Five-seveN 08

「ツナさん、こっちですー」
 駅前の喫茶店に足を踏み入れ、くるりと店内を見渡すと、すぐにハルの姿は見つかった。
 正面一番奥の角のテーブルで、軽く上げた右手を振っている。
 日曜の午後、ほどほどに混み合った店内を急ぎ足で綱吉は彼女に近づき、向かい側の席に腰を下ろした。
「ごめん、待たせた?」
「いいえ。ハルも今来たとこです」
 向けられた彼女の笑顔には屈託がない。
 中学時代から変わらないその明るい笑顔に何ともいえない温もりと、その裏表に存在する痛みを覚えながら、綱吉は注文を取りに来たウェイトレスにホットコーヒーを頼んだ。
「ツナさんに会うの、久しぶりですねー」
「そうだね」
 ハルは出身中学そのものも、綱吉たちとは学区が違う。
 だから、仲間内で集まるか、彼女から会いに来る以外には基本的に接点は生まれない。
 互いに高校三年生という進路選択で多忙な学年でもあることから、綱吉がハルと最後に顔を合わせたのは、夏休みの終わりの山本の祝勝会だった。
 だが、二ヶ月で外見の何が変わるわけでもなく、ハルは肩の辺りで切りそろえた髪を、指先で耳にかけやりながら、にこにこと笑っている。
「ツナさんに会えて、ムチャクチャ嬉しいです。ハル、ずっとツナさん欠乏症でしたから」
「それじゃ何かの病気みたいじゃん」
「ハイ、病気ですよー。ハルはツナさんが居ないと寂しくて死んじゃう病なんです」
 何だよそれ、とは綱吉は言わなかった。
 ハルの気持ちは知っている。
 中学生時代から何度も何度も繰り返し、言葉を変えて繰り返されれば、否が応でも理解し、信じるしかなかった。
 ただ、そんな彼女に返す言葉を綱吉が持っていないことも事実であり、それはおそらく彼女も承知している。
 二人を繋いでいるのは、そんな物悲しい連鎖だということを知りながら笑うハルが、獄寺に向けるのとはまた違う意味で、綱吉には悲しく愛おしかった。
 そして、ウェイトレスがコーヒーとレシートをテーブルに置き、去ってゆくのを待ってから、ゆっくりと正面から彼女と目を合わせる。
「ハル」
「はい?」
 綱吉を見返すハルの表情は屈託ない。
 だが、大きな黒目がちの瞳には、不安と恐れが揺れている。それを綱吉は見逃さなかった。
 ハルと獄寺は少しだけタイプが似ている、と思う。
 一途なところや打算がないところ、そして、とても素直で正直なところが。
 獄寺がいなければ、京子に対する憧れを卒業した後には、ハルを愛せていたかもしれない。
 そんな風に考えること自体が、彼女に対し失礼でもあり残酷でもあると思いながら、綱吉は静かに口を開いた。
「ハルの進路、聞いたよ。高校を卒業したら、どうするのか」
「────」
 そう告げた途端に、彼女の表情が一瞬消え、だが、すぐにハルは困ったように笑って手元のミルクティーをスプーンでかき回した。
「獄寺さんから、ですよね?」
「うん。つい最近」
「……最近、ですか?」
 スプーンがぴたりと止まる。
 上目遣いに見上げてきたハルに、綱吉は小さく微笑んだ。
「獄寺君は、ああ見えて色々気を使う性格だから。俺の方の状況が落ち着くまで、話をするのを待っててくれたんだよ」
「……ツナさんの、状況」
「うん」
 うなずき、綱吉は自分のコーヒーカップを手元に引き寄せる。が、持ち上げて口をつけることはしない。
 果たして、このコーヒーが冷め切ってしまうまでに飲み干せるかどうか。どうにも怪しい賭けだった。
「ハルは俺の立場を知ってるし、俺がどんな結論を出すのか、もしかしたら俺よりも早く分かってたかもしれないけど。──俺はイタリアに行くよ。高校を卒業したらすぐに、皆も一緒に」
 ハルは、食い入るようなまなざしを向けてくる。
 その瞳はどんな嘘も見逃さないようであり、そして、どんな嘘も悲しみながらも受け入れる優しさをも併せ持っているように見えた。
「皆もって……獄寺さんや、山本さんですよね?」
「了平さんもだよ」
「京子ちゃんのお兄さんも……」
「うん。……正直、了平さんにはこれ以上、俺たちの世界には関わってもらわない方がいいと思ってたけど、俺を援(たす)けたいって言ってくれたから」
「そうですか……」
 うつむくハルの表情は悲しげでもあり心配げでもあり、親友の京子のことを思っているのだろうかと綱吉は考える。
 京子もまた、綱吉の事情は知っている。知っているからこそ、兄のことを信じながらも、きっと心配しているだろう。
 近いうちに彼女にも会わなければならなかった。
「それでね、ハル」
「はい」
「俺は、ハルがもし、俺たちと一緒に来たいって言うのなら、それは『駄目だ』って答えるよ。ハルは女の子だし、普通の家の子なんだから、俺たちと同じところに来るのはやっぱり許可できない。
 でも、それ以外のことを……ハルがしたいと思うことを止める権利は、俺にはない」
「───…」
 ハルはじっと綱吉を見つめる。
「──ハルは、イタリアに留学するのは良くっても、ボンゴレには入れてもらえないということですか?」
「うん」
 確固たる意思を覗かせて、綱吉はうなずいた。
「色々危ないし、やっぱりハルには法律に引っかかるようなことには関わって欲しくないんだ。組織に入ってしまえば、どうしてもそういうものに触れないわけにはいかないから。
 ──もっと正直なことを言うなら、これ以上、俺たちには関わらない方がいいと思ってる」
「それは嫌です!!」
 ハルが叫ぶ。
 その声は店内に響いて、客やウェイトレスたちがぎょっとしたようにこちらを見た。
 が、幸か不幸か、中学生時代から望みもしないのに常に騒動の中心にあり、こういう事態に慣れっこの綱吉は微苦笑しながら「ハル」とやわらかく名を呼んでたしなめる。
 すぐにハルも我に返り、顔を赤くして小さくなった。
「すみません、つい……」
「大丈夫、気にしてないよ」
 二人の様子を伺っていた店内も、痴話喧嘩だとか別れ話だとかいう興味深い内容ではないことを察したのか、すぐに向けられていたまなざしは一番隅のテーブルから逸れてゆく。
 他人の関心など、そんなものだ。
 本当に『何か』が起こらない限りは、すべて見過ごされてゆく。
 そして、危険すぎる『何か』が起きた時も、人々は逃げてゆく。
 本当の意味で他人に手を差し伸べる人間は少ないのだと、これまでの短い人生の中でも綱吉は十分すぎるほどに理解していた。
「でも、ハルは絶対に嫌です。ツナさんともう会わないなんて、できません。そんなことになったら陸に上がったお魚と一緒で、酸欠で死んじゃいます」
 小さく肩を丸めたまま、ハルは小さな声で訴える。
 それは掛け値なしの真実として、綱吉の耳に届いた。
「……うん」
「犯罪になることはしたくないですし、暴力とか怖いです。でも、ハルはツナさんの傍に居たいんです……!」
「うん」
 二人のテーブルの上で、コーヒーもミルクティーも手付かずのまま冷めてゆく一方だった。
 綱吉はそれを認識していたが、ハルはそれすらも意識には無いのか、ただひたすらに綱吉を見つめてくる。
 そのまなざしから綱吉は目を逸らさなかった。
「ハルがそう思うのを、やめろって言う権利は俺にはない。誰も俺を止められないように、誰もハルを止められない。気持ちっていうのはそういうものだろ」
「ツナさん……」
「でも、やっぱり危険なのには変わりないから。実際がどうだろうと、ハルは間違いなく、こっちの世界ではボンゴレの関係者だと思われてる。そのせいでいつ何時、危ない目に遭うか分からない。……それは分かってるよね?」
「──はい」
 唇を小さく噛みながらも、ハルは真剣な顔でうなずいた。
「それでも、イタリアに来る? 俺の居る国に」
「はい。行きます。ツナさんに何と言われても」
 綱吉の質問を聞いた途端に、大きな瞳に強い光が宿る。微塵のためらいもなくハルは答え、訴えた。
「ハルはツナさんを困らせたいわけじゃないです。ハルにもし何かが起きて、家族やツナさんを悲しませるのも嫌です。
 でも、遠く離れる方がずっとずっと辛いんです。このまま何もしなかったら、もうツナさんに会えないかもと思うだけで、死んじゃいそうなくらいに心が痛いんです。
 こんな風に考えるハルは我儘ですか? 自分の気持ちが一番大事なハルは、ひどい人間ですか……!?」
 ひたと綱吉を見つめたまま、ハルの瞳にうっすらと涙が滲む。
 苦悩と恋心と。
 ひたむきな感情を映した透明な雫は、とても綺麗で……痛みと愛おしさを同時に綱吉にもたらした。
 獄寺が言った通り、彼女の中には一途な感情しかない。
 綱吉が受け止めてやらない限り、行き場を失って粉々になってしまう、強くもろい想い。
 そしてその想いが粉々になったら、彼女という人間の一部もひび割れ、砕けてしまうだろう。
 長い月日をかければ、いつかはその傷も癒えるかもしれない。
 だが、彼女という人間そのものを、たとえ一部でも壊してしまうと分かっていて傷付けることは、綱吉にはできなかった。
 そうするにはあまりにも、綱吉自身が誰か一人に向けるひたむきな想いがどんなものかを知りすぎていた。
「我儘なのは、皆一緒だよ。誰かを好きになるのも、その人のために何でもしたいと思うのも、見方によっては全部、ただの我儘だろ? ハルだけじゃないよ。俺も、皆も、きっと一緒だよ」
「……ツナさん……」
「だから、ハル。俺も我儘を言うよ。ハルが俺たちとの付き合いをやめずにイタリアに来るのなら、俺はハルを守る。ハルの家族も。要らないって言っても聞かない」
「え……?」
「俺はハルの気持ちには応えてあげられないし、ボンゴレにも入れてやれない。でも、大事な仲間だと思ってるから。
 ハルが怖い思いをしないように、誰かに傷付けられたりしないように、これからも守るよ。それが、俺の我儘」
 淡い微笑と共に告げた言葉に、呆然と綱吉を見つめていたハルの目から、涙が零れ落ちる。
 そして、こらえきれないようにハルは顔をくしゃくしゃに歪めた。
「ツナ、さん……ツナさん……」
 おしぼりを握り締め、懸命に嗚咽を押し殺しながら、ハルは途切れ途切れに言葉を押し出す。
「ハルは、ずっと……ツナさんを、好きでいても、いいですか……? 好きに、なって、もらえなくて、いいんです。いいですから、ハルは一生……」
「ハルの気持ちは、ハルのものだよ」
 静かに綱吉は答え、テーブルの上で小さな握りこぶしを作っているハルの左手に、自分の右手を重ねた。
「ごめんな、ハル。それから、ありがとう。俺みたいな奴を好きになってくれて」
「〜〜〜〜っ!」
 もう声も出せずに、ハルは泣きながらぶんぶんと首を横に振る。
 そしてそのまま、右手に持ったおしぼりに顔を埋めた。
 細い肩が激しく震え、押し殺した嗚咽が小さく耳に届く。
 そんな彼女を、綱吉は愛しさと悲しさの入り混じった瞳で見つめる。
 ハルが泣き止むまで、重ねた手は離さなかった。



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