SACRIFICE
-ultimate plumage-

15. country road

 乾いた大地はどこまでも続き、蒼い空が見渡す限り続く。
 風に吹かれ、まなざしを上げてみれば、光はいつでもそこにあった。






 カシュローンから東へ向かう道を選定するにあたって、道なき荒野を走るのではなく、街道を選んだのは、ひとえに安全性だった。
 もとより前線地帯である。街道を外れて走行していれば、たちまちのうちに軍の偵察に発見される。
 無論、基地の偵察能力や斥伺部隊の行動経路は熟知している二人だったが、それでも用心にしくことはない。
 だから、廃虚の遺跡を出た後は、まっすぐに街道を目指し、少し南に下ってから北東へと向かう脇街道へビーグルを走らせた。
 軍の放出品のビーグルは古いものだったが、楊ゼンが徹底的に整備をさせたらしく、部品も交換できるものは交換してあって、走りは快調だった。
 途中、数度の休憩を挟んで、ひたすら東を目指して。
 日没近く、辿り着いた小さな街で、ビーグルを停めた。




 ドーハス、という名の小さな街は、地平に沈みゆく夕日に照らしだされた影絵のようだった。
 豊かな街でないことは、一目で見て取れる。夕刻ということもあるだろうが、バザールの賑わいはさほどでなく、通りに面した商店でも営業していない店がところどころ目に付き、入居者募集の貼り紙がある建物も少なくない。
 カシュローンとは異なり、長く続く戦争に関わる需要を得られず、疲弊した小さな街の典型だった。
 だが、そんな街でもバザールに面した通りには、他の街と同様に宿屋が営業しており、一階の食堂を兼ねた酒場には、くたびれた風情の男たちが集ってきている。
 その片隅のテーブルで温かな食事を取りながら、呂望のまなざしはさりげなさを装いつつも一心に周囲を見つめていた。
「さっきからずっと見てますね」
 黒っぽくて皮の硬い、酸味のあるパンは、それだけだと美味とは余り言えない味だが、塩味の聞いた肉と野菜のスープには良く合う。
 質素な夕食ではあったが、戦場で摂る食事に比べられるものではない。
 十分に満足しながら、楊ゼンはそっとテーブルの向かい側の呂望に問いかけた。
「ああ、うむ。あまりこういう風景は見たことがなかったからのう。珍しくてな」
「そうですか」
 目の前の食堂兼酒場の光景は、どんな街にもある風景だ。それこそカシュローンにも日常的にあった。
 だが、非番になれば、その光景に混じることができなくもなかった楊ゼンに比べると、特殊な立場にあった呂望は、街に出るにしても行く場所は限られていたのだろう。もともと外見も、十代半ばの少年である。
 珍しい、という言葉は楊ゼンには十分に納得できるものだった。
「これから何度でも、見ることはできますよ。それこそ毎晩のように」
 穏やかにそう告げると、呂望のまなざしが楊ゼンの方を向いた。
 深い色の瞳が、思いがけないことを指摘されたかのように丸くなり、それからふっとほのかに微笑みを帯びる。
「……そうだな」
 改めて何にも縛られない今を実感したのだろう。深い表情で目線を手元に落とし、重みのあるパンを指先で一口大にちぎって口に運ぶ。
 そして、美味いな、と呟いた。
 そうですね、と楊ゼンも返す。
 料理の善し悪しではなく、気持ちが味を決める。戦場では、どんなに質の良いレーションでも血の味がした。
 ましてや呂望が口にしていたのは、わずかな生脳と有機金属を維持するための特別なエネルギー飲料が主体だったのである。味気ないなどというものですらなかっただろう。
 こうして街の食堂のテーブルに座り、敵襲を警戒する必要もなく温かな食事を取れることが、どれほど幸福なことであるか。
 戦場を離れなければ、そんなことも分からなかった。
「いつかはこういう食事に慣れるのかもしれませんけれど……」
「うん?」
「忘れたくないですね、今の気分を」
 楊ゼンがそう呟くと。
「……うむ」
 呂望も静かにうなずく。
 そして、長年まともな食事をしていなかったとは思えない綺麗な所作で、スープの最後の一口を口に運んだ。
 テーブルの上の食事が全て胃袋に収まった所で立ち上がり、主人に食事の代金を払う。そして、泊まれるかどうかを尋ねた。
 二人共に元軍人である以上、野営だろうが車中泊だろうが気にしない。
 だが、先を急ぐ必要のある旅でもなし、また使う当てのなかった楊ゼンの俸給は十分すぎるほどに口座に溜まっている。
 資金の面で言えば、呂望の方も、死亡に伴い没収されそうになっていた『伏羲』の口座を太乙が研究資金という名目で差し押さえており、それを呂望が特殊型の能力を生かして新規に作った『呂望』の口座に資金移動させたから、これまた何の心配もない。
 金の問題もない以上、追われているわけでもないのだから、わざわざ野宿する理由もないのである。休むのなら、きちんとした屋根の下で休むのが人間らしい生活というものだった。
 交渉はすぐにまとまり、素泊まりということで二人部屋の鍵を渡される。
 料金を前払いして、二人はそれなりに賑やかな店内の隅にある階段を上り、客室へと上がった。
「上等、だな」
 鍵を開け、室内を見渡して、呂望がわずかな茶目っ気を含んだ声で感想を述べる。
「そうですね」
 楊ゼンも小さく笑ってうなずき、窓際に近付いて街を見下ろした。
 この街の食堂兼宿屋は、建物が古いだけに客室も古く、また狭い。ベッドが二つと小さなテーブルがある以外は何もない部屋だった。
 だが、屋根と壁があり、窓にはひびのないガラスがはまってベッドがあれば、休むには十分過ぎる。
 ほどほどに掃除の行き届いた室内を一通り確認してから、呂望はベッドのうち窓際の方に腰を下ろした。
「楊ゼン、地図を見せてくれぬか?」
「あ、はい」
 呂望の声に応じて、楊ゼンも手荷物の中から折りたたんだ地図を取り出す。
 そして、呂望の隣りに腰を下ろした。
「こうして見ると、一日でそれなりに移動したな」
「ビーグル1台きりの移動ですからね。行軍速度とはわけが違いますよ。街道は全舗装されてますし」
「ふむ」
 二人共に士官級の軍人であった以上、地図や地勢図を見るのはお手の物である。
 地図には書かれていない今現在の軍事情報をも交えながら、ルートの再確認をしてゆく。
「トゥラホ河の増水さえなければ、ウールまで二十日余りか。大陸の東の果てと言っても、案外に近いな」
「そうですね」
 二人が目指している土地は、東の果てにあるウールという小さな村だった。
 いずれも身寄りのない者同士、どこへ行くかという話になった時に、傍にいた太乙がふと言ったのだ。
 玉鼎は、大陸の東の果ての生まれじゃなかったか、と。
 その言葉で楊ゼンが思い出したのが、幼い頃に師父に聞いた昔語りだった。
 高山連なる山脈のふもと、秋も深くなるとウールの赤い実がたわわに実る村。
 村の名にもなっているウールの実と、幾人かの職人が細々と作っているウール木細工以外、産業らしい産業は何もないが、穏やかで静かな土地だと、寝物語に繰り返し聞かされた。
 楊ゼンがその話をすると、呂望もまた、その深い色の瞳に遠い憧憬を浮かべた。
 ───穏やかで静かな暮らし。
 それこそが、軍人であり稀人である彼らが長年、望んでも決して得られなかったものなのだ。
 無論、ごく薄く細い縁(ゆかり)しかない村に、稀人の二人連れが受け入れてもらえるかどうかは分からない。だが、他に当てがあるわけでもない。
 加えて、楊ゼンはその村を見てみたかった。
 養父が生まれ育った村。
 大切な大切な人の思い出の場所を。
 そして、呂望もそんな楊ゼンの思いを汲み取ってか、ウールへ行ってみようか、と言ったのだ。
 彼らしい、静かな微笑を浮かべて。
「多分、予定通りに行けば、ウールに着くのは遅い春の初めの頃ですよ。村が一面、ウールの白い花に覆われている頃です」
 ほのかに薄紅色を帯びた白い花が、村のすべてを包み込む。秋の赤い実に並んで美しい光景だと、師父が懐かしそうに目を細めながら語るのを何度聞いただろう。
「村一面の花か。美しいだろうな」
「ええ」
 その光景を脳裏に思い描いて、二人ともに表情を緩める。
 楊ゼンも呂望も、戦場にいた頃は花に目を留める余裕など殆どなかった。むしろ、花に心を慰められる暇などあってはならなかったのだと言う方が正しい。
 最前線を転戦している最中に、そんな気の緩みは命取りに繋がる。それを防ぐには、常に心を固く冷たいもので鎧(よろう)しかなかった。そうでなければ、己に課された使命を果たし、生還することなどできなかったのだ。
 だが、今はもうそんな真似をする必要はない。美しいものを美しいと、素直に愛でることができる。
 それはどれほどに素晴らしいことであるか。
 戦場を逃げ出したことへの後ろめたさは常に心の奥底に巣食っていても──いつかそれが耐え難いほどに膨れ上がる日が来るかもしれないとしても──、今は戦場から離れて生きられる喜びの方が遥かに勝って、しみじみと感じられた。
 呂望の方も、そんな楊ゼンの思いと同じだっただろうか。
 夢見るような微笑が淡く、口元に浮かんでいる。
 決して純粋な幸せなだけではない、悲しいような切ないような何かを秘めた儚い笑み。
 だが、穏やかで美しいその笑みを見た時、ふと楊ゼンの心が動いた。



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