寺は一切の反応を見せていないのだ。
 いつもと違うということは、誰もが薄々感じているはずだった。
 けれど、誰かにそれを問われた時、上手く受け答えすることは、少なくとも今はできないと獄寺には分かっている。
 何故なら、いつもと違う行動を取ることの割り切れなさ、そして、常に同じ場所にあったものが前触れなく移動したような名状しがたい違和感を一番感じているのが獄寺自身だからだ。
 だから、獄寺は教室を出てきた。
 誰かに問われることを恐れて。
 あるいは、自分の中に湧き上がる葛藤に耐えかねて。
「くそ……っ」
 逃げ出したのだということは、自分で分かっている。
 今の獄寺がしていることは、ただの逃避だ。
 戻ると綱吉に明言した以上、昼休みになる前に教室に戻らなければならないし、その後も昼休みから放課後まで、中学生の一日は長い。
 その間中、この葛藤や違和感と向き合わなければならないのだ。
 しかも、今日ばかりではなく、これからもずっと。
「慣れなきゃ、な」
 慣れるしかない。
 綱吉が誰と親しくしようと、その相手が危険な存在でない限り、黙って控えている。そんな自分に一秒でも早く生まれ変わるしかない。
 できるとかできないとか、そんなことはもはや問題ではなかった。
 そうなるしかないのだ。
 でなければ、一生この重苦しさは自分に付きまとうことになる。そんなことには到底、耐えられそうになかった。
 そして、耐えかねて糸が切れた時には、自分も周囲の人間も区別なく、滅茶苦茶に傷つけて破壊してしまうだろう。
 そうせずにはいられない破壊衝動を、獄寺は自分の内側に持っている。
 二年前に綱吉と出会ったことで、世界に対する凶悪な憎しみと敵愾心は薄れはしたが、消え去ったわけではないのだ。ともすれば、それは鎌首をもたげて、すべてを焼き尽くそうとする。
 そんな悲劇──それは偉業でも何でもなく悲劇だと今の獄寺は理解している──を招かないためには、獄寺自身が強くなるしかなかった。
「十代目……」
 脆弱な自分が強くなるためのたった一つの呪文のようなその銘を呼んで、まなざしを伏せる。
 と、その時。
「なんだ。ツナのことがどうでも良くなったわけじゃねーんだな」
 爽やかというよりも能天気に聞こえる声が、獄寺の耳を打った。



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