「これはただの言い訳だが……わしはもう何十年も独りだったのだよ。一人ずつ仲間が減ってゆき、最後に妹を亡くし……。太乙は、二十年ぶりにわしを人として愛してくれた存在だ。あやつも、わしが人としての触れ合いに飢えていることを一目で見抜いた。あやつ自身も、他者との繋がりに飢えておったのだから当然だ」
 だが、それでも、と呂望は続ける。
「わしとあやつは、管理するものとされるものであり、互いに観察し、監視されるものであり、親子であり、兄弟であり、友であり、その全てだった。──八年だ。八年間、わしらはあの場所で、共に生きた」
「僕が師父と共に暮らしたのも、同じだけの年月です。拾われてから、士官学校の幼年学校に入るまで……」
「……そうか。ならば、おぬしにも分かるだろう。わしらにとって、互いの存在がどんなものであったか……」
「はい」
 呂望の想いが痛いほど胸に染みて、楊ゼンは深くうなずく。
 残酷で冷たい孤独な世界で得た、たった一人の家族。
 十年近い月日を支え合い、慰め合って過ごした存在。
 そんなかけがえのない存在であるのにも関わらず、呂望は、父を、子を、兄を、弟を、友を、共犯者を、あの修羅の地に見捨ててきたのだ。かの人が望んだこととはいえ、それは魂をもぎとられる行為に等しい。
 僅かに伏せられた呂望の瞳は薄い玻璃にも似て、今にもひび割れてしまいそうなほどに張り詰めていた。
「分かってはおるのだ。誰が最愛の存在の負担になることを望むものか。わしらと共に行けば、太乙は……」
「ええ……」

 人と月人との亜種である稀人の最期を蝕み、死に至らしめる苦痛──老化。
 その死にも勝る痛みをを抑制する薬は、必要とするのは稀人のみであるが故に、広く流通しているものではない。そして、その絶対量の少ない物資を最も入手しやすい場所は、大陸の東西を問わず、軍だった。
 特に東軍では『老化』により退役した稀人には、その死を迎えるまで恩給と共に必要十分な薬が配給される。
 対して軍施設の外では、限られた量を限られた場所でしか入手できない。当然ながら高価でもあるが、それ以前に、金を積めば買えるというほどにすら出回っていないのだ。
 故に、殆どの稀人は軍をその生きる場所に選ぶ。
 その畏怖され嫌悪されるべき力は、戦場でならば味方を守り、敵を撃破する強力な兵器となる。親しまれはせずとも、遠巻きには存在を許容してもらえる。そして、戦場で散ることがなければ、最後には安らかな死を与えられるのだ。
 そんな悪意に満ちたからくりが政府によって意図的に作られているのだと分かっていても、大概の稀人は、その安楽さに逆らえない。
 逆らえば、畏怖され、嫌悪され、最期まで心身ともに苦痛に耐える生しかないと、誰もが知っているからだ。
 そしてまた太乙も、一人の稀人として、稀人に課せられた業を痛いほどに理解していた。
 呂望の見る限り、彼ほど稀人としての生を貫き等した者は、さほど多くない。彼はあらゆる矛盾を抱え、だが、揺らぐことなく軍に在り続けた。軍の横暴を恨み、己の強欲を呪い、それでも尚、自分自身のために生き続けたのだ。
 とはいえ、既に彼は稀人としての最晩年にある。余命幾許もないはずの今の彼ならば、その業を──彼の欲を満たしてきた軍の研究所を捨てて共に来ることなど、本当は容易かっただろう。直接戦場に立つことのなかった技術将校ではあっても、苦痛に満ちた最期を厭うほど彼の性根は惰弱ではない。
 だが、太乙は、共に来る道を断固として選ばなかった。
 彼は、その苦痛に満ちた最期の姿を呂望たちに見せたくなかったのだ。呂望を兄弟とも親とも子とも思うからこそ、彼はそれを拒絶した。
 そして、呂望もまた、太乙を兄弟とも親とも子とも思うからこそ、彼の人生の最後に彼の望まぬ終章を歩ませるだけの覚悟を持てなかった。
 苦しむ場面を見せたくないと太乙が望むのなら、黙って立ち去り、その望みを叶えてやることしかできないほどに太乙を愛していたのだ。
 そんな呂望に、太乙も最後まで笑顔しか見せなかった。
 それは何にも変えがたい、浅ましく、痛ましく、切なく、何よりも愛おしい、人と人の繋がりだった。

「──あなたはドクターの願いを叶えた。これが僕たちにできた、最善です」
「……分かっておる。分かっておるのだ、楊ゼン」
 楊ゼンの言葉に力なくうなずき、呂望はずっと楊ゼンの手に重ねたままだった己の手に、わずかに力を込める。
 縋るというには、あまりにも儚いその仕草に、楊ゼンの心も締め付けられて。
「呂望」
 知らず、唇から目の前の人の名前が零れ落ちる。
「僕もずっと独りでした。師父を喪ってから、ずっと」
 そう告げると、ずっと伏せられたままだった呂望の目が、楊ゼンを見上げた。
 張り詰めた玻璃のような瞳に映る己の目は、やはり同じように静かに張り詰めている。
 独りきりだった。自分も、彼も。
 長年の心の支えだったたった一人の存在を喪い、鉛のような心を持て余して立ち止まっている。
 二人は今、確かに似た者同士だった。
 そんなつもりで、ここまで共に来たわけではない。だが今、互いにしか理解できないものが二人の間には確かに生まれていた。
 呂望の深く澄んだ瞳を見つめて、楊ゼンはひっそりと言葉を続ける。
「でも、あなたがドクターに出会ったように、ドクターがあなたに出会ったように、僕もあなたと出会った。伏羲ではない時のあなたにとってドクターが全てだったように、あなたも出会った時から僕の全てです」
「楊ゼン……」
 唐突にも聞こえる告白に驚くでもなく、呂望の瞳は静かに楊ゼンを見つめる。
 分かっている、知っていると告げるような呂望のまなざしに、そうだ、と楊ゼンは思う。
 分からないはずがないのだ。
 これまで言葉にしなかっただけで、おそらく呂望も記憶を取り戻して以来、楊ゼンが己の中でどんな存在であるか、ずっと自問を重ねていただろう。直ぐには、それは答えは出なかったかもしれない。だが、こうして戦場を遠く離れた今、互いの存在こそが何よりも雄弁な答えだった。
 独りと、独り。
 世界に二人きりであるかのような、この寂しさ。
 独りきりではない、この幸福。
 玉鼎も太乙もいない今、分かち合えるのは、もはや互いしかいなかった。
「呂望」
 言葉を交わすうちにいつの間にか彼の頬から離れてしまった手は、今、互いの間で僅かに指先同士が重なり合っている。
 その小さなぬくもりを楊ゼンは強く意識した。
「僕は、あなたが居る限り、もう二度と孤独にはなりません。この先も必ず最後まで生きてゆける。でも、あなたは……」
 どう言葉を紡げば、心の内を言い表せるのか分からなかった。
 これ以上言うべきかどうかを迷い、けれど、楊ゼンは続く言葉を口唇に上らせる。

「あなたは、どうですか。あなたにとって僕はどんな存在ですか? 『三人目』の僕は……?」

 窺うように、そう問えば。
 十年近くも傍にいた相手から遠く離れた痛みにひしいでいた呂望の瞳が、ふっと揺らぎ、そして和らいだ。



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