「──そういえば、わしは二度とも、おぬしに返事をしていなかったな」
 唐突に言われて、楊ゼンは一瞬、戸惑う。
 だが、確かに呂望の言う通り、楊ゼンが想いを告げる言葉を口にした記憶は、過去に二度あった。
 一度目は、カシュローンの街中で。
 二度目は、シュクリスの基地内で。
 それらに対して呂望は、態度に幾らかの差異はあれ、どちらの時も楊ゼンの求めに直接的には応えず、遠回しな拒絶を意味する言い訳を試みて、しかし、そのいずれも最後まで言い終えることができずに無残な状況を迎えてしまっている。
 そのことを思い出したものの、楊ゼンは、やや困惑して呂望を見つめた。
「僕は別に、あの時の返事を聞かせて欲しいわけでは……」
 あの時と今とでは、余りにも心境が異なってしまっている。大切だと、言葉にしてしまえば同じだが、意味合いがあまりにも違った。
「分かっておるよ」
 楊ゼンの困惑を感じ取ったのだろう。呂望はかすかに笑み、まなざしを二人の間の手に落とした。
 指先と指先が重なり合い、淡く触れ合っている。ほんのわずかに身動きすれば離れてしまうだろう。だが、それでも互いの温もりを確かに感じ取ることができる繋がりだった。
「過去のいずれの時にせよ、わしはおぬしに返すべき言葉を持たなかった。拒絶するしかなかったのだ。あの時のわしとおぬしとでは、あまりにも違い過ぎたからのう」
 共に生きることなど夢見ることも無理だった、と呂望は静かに呟く。
「おぬしもわしも稀人だ。戦況が変わる度に最前線に再配置される。あそこで出会ったのは一瞬の偶然で、共にあることなど叶うはずもないし、最期を看取ることなど夢のまた夢だ。ならば、受け入れぬ方がよい。その方がまだ少し、楽に生きられる──。おぬしの意見は違ったようだがな」
「──そうですね」
 刹那的だった己の過去の言葉に、楊ゼンは苦く微笑む。
 軍人であり、稀人であり、永遠どころか長い生を求めることすら不可能だと分かっていたからこそ、一瞬の温もりを得られればそれでよいと考えていた。
 一瞬でも想い合えればよいと考えたからこそ、呂望の正体を知った後でも想いを告げることができたのだ。
 それが、長い時をたった一人で生きる彼にとって、どれほど残酷な行為であったかを考えることすらできず。
「僕は……あなたを傷付けた」
「そうだな。何も言わずに転属していってくれた方が、わしは楽だった。だが、それでも──」
 仄かに触れ合った手に落とされていたまなざしが、ゆっくりと上がって楊ゼンを捉える。
「わしはあの時、喜んだよ。嬉しかった。わしがガーディアンだと知ってもなお、畏れながらも好きだとおぬしが言ってくれて。嬉しかった」
「呂望……」
 真っ直ぐに目を見つめ、切ない微笑を浮かべて。
 呂望は触れ合っていた手をそっと動かして楊ゼンの手を取り、持ち上げて頬に当てた。
「身勝手な話だ。稀人に生まれ、稀人ですらなくなり戦闘人形として数多の敵を殺した。だが、あの最後の時……。わしはおぬしのことを考えたよ。無論、カシュローンの一万を超える兵士たちのことを守らねばと思った。それがわしの使命だった。だが、それ以上に……おぬしを、わしを好きだと言ってくれたひとを何としてでも守りたいと……そう思った」
 静かに告げられて、楊ゼンは言葉を失う。
 あまりにも壮絶な告白だった。
 ならば、あの時、目の前で呂望が散ったのは。
 美しく優しい、儚いかけらを残して消えたのは。
「僕の……せいですか」
 問う声がかすれた。が、返ったのは、呂望の低く小さな笑い声だった。
「何故そうなる。つくづく、おぬしは真面目だのう」
 困ったものだと言いたげな呂望のまなざしが、楊ゼンを温かく見つめる。
「わしが力を使い切らねばカシュローンは廃墟と化していたよ。一万の兵士もろとも、だ。わしとて無事ではいられなかっただろう。それとも、わしと心中する方が良かったと言うか?」
「当然でしょう!」
 何を馬鹿なことを、と楊ゼンは思わず声を荒げる。
 目の前で大切な人を失うのと、共に息絶えるのと。どちらが幸せであるのかなど、考えるまでもないことだった。その瞬間的な選択には千だろうが万だろうが、他人など存在し得ない。
 否、天秤にかける方が最初から間違っているのだろう。一人と一万人であろうと命は命だ。そして、その一万人の中には楊ゼン自身も、何があっても戦場から生きて連れ帰るべき部下たちもいた。選ぼうとして選べるものではない。
 ゆえに、楊ゼンの言葉も死ぬなら共にが良いということであり、味方一万人を道連れに心中したいという意味ではなかった。
 だが、そんな楊ゼンの情動を理解しているのか、呂望は小さく笑う。
「そうだな。おぬしは、そういう奴だ。我儘で身勝手で、情が深い。ここ最近でよく分かったよ」
「──何なんですか、それは……」
「うむ? 真理を言ったつもりだが」
 悪戯に微笑み、呂望は楊ゼンの手を、感触を確かめるかのようにもう一度握り直す。
「だがのう、楊ゼン。わしとて無念だったのだよ。もっと生きたかったとは思わなかったが、それでも、もっと守りたかった。兵士たちを守るために、どんなに苦しくとも戦場に在り続けたかった。そして、せめておぬしが退役するまでは……同じ戦場にある限りは、守りたかった」
「呂望……」
「だからのう、記憶が戻った時は嬉しかった。それまでは、もう守護天使でもなくなったのに、何故生き続けなければならないのか分からなかった。だが、記憶が戻った途端に分かった。わしを生かしたのは、おぬしのエゴだとな。無論、太乙のエゴも多分に入っておるが」
「それ、は……」
 エゴだと断定されて、楊ゼンは困惑するとともに己を恥じる。まさにその通りだったからだ。
 呂望を蘇らせることを画策したのは太乙だったが、それの最後の一手を指させたのは、間違いなく楊ゼンだった。
 だが、呂望の声は明るく、そして優しく。
「嬉しかったと言っただろう、楊ゼン。おぬしと太乙のエゴのおかげで、わしは全てから解放された。おぬしのためだけに生きることができる存在として、生まれ直すことができた」
 告げられる言葉の意味を、楊ゼンは上手く受け止められない。
 ただ、仄かに笑みをたたえた瞳でじっと見つめてくる呂望を呆けたように見つめ返し、ようよう出てきた言葉は。
「……僕を、恨んではいないんですか」
「どうしてそうなる」
 楊ゼンの問いかけに、呂望はくくっと楽しそうに小さく笑った。
「おぬしと太乙の気が合うわけだよ。あやつもわしに聞いた。私を恨んでいるかとな。まあ、あやつの言い方は、おぬしより遥かに気楽だったが」
 そして、再び楊ゼンを見つめる。
「では、逆にわしから聞くぞ。わしは太乙に何と答えたと思う」
「……まさか、とか、とんでもない、とかじゃないですか」
 反射的に浮かんだ答えではあったが、考えても他には想像できない。目の前の相手は、間違いなくそういう物言いをする人物だった。
「ずばり正解だ。分かっておるではないか」
「……はあ」
 確かに言われてみれば、その通りである。
 だが、過去、確かに楊ゼンは恐れたのだ。一旦は失われた命を取り戻すことを。その自然の摂理に逆らう行為をではなく、その結果、呂望に恨まれることを太乙と共に畏れた。
 だからこそ、全てを受け止めようと覚悟していたのだ。どれほど憎まれようと恨まれようと、それは正当に引き受けよう心に決めていた。
 けれど。
「確かに……分かっていたような気はしますね。今から思うと」
「うむ?」
「あなたを再生させると決めた時、恨まれても仕方がないと覚悟したんです。でも、どこかであなたが許してくれることを分かっていたような……。そういう甘えが心のどこかにあったような気がするんですよ。情けのない話ですが」
「それは正しい甘えだな」
 楊ゼンの述懐を咎めることなく呂望はうなずく。
「人間は誰しも、他人に対してそういう期待を持つものだ。こうすれば、きっと相手はこう反応してくれるだろうとな。過分に過ぎれば、それは単なる我儘だが、この場合は間違っておらぬよ。おぬしと太乙がわしを理解していたからこその当然の心理だ」
 そして、楊ゼンを見つめたまま、静かに微笑んだ。
「のう、楊ゼン。『きっと許してくれるだろう』──わしに期待したものは、それで終わりではないだろう?」



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