「もしかしたら……既に老化が始まっていたのかも知れぬ」
「え……」
「太乙も、もう三十六だ。稀人ならば、もういつ老化が始まってもおかしくない。むしろ遅いくらいだ。ましてや、あやつは複数の……」
 そう呟いたところで、呂望は絶句する。
 楊ゼンもまた、同時にその意味を悟って愕然となった。
 太乙の持つ、解析能力と──遮蔽能力。
 彼の二つめの能力をもってすれば、共に暮らしている呂望の目から老化の苦痛を抑える薬も、その摂取している姿も隠してしまうことは、あまりにも容易い。
 そして、複数の能力を有している頭脳型としては、太乙はかなりの長命だった。本来ならば、もう五年も前に命が尽きていても何もおかしくない。それが統計上の平均寿命なのである。
 本人は、私は生き汚いからね、と笑っていたが、その『生き汚い』という言葉に隠されていた意味は。
 ───命を永らえるためならば、なりふり構わない、ということではなかったか。
 軍でも特に重要な地位にある稀人に配給される薬は、相当強力に老化の進行を鈍らせるともっぱらの噂だ。その薬を受給する権利を、優れた技術将校である太乙は間違いなく有していただろう。
 そして、何よりも。
 彼には岩に齧りついてでも生き続けなければならない理由があった。
 つい、昨日までは。
「──あ…、ああ…っ」
 見えてしまった彼の企みの全貌に、呂望の口から悲嘆と苦痛に満ちた抑え切れない苦鳴が零れ落ちる。
 もし呂望に言った通り、守護天使のデータを完全消去するだけの時間が本当に彼にあったのならば、彼はそうしただろう。わざわざ派手に自分の無残な死を知らせる狼煙(のろし)を上げる必要もない。
 だが、彼は万が一を恐れたのだ。
 もし消去の作業半ばで己が斃(たお)れるようなことがあれば、また悲劇が繰り返されるかもしれない。或いは、呂望の生存を知られる可能性すら否定できない。
 そんな危険性を放置するわけには決してゆかなかったのだ。彼自身の科学者として、そして人間としてのプライドにかけても。
 ───君たちは、前だけを見て行けばいい。
 独特の静かな笑みでそう言った人は、同時に己の死を見据えていた。
 そして、きっと。
 己の手で全てに片をつけられることに安堵し、誇りと達成感さえ感じて、笑って───。

「う、あ…ああああああ……っ…!!」

 楊ゼンの腕の中で呂望が咆哮する。
 かの人の名を呼ぶことも出来ず、全身全霊を搾り出すようにして慟哭する。
 そんな呂望をきつく抱き締めながら、楊ゼンもまた、こらえ切れない熱い雫が目から零れ落ちるのを感じた。
 呂望とかの人ほど近い関係ではない。けれど、養い親とも親しかったかの人を、歳の離れた兄のようにいつか感じていた。そして、呂望を挟んでは、父兄と交際相手のような関係であり、更には共犯者でもあった。
 師父を亡くして以来、天涯孤独であった楊ゼンにしてみれば、世界で最も近い肉親にも等しい存在だった。
 その人すらも居なくなったのだ、という耐え難い喪失感が胸にひた迫ってくる。
 永久の別れは、昨日のうちに既に済ませていた。だが、それとその死を知るのとでは天と地ほどにも違う。
 しかも、只の死ではない。
 軍の研究所を己の戦場とした彼は、最後までそこで戦って死んだ。壮烈な戦死であり、また最後の守護天使の管理者としての殉死でもあった。
 彼は、伏羲という名を持つ最後の守護天使を己と共に殺すことで、呂望という一人の人間を軍の頚木(くびき)から永遠に解放したのだ。
 今、呂望が感じている苦痛は、決して太乙という個人の喪失の痛みだけではない。
 今度こそ本当に、その背から守護天使の翼がもぎ取られた。その自由と解放を示す苦痛と混乱も、彼の内に少なからず存在しているはずだった。
 呂望を抱き締めたまま、楊ゼンは風防越しに空を見る。
 大陸の空は、今日も悲しいほどに蒼かった。
 この空の下で己の運命に抗いつつ、殉じつつ生きたひとの、いかにも彼らしい見事な最期。
 今はもう亡き人を思って、楊ゼンは静かに瞑目した。




 呂望が鎮まったのは、時間にして一刻ほども過ぎた頃だった。
 ずっと抱き締めたままだった楊ゼンの胸を軽く押しやり、ゆっくりと顔を上げる。
 泣き腫らした顔は、僅かな時間のうちに痛々しくやつれてしまっていたが、変わらぬ深い色の瞳が真っ直ぐに楊ゼンを見つめた。
「生きねばならぬ理由が増えた」
 慟哭している間、側に居たことに対する詫びも礼も省略して、呂望は告げる。そこに楊ゼンは呂望の意思を見た。
 詫びも礼も、この場では最早、不要だった。
 共通する大切な人の喪失の前では、二人で一つの存在として在ることが当然であり、自然だった。
「わしの両親と、おぬしの両親と、玉鼎と、太乙に命をもらった。彼らによって生かされた。わしもおぬしも、もらったこの命を限界まで生きねばならぬ。どんなに無様でも、這いずってでも、最期の一滴(ひとしずく)まで正しく燃やし尽くさねばならぬ」
「はい」
 巌(いわお)のような覚悟を沈ませた言葉に、楊ゼンはただうなずく。
 すると、呂望はそっと両手を上げ、楊ゼンの顔に触れた。
 細い指先が、左のこめかみから頬にかけての無残な傷跡を癒そうとするかのようになぞる。
「共に行こう。どこまでも一緒に生きよう。ウールの村でも、どこか他の地でも、静かに暮らせる場所が見つかったら、そこでいつも笑って暮らすのだ。もう二度と誰も傷付けず、誰も殺さず、それぞれの命の最期の一滴が消えるまで、二人で一緒に」
「ええ、呂望」
 応えることに何の躊躇いも覚えなかった。
 最後の最後まで、生きる。
 人間らしく、生きる。
 そのために、ここまで生き抜いてきたのだ。生きることを選んできたのだ。
 そして、かの人もそれを心から願っていてくれた。
「僕はもう二度と、あなたを離さない。幸せだったといつか最期の時に微笑えるように、二人で一緒に生きましょう」
「うむ」
 呂望もまた当然とばかりにうなずく。
 そして二人はじっと互いを見つめ、それからどちらともなく互いを引き寄せて、そっと唇を重ねた。
 耐え難い悲しみを分かち合い、これからの幸いを誓い合う口接けが淡く、慰めるようにいたわるように繰り返される。
 最後に少しだけ長く温もりを分かち合って、二人はゆっくりと唇を離した。
「──行きましょうか」
「そうだな」
 既にどちらの目も、もう水気は乾いていた。
 うなずき合い、座席に姿勢を正して二人は前を見る。
 楊ゼンが内燃機関を始動させ、払い下げ軍用車のさほど心地良いとは言えない振動が二人の体に伝わる。
 そして、車両は動き出した。
 乾いた荒野を最初のうちばかりはゆっくりと、だが、すぐに加速して疾走し始める。

 ───悲しみも苦しみも、辛い記憶は全部連れてゆくから。
 ───君たちは、未来と幸福をその手に。

 東の地の果てにある楽園を目指して、砂埃を巻き上げながら車両はひた走る。
 どこまでも高く青く澄んだ空の下、今はもう亡き人の優しい声が聞こえたような気がした。

End.

これにて『SACRIFICE -ultimate plumage-』、閉幕です。
長きに渡る御声援をありがとうございましたm(_ _)m

蛇足的なあとがき→ こちら

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