それはこれまでであれば、抑えられた感情の動きだった。情動、と呼んでも差し支えないかもしれない。
 戦場にあっても後方の基地にあっても、抑制されてしかるべきそれを、しかし今、止めるべき理由を見つけることができず、楊ゼンは心のままにゆるりと右手を持ち上げる。
 そして、指を伸ばして呂望の頬にそっと触れれば、彼は大きな目を更に大きくみはって楊ゼンを見つめた。
 世界の表も裏も全て見通しているような深く澄んだ瞳には、嫌悪も拒絶も浮かんではいない。ただ、小さな驚きと、それよりも更に小さな戸惑いがあるだけで、残りのすべては楊ゼンの指先を許容している。
 ゆるりと親指の腹を薄くすべやかな肌に沿わせて動かすと、その感覚がくすぐったいのか、呂望はわずかに目を細めてまばたく。
 その瞬間、二人の間にある空気は、この世界の何もかもを忘れてひどく甘やかであるように楊ゼンには感じられた。
 窓の向こう、丸二日も北西に進めば、そこには南北に延びる長い長い戦線がある。そこでは、つい先日までの僚友たちが銃を構え、哨戒に神経を尖らせている。あるいは束の間の休息を得て、長過ぎる戦いに疲弊した心が見せる安らかでない眠りをそれでも貪っている。
 だが、今、ここにはそれらの全てが遠かった。
 青空を翳らせる砲火は見えない。大地を渡る風の音を掻き消す銃撃の声も、悲鳴も罵声も聞こえない。
 階下の酒場のざわめきが細々と響いてくるばかりだ。
 二人きりなのだと、今、ここには自分たちしかおらず、そしてどちらも何も──他者の生命を背負ってはいないのだと、夜の静けさの中で楊ゼンは初めて深く実感する。
 そして、同じ感慨と理解の色は、呂望の瞳の中にもあった。
 見つめ合うまなざしと、指先と頬のわずかな触れ合い。
 今、二人が手にしているものは、たったそれだけだ。
 だが、それだけのためにどれほどの犠牲を払わねばならなかったことか。
 呂望は何もかもを失わねばならず、楊ゼンも右目を失い、戦場に背を向ける惰弱者の汚名を選び取らねばならなかった。
 そこまで何もかもを剥ぎ取られ、あるいは投げ捨てねば、この一時を得ることはできなかったのだ。
 だが、これは間違いなく勝利でもあるということを楊ゼンは分かっていたし、呂望もまた、そうであるだろう信じていた。
 とはいえ、呂望の深い色の瞳を見つめる楊ゼンの内には、この期に及んで浮かぶ言葉など何もなかったし、何かを言おうという気にもならなかった。
 物心ついた時から戦場が身近にあった楊ゼンは勿論のこと、呂望は、通常の稀人の寿命の倍の時間を戦場で過ごしたのだ。今更口先だけの言葉で慰められるものなど一つもない。
 ただ指先を触れたまま、黙して見つめていると。
 ふわりとまばたいた呂望が、小さく頬を傾けると同時に楊ゼンの手に自分の手を添えて、指先だけではなく手のひら全体を頬に沿わせる。
 そして、軽く目を伏せて、温かいな、と呟いた。
「ええ」
 手と手、手と頬。
 二人の肌の触れ合う部分から熱が生まれる。優しい優しい命の温もり。
 人肌が温かいということくらい、知っている。だが、それ以上に、その温もりが失われていく場面を知っている。
 それどころか、触れるまでもなく遠目でも肌色だけで、或いは気配の有無だけで、その肌が温かいか冷たいかを察することができる。できるようになってしまっている。
 そんな自分たちが、今こうして互いの小さな温もりを感じ合っている。
 そのことをどう捉えれば良いのか、楊ゼンには正しい答えが分からなかった。
 喜べば良いのか、悲しめば良いのか、或いは、恥じれば良いのか。
 分からないまま、しかし、手に感じる自分のものではない熱が、そこからじんわりと全身に広がってゆく。
 そして、それが心臓の芯にまで沁み透った時、呂望が小さく呟きを零した。
「……おぬしが三人目だ」
「え……?」
 言葉の意味が分からず、何のことかと問い返す。
 すると呂望は、しんと夜の空気に溶け入るような声で再度呟いた。
「わしが人でなくなってから、わしを恐れることなく触れた人間の数だよ。──一人目は最初の管理者。わしらガーディアンは彼の創造物だったのだから、創造主が己の従属物に触れることを恐れるはずがない。ましてや、彼のことはかすり傷一つ付けることも許されぬよう、我々に組み込まれた電脳は制御されていた。彼は間違いなく、我々五人を心の底から愛でていたよ。己の才能の偉大さを賛美するために」
 淡々と紡がれる言葉に、楊ゼンは返すべき言葉を見つけられないまま聞き入る。
 だが、呂望も相槌を求めている気配はなかった。
「二人目は──おぬしも分かるだろう」
「……ドクターですか」
「そうだ」
 事実を確かめるだけの楊ゼンの問いかけに、呂望は応じる。
「我々の管理者は全部で十三人、居た。任期が長い者も、短い者も居ったよ。八年前、新しい管理者の名前を知らされた時、わしは何の興味も抱けなかった。初代を除けば、誰も彼も変わりばえのせぬ連中ばかりだったからな。……だが、歴代の管理者の中で唯一人、あやつは、わしが予想もしなかったことをした。わしを呂望と呼び、人間として扱ったのだ」
 その言葉に、楊ゼンのうちにいつか太乙と会話した時の記憶が蘇る。
 灰白色の病室で、世界を圧倒するような純白を身にまとった青年科学者は、言葉ばかりは静かに語った。
「ドクターも僕におっしゃったことがあります。あの子は人間だ、と」
「……そんなことまで話したのか」
 楊ゼンの言葉を聞いた呂望は、一瞬、静止した後、ふっと微苦笑する。
 その淡い笑みは、楽しげでもあったし、ひどく悲しげでもあって。
 過ぎた日を思う痛みに満ちていた。
「そう、あやつが管理者になってから、わしは何度も、もっと強く感情を抑制して欲しいとあやつに頼んだ。人の心を持ったまま、戦場を五十年以上に渡って駆け続けるのは、あまりにも苦しかった。なのに電脳に制御されているせいで、発狂することもできない。そして、わし以外の四人は感情を保つことを強いられたが故に、守るべき兵士達を失うことに耐え切れず、戦場で散った」
「──あなたも」
 魂も引き裂かれるようだった無残な光景が脳裏に蘇り、楊ゼンの声も低く、硬くなる。
 未だ完全に癒えたとはいえぬ胸の痛みを聞き取ったのか、呂望は一瞬だけ、言葉を探したようだった。
「──そうだ。だから、そうなる前に余計な感情を感じぬようになりたかったのだよ。そうすれば、それだけ長くわしは兵士達を守れる。苦しむことなく戦い続けられる。……だが、わしがそう主張する度、返ってくる返事は、君は人間なんだよ、だった」
「────」
「身勝手で残酷な男だよ、あやつは」
 その形容詞は、決して憎しみにも憤りにも彩られてはいなかった。
 ただ愛しく、切なく、二人きりだけの部屋に響く。
「あやつも、世界と己に絶望していた。科学者の持つ欲を、終わりのない戦争でしか満足させることのできぬ世界。終わりない戦争を喰らうことでしか、満足のできぬ自分。そんなあやつにとって、わしはたった一つの『生命ある研究対象』だった。だから、太乙は『呂望』を殺せなかったのだ。己のために」
「──けれど、そうと理解していても、あなたはドクターを愛した。違いますか?」
 静かに楊ゼンが問うと、呂望は僅かな時間、押し黙る。
 そして、ほろ苦く笑んだ。



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