「え?」
 それだけではないだろう。そう言われて、楊ゼンは思わず呂望の顔を見直す。
 呂望はその視線から目を逸らさないまま、どこか悪戯な表情で楊ゼンを見つめ、言った。
「おぬしは本当はこう言って欲しいと思ったのではないのか。『生まれ直させてくれてありがとう。これでやっと、わしは人間として生きることができる。』と」
 その言葉に。
 楊ゼンは目を見開いた。

 ───ありがとう。
 ───やっと、人間として生きることができる。

「は……い……」
 震える声でうなずく。
 確かにそう言って欲しかった。
 そう言って、笑ってくれることを期待した。
 否、願っていた。
 必死に必死に、祈っていた。

「ならば、おめでとう、と言うべきだな。この言葉はおぬしのものだ」

 そして今、本当に目の前で呂望が笑んでいる。
 衝撃を受けている楊ゼンが可笑しいと、でも、その存在が大切なものなのだと言わんばかりの優しい笑みで。
 その微笑みに、どうしようもなく胸が詰まる。
「ありがとう…ございます……」
 どうすれば、この感情の嵐を受け止められるのか分からなかった。
 ただ震える声で礼を告げ、たまらずにずっと重なり合っていた指先に力を込めて、細い指をぎゅっと握りしめる。その手は決して振りほどかれなかった。
「楊ゼン」
 そんな様をどう見たのか、呂望が笑みを納めた声で名を呼ぶ。
「薄々分かっておるやもしれぬが、わしは扱いにくい人間だ。幼い頃はさほどでもなかったと思うが、戦場であまりにも長く生き過ぎた。わしが殺した人間の数はおぬしの頃した人間の数とは桁が違うし、人の醜い面もこれ以上ないほどに見てきた。性根が曲がったとまでは言わぬが、相当に歪んでおるだろう。そんじょそこらの人間など比べ物にならぬくらい、今のわしは面倒で扱いにくい性格をしておる」
 楊ゼンの手に手を預けたまま、呂望の静かな声が語る。
 だが、楊ゼンは、そうだろうか、と思うばかりだ。
 確かに呂望は、精神面では若いとは言えないだろう。楊ゼンなど太刀打ちもできない深さと凄味が彼の内にはある。
 しかし、それは辛酸を舐めながら七十年余を生きた人間であれば、当然に持っているべき老獪さであり、思慮深さであるように思える。彼の言動をどれほど思い起こしても、歪みという表現は当たらないような気がした。
 それに、呂望が戦場で歪んだというのであれば、自分もまた同様である。何しろ戦場しか知らないのだ。
「僕はあなたを面倒な人とは思いませんが……。それに戦場で人間性が歪んだというのなら、僕も一緒でしょう。年数はあなたに及びませんが、僕もひどい最前線ばかりを渡り歩いてきた元軍人ですよ」
 正直にそう告げれば、呂望は浮かべた笑みを仄かに深めた。
「知っておるよ。だから、こうして共に居られる」
 そう言い、楊ゼンの手の中にとらわれた自分の手にまなざしを落とす。
「わしはのう、記憶が戻って以来、ずっと迷っておった。わしのこの碌でもない人生に、おぬしの残り人生をを付き合わせるのは罪悪なのではないかと……」
「それは……知っていました」
 共に行くことについて、ずっと呂望は困惑顔だったし、本当に良いのかと直接尋ねられたこともある。その度に楊ゼンは、自分がそうしたいのだとはっきり告げてきた。だが、呂望の顔が晴れることは、少なくとも出発前まではなかったのだ。
「そうだな。わしも隠しておらなんだしな。正直、覚悟が定まったのは今朝、太乙と別れた時だ。あの隠し扉から研究室を出た時に、やっとわしはガーディアンでなくなったような気がした。わしがわしに戻った気がしたのだよ」
「呂望……」
「そんな心地のまま、地下通路を歩いているうちに心が定まっていった。もうガーディアンではない、もう何をしてもいいのだ、ならば、わしは何をしたい……そう考えていったら、答えは一つしか見つからなかった」

「楊ゼンと共にいきたい」

「一生わしと付き合うのが嫌だと言うのなら、その途中まででも良い。とりあえず、おぬしといきたい。おぬしと行こう。遺跡の出口に辿り着く頃には、そう心が定まっておったよ」
 いきたい、は、行きたいなのか生きたいなのか。
 分からなかったが、どちらでも良かった。どちらにしても同じ意味だ。少なくとも今、この場では。
 そんなことを頭の片隅で思いながら、楊ゼンは必死に応えるべき言葉を探す。
「……遅すぎ、ますよ。そんな土壇場になってですか」
「仕方がない。もう随分と長い間、自分の意志で行く先を決めることなどなかったのだ」
「……そういうことにしておいてあげてもいいですけど。今回だけは」
「今回だけか。おぬしは存外にケチだのう」
「あなたは僕が思ったより、遥かに食えない人ですよ」
「なんだ、気付いておらなかったのか。鈍いな」
「鈍くありません。あなたがずるい人なんです」
「褒め言葉にしか聞こえぬのう」
 碌な言葉を紡ぎだせない楊ゼンに、呂望は言葉遊びのようにして付き合ってくれる。
 ───たまらないほどに好きだと思った。
 憧れでも憐憫でもない。
 目の前の人が、ただひたすらに、どうしようもないほどに、純粋に好きだと思った。
「好きです」
「わしも、おぬしが好きだよ」
 衝動的に口走った告白に、何のてらいもない真っ直ぐな言葉が返る。
 泣きそうだと思った。
 それが現実になる前に、楊ゼンは重ねたままだった手を引き寄せ、愛しい人を抱き締める。細い小さな体は、いっそ他愛のないほどにたやすく胸の中に収まった。
 楊ゼンの腕の中で、呂望が小さく笑う。
「ずっとずっと一緒に行こう。どこまででも、世界の果てまででも、おぬしと共にいきたい」
「はい」
 うなずくのが精一杯だった。
 あとはひたすらに抱き締める。
 不器用なことこの上なかったが、呂望はその不器用さを咎めることなく、その優しい両腕で楊ゼンを抱き締め、随分と長く離さなかった。



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