翌朝もまた快晴だった。
 この大陸は全般的に乾燥気味であり、山地でなければ雨は決まった季節に幾らかまとまって降るのみで、あとは大体、年間を通して晴天が続く。
 埃っぽい街並みを窓越しに眺めながら身支度を整えた楊ゼンと呂望は、出立前に朝食を取るべく階下へ降りて行った。
 店主にその旨を告げようと、カウンター内に姿を探した時。
 食堂内に満ちていたざわめきを二人の耳が拾った。

 ───爆発があったらしい。
 ───大丈夫なのか。
 ───カシュローンが無くなったら、この街だって危ういぞ。
 ───東軍が来たらどうすれば……。

 カシュローン、という固有名詞に二人は軽く目をみはる。それ以上の反応を示さずに済んだのは、これまでの経験の賜物だった。戦場にいれば、この上なく不吉かつ凄惨な報告を聞くことなど日常茶飯事になる。
 だが、それでも平静を保つことは無理だった。何しろ昨日の今日のことなのである。
 そして、何よりもあそこには、まだ太乙が居るのだ。他にも楊ゼンの元部下や上官、僚官が大勢いる。呂望に至っては更に顔見知りは多い。
 一体、何があったのか。彼らは無事なのか。
 楊ゼンがそう思いを馳せた時。
「まさか……」
 呂望が低く、緊迫した呟きを漏らした。
「いや……だが、タイミングが……」
 良過ぎる、という呟きと同時に、呂望は顔を上げ、目の前に来ていた店主に向かって声をかけた。
「店主、この近くに公共端末を使える場所はあるか!?」
 今更ながらのことだが、中身がどうあれ呂望の外見は十代半ばの少年である。そんな少年に突然緊迫した声を掛けられて店主は驚いたようだったが、楊ゼンに目線を移し、それからまた呂望を見て、通りの二ブロック先に利用所がある、と戸惑い顔ながらも教えてくれた。
「そうか、ありがとう」
 短く礼を告げ、呂望は「行くぞ」と楊ゼンに短く声をかけ、そのまま駆け出す。
「ちょっと待って下さい!」
 宿泊費は前払いだから、このまま出立してしまっても咎められることはない。楊ゼンは慌てて、店主に会釈してから呂望を追って表通りへと出た。
 右方向を見れば、既に朝の商売が始まっているバザールの店舗や行き交う人の向こうに呂望の小さな後ろ姿が見える。舌打ちして、楊ゼンはその後を追った。
 単に脚力だけで言えば、今やただの少年の体力しかない呂望より楊ゼンの方が遥かに上である。ましてや身体型稀人という有利もあり、楊ゼンが呂望に追いついた時、呂望は公共端末利用所の空いているブースに取りついたばかりだった。
「呂望、一体……」
 食いつくように画面に向かっている彼の後ろに立ち、声をかけようとして絶句する。
 食堂を飛び出す前の呂望の呟きを耳にしているため、楊ゼンも彼の抱いた懸念の内容が全く分からないというわけではなかった。だが、それ以上の深い説明を求める前に、楊ゼンは端末を操る呂望に目を奪われる。
 公共端末は、装置の正面空間に必要なだけの光式画面を複数浮かび上がらせる仕組みで、利用者はその光でできた画面達に手指を触れることで信号を送り操作する。しかし、その普通のやり方に比べて、呂望の操作法は全くの異常だった。
 一枚限りの光式画面には触れている。だが、指先を軽く触れさせているだけであり動きはない。ないのに、猛烈な勢いで画面に表示される情報がめまぐるしく更新されてゆく。
 そして、呂望の眼もまた、目の前にあるその画面を見てはいなかった。もっと遠くの何かを見てるのか、あるいは見ていないのか、まばたきすらしない。
 ───特殊型のうちでも稀少とされる電脳感応能力。
 楊ゼンもこれまで軍の通信部などで、そういった稀人を見たことがないわけではない。だが、何度見ても圧巻だった。
 彼らは己の感覚神経と大脳を電脳と直接繋げることができるのだ。ゆえに、端末に触れるだけで情報の海を電子の速度で泳ぎ回ることができる。
 その貴重な能力ゆえに、かつて、このタイプは軍部に狙われ、守護天使とされるべく肉体を改造されたのである。
 そして、脳を含む肉体の大部分を有機金属に置き換えられる改造に耐え抜いた守護天使達のその天与の能力は、機能面では大きく制限されていたと楊ゼンは聞いていた。不必要な情報には触れられないよう、心理的防壁を電脳に組み込まれ、任務遂行の目的以外にその能力を自由に使うことは愚か、使いたいと思うことすらなかったという。
 徹底して、守護天使は軍の道具──兵器だったのだ。
 痛ましさと感嘆の双方に溺れているうち、何秒が経過したのか。呂望がふっとまばたきをした時、光式画面には一つの映像が映し出されていた。
 それまで身体型の動体視力をもってしても追えないほどの速度で動いていた画面が止まったことに楊ゼンも素早く気付き、目線を走らせて──絶句する。
 あまりにも鮮明な写真画像。
 だが、あの周辺に一般の映写機などあるはずもない。明らかにこれは軍部の記録として撮影され、保存されたものに違いなかった。
 しかし、楊ゼンを驚愕させたのは、そんな軍事機密をあっさりと呼び出した呂望の能力にではない。その画像そのものだった。
 カシュローン基地の西翼から大量の黒煙が青空に向かって広がりながら立ち上っている。それだけでもとんでもない非常事態だったが、それ以上に、主棟の影になってはっきりとは分からないものの、黒煙の発している元の場所には──…。
「……太乙だ」
 震える小さな声で、呂望がその名を口にする。
「あやつに違いない。あやつが……」
 殆ど接触するほどの距離で立っている呂望に目を落として、楊ゼンははっとなる。細い肩も黒髪に包まれた頭も見て分かるほどに小刻みに震えている。
 いけない、と楊ゼンは素早く手を伸ばして画面を通常のトップ画面に戻し、履歴を端末内から完全消去する。身体型とはいえ情報処理の能力がないわけではなく、この程度の操作は極短時間でできた。
「行きましょう」
 そして、身体を震わせている呂望の肩を強引に抱くようにして利用所から連れ出す。そのまま足早にバザールを抜け、街の入り口に停めてあったビーグルまで急ぎ歩いた。
 鍵を解除し、車内に入って、ひとまず呂望を座席に座らせて自分は運転席に乗り込み、車両を発進させる。
 街道を少し走ってから脇の荒れ地へと道を逸れ、短い草が生えるばかりの乾いた丘陵を一つ越えた所でその陰に車を止めた。
「呂望」
 そうしてやっと、助手席の呂望を顧みる。
 端末から引き離した時と同じ、恐怖と衝撃に色を失ったままの顔で呂望は呆然とうつむきがちに宙を見つめていた。堅く握り締められた手も白く血の気を失い、膝の上でかたかたと震えている。
「呂望」
 楊ゼン自身も強い衝撃は受けていたが、それどころではなく震える体を強引に抱き寄せた。
 強く抱きしめてやっても呂望の震えは止まらない。だが、かけられるような慰めの言葉を楊ゼンは持ってはいなかった。
 そんなはずはない、と言えれば良かった。だが、楊ゼンもまた、この数年のうちに太乙のことを良く知るようになっていたのだ。そして、呂望のことも。
 己の死をもって全てを隠滅し、二度と悲劇を起こさせない。そんな真似を太乙ならば、やりかねない。
 そして、呂望が……誰よりも太乙に近しい存在が、太乙がそうしたというのであれば、それはもはや推測ではなく事実だった。
「……前に、言ったのだ。わしがやろうと……」
 かすれた細い細い声で呂望が呟く。
 切れ切れに、声を震わせながら。
「わしが記憶を取り戻した後だ。もう必要のない守護天使の記録は消去しようと……。だが、太乙はいいと言ったのだ。古い型の記録媒体も大量にあったから、随分と時間のかかる作業になるし、君がいなくなれば私は暇になるからやるよ、と……。過去を消す作業なんかより、君は未来に進む方を選ぶべきだねと……」
 太乙らしいというべきだった。
 あまりにも彼らしい。したり顔で、そう言っている表情すら浮かぶようだった。
「だが、まさか……こんな……」
「呂望」
 わなわなと呂望の声が震える。否、声だけではなく全身が大きく震える。
「……老化……」
 はたと何かに思い当たったように、呂望は呟いた。



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