Five-seveN 05
「十代目」
「うん?」
獄寺の沈黙は長くはなかった。
「十代目は、ギリシャ神話のパンドラの箱の話を御存知ですか?」
「パンドラの箱って……あれ? 開けちゃいけない箱だっけ?」
唐突に問われて戸惑いながらも、綱吉は曖昧な記憶を引っ張り出す。子供の頃に児童書で見たことがあったはずだ、と朧げな挿絵を思い浮かべた。
「確か、女の人が、神様に駄目って言われてた箱を開けちゃうんだよね。そうしたら中から色々悪いものが出てきちゃって、慌てて閉めるんだけど、もう手遅れで……」
「はい。でも最後に一つだけ、箱の中に残っていたもの……覚えておいでですか?」
「──希望、だったよね」
パンドラが慌てて閉めた箱から聞こえてきた、出して、という声。
その声の主は。
「そう、希望です」
獄寺はゆっくりとうなずいた。
「希望こそが最悪のもの、希望を抱くからこそ苦しむのだという考えは、西洋哲学の世界では大昔からあります。それこそギリシャ神話にこの話が含まれるくらいに、何千年も前から……。
でも、希望を持つことができるから生きてゆける。それも真理だと俺は思うんです」
「……うん」
「歴史を振り返れば、何百年も前から同じ国、同じ世界なんて、どこを見たって有り得ません。
人間の美徳や悪徳は変わらなくても、いえ、人間が変わらないからこそ、世界や国が何十年も後も今のまま変わらないってことは、まず有り得ないんです。
──だったら、今がどんなに最悪だろうと、未来に希望を持つ価値はある。そう思いませんか?」
静かに、けれど強い意志を滲ませて語る獄寺の瞳を、綱吉は真っ直ぐに見つめる。
霧がかった湖のような、美しい銀緑の瞳。
世界でただ一人のことしか考えない、ただ一人のことしか思わないこの瞳は、自分のものだった。
口には出せない、けれど確かな真実を感じながら、綱吉はうなずく。
「うん。……これまで、いつだって希望は失わなかった。何度ももう駄目だって、死んでしまうと思ったことも何度だってある。でも、俺も君も、今、生きてここにいる。
希望を持つ価値は絶対にあるよ。どんなひどい状況でも、どんなに苦しくても。いつかはきっと世界は変わる。
それはもしかしたら、何十年も、百年も二百年も先かもしれない。けれど、ボンゴレが犯罪組織じゃなくなる日も、あの国がマフィアの支配する国じゃなくなる日も、いつか必ず来る。
もしかしたらその時には、ボンゴレの名前も、あの国の名前も変わっているのかもしれないけれど」
「はい」
「俺は俺のやれることをやるよ、獄寺君。今のボンゴレのためと、いつか来る日のために」
「はい。俺もあなたのために全力を尽くします。Vongola Decimo」
「Si. …Grazie.」
言葉を交わす間、二人とも、目を逸らさなかった。
互いの表情には、ボスと右腕、その信頼と忠誠以外のものは何一つ浮かんではいない。
けれど、互いのまなざしの奥の奥、他の誰にも触れられない場所から目に見えない蔓のように透明な何かが伸び、ひそやかに触れ合い、深く深く絡み合う。
その魂の交感とでも呼ぶべき感覚──悦びをはっきりと感じ取ってから、綱吉はゆっくりとさりげなくまなざしを手元に落とした。
手元に散らばっていた書類を数枚集め、重ねて、とんと角を揃える。
それを合図のように、繋がっていたものがふっと空気に溶け消えた。
「色々ありがとう。獄寺君も疲れてるのに、ごめんね」
「いえ、むしろ、これくらいのことしか今の俺にはできないのが申し訳ないです」
獄寺の声は謙遜ではなく、ほろ苦いものを含んでいた。
おそらく、と綱吉は思う。
獄寺は、綱吉に拳銃を持たせることなど思いもよらなかったのだろう。そういう必要があると思えば、もっと前に進言していたはずである。
多分、獄寺の中には綱吉が銃撃戦に巻き込まれたら、自分が盾になるという発想しかなかったのに違いない。
リボーンに指摘されたその考えの甘さと、綱吉に銃を持たせざるを得ない現実。
それらがせめぎあって、そんな言葉になったのだろうと思った。
「今はこれで十分だよ、獄寺君。君がリボーンみたいに隙がなかったら、返って俺が困っちゃう」
「十代目……」
綱吉が微笑むと、獄寺は戸惑うような気恥ずかしいような微妙な表情になる。
綱吉は敢えて目線を外し、手元の書類を片付けながら続けた。
「俺はまだ、ボスとしては何にも知らない。君もまだ、ボンゴレの全部は知らない。でも、今はそれでいいというか、仕方のないことなんじゃないのかな。
これからまた一つ一つ覚えて理解していけば、きっと間に合うよ」
その言葉がどう響いたのか、獄寺は短く沈黙して。
「……はい。でも、やっぱり俺は悔しいです。もっとあなたのお役に立ちたいのに……」
「獄寺君は昔っから、そればっかりだったね。俺が一番大事で、俺の役に立ちたいって」
珍しく素直に内心を吐露した獄寺に、綱吉はふっと笑みを誘われた。
中学生の頃の獄寺は、意気込みばかりが空回りし、時には暴走にまで至って、綱吉はいつもはらはらし通しだった。
けれど年月が経つにつれ、少しずつ言動が落ち着き、綱吉の本当の思いを汲み取ろうとする姿勢が見えるようになって。
気がついた時には、綱吉にとって獄寺は、単に仲間や友人というだけではない、かけがえのない存在となっていたのだ。
「でも、何度でも言うけど、今はこれで十分だよ。これ以上はまだ、俺自身が受け止められない。
俺がボンゴレの全部を理解するには、きっと長い時間がかかる。だから、獄寺君も焦らないで?」
「──はい、十代目」
綱吉の言葉に、今度は素直に獄寺はうなずく。
それを受け止めて、綱吉はほのかに微笑んだ。
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