「ようやく行ったか……」
 昇降機の扉が閉まり、動き出すのを見届けた太乙は、一つ大きな溜息をついた。
 文字通り、大きな荷物を降ろした気分だった。
 その気の緩みが招いたのだろう。不意に脳裏を貫いて始まった激しい頭痛の発作によろめき、片手でこめかみを押さえる。
 半ば無意識にデスクの引き出しを開け、中を探りかけて、ふ、と太乙は小さな自嘲めいた笑みを零した。
「そうか。もう必要ないんだっけ」
 手に触れた小さなガラス瓶を目の高さまで持ち上げ、三分の一ほど入っている白い錠剤を軽く振る。と、からからと乾いた軽い音が響いた。
 そして、その瓶をデスクの上に放り出し、太乙は頭痛をこらえながらゆっくりと歩き始める。
 室内に幾つもある端末の一つ一つに、複雑なコマンドを打ち込み、全データを消去して自壊するようあらかじめ組み込んであったプログラムを呼び出して、キーとなる長い文字列を入力する。
 さほど時間をかけずに一連の作業を全て終え、めまぐるしく変化する端末画面がやがて沈黙するのを、身動きすることなく見守った。
 それから、足を引きずるようにして書棚に積み上げられたデータの記憶媒体や書類ファイルを、今度は随分と時間をかけて、全て昇降機に運び込む。そして最後に自分も乗り込んで、地下の研究所へと降りた。
「あいたた……。やっぱり見栄張らずに薬飲むべきだったかなぁ……」
 今にも崩れ落ちそうな体を、箱の壁にもたれることで支え、地階に着いた昇降機の扉が開くのを待って、一息ついてから半ば手探りでそれを開放状態に固定するようボタンを押し、そこでまた一休みする。
 脳細胞の異常を訴える頭痛はもはや耐えがたい程に、彼を苛んでおり、ともすれば集中力も途切れがちだった。
 だが、ぎりぎりのところで気力を拾い集めて、太乙は一つずつ、目立たぬよう物陰や研究机の引き出し、戸棚の中に隠してあった大量の仕掛けを配線で繋いでゆく。
 まるで蜘蛛が巣を張るのにも似た地道なそれが終わった時には、長い長い時間が過ぎていた。
 最後に昇降機内に積み上げたままの記憶媒体と書類の山に、注意深く抱えていたモノを置き、位置を確かめてから、ようやく太乙はその場に崩れるように腰を下ろした。
「これで終わり、か」
 苦痛から生じた額の冷たい汗を拭うこともせず、目を閉じ深く息をついてから、もう一度薄く瞼を開いて、ほの暗い天井を見上げる。
 動力の消費を極力抑えるため、小さな非常灯しかついていない研究室は長年の埃が降り積もり、廃墟そのままの姿を晒していた。
 だが、埃の下に埋もれているものは、決して前時代の遺物などではない。
 現に今、動力スイッチを入れれば稼動できるものばかり、そして、時代に合わせてほんの少し理論展開させるだけで現在でも十分に活用できる軍事技術ばかりが仮の眠りについているのだ。
 これらは決して、表に出してはならないものだった。
 数十年も前、戦乱で一時、研究者が散り散りになってそのまま忘れられたものを、守護天使たちがずっと秘して守ってきたものだ。
 もう二度と、彼らのような悲しい存在を作らないために。
 彼らの流した涙を再現しないために。
 彼らの最後の一人によって、自分に託されたものだった。
「知ったら怒るだろうな……。ごめんね、呂望、楊ゼン」
 浅く荒い息をつきながら、太乙は呟く。
「でも間に合って良かった。あと半年遅かったら、みっともないところ見せるところだったし、こんなことをあの子にやらせるわけにはいかないし、ね……」
 もう一度気力を振り絞るようにして、周囲の様子を確かめる。
 太乙の足元からは、無数に枝分かれした配線が室内中にくまなく延びていた。
 全ては呂望の再生を決意した時から計画して準備し、そして呂望には決して気付かれないように、彼が培養槽から出る前に隠匿してしまった仕掛けだった。
 電気抵抗の殆どない合金で作られたそれは、並列と直列の二重構造を持って、数十個の仕掛けのうち一つたりとも取りこぼしが生じないように完璧に組み上げられている。
 精緻を極めた蜘蛛の巣のようなその造形に満足して、太乙は手元の小さな携帯端末に短いコマンドを入力する。
 このまま夜が更けるまで待つつもりだった。
 長く待ち過ぎて、自分がしようとしていることを軍に気付かれる危険を犯すわけには行かない。なにしろ、地下とはいえここはカシュローン基地の内部なのだ。
 だが、彼らが戻ろうとは思わない距離を稼ぐまでの間くらいは、何とか耐えられる。
 もともと最悪の場合は、自分に埋め込んだチップを通して、脳波が途切れると同時に、メインデータバンクと主な実験装置だけは破壊するつもりだったのだから、最後の最後まで思う通りに事が運んだだけでも運が良かったのだと思わなければならない。
「悲しまないで欲しい、って言っても無理だろうけど……振り返るんじゃないよ、二人とも」
 悲しみも、苦しみも。
 辛い記憶は全て、ここに置き去りにしてゆけばいい。
 すべて、自分が連れてゆくから。
 ただ、未来と幸福だけを追って。
 自分にも、古い友人にもできなかった事を──手に入れられなかった世界を。
 君たちは、その手に。
「──うん。悪い一生じゃなかった。君もそうだっただろう、玉鼎?」
 苦痛の汗に濡れた顔に仄かな笑みすら浮かべ、心の底から幸福そうに呟いた太乙は、もう一度端末に視線を落として、それが正常にカウントダウンを始めているのを確認してから目を閉じ、壁に頭をもたせ掛ける。
 それきり、もう身動きをしなかった。








 ───その日、日付が変わる頃。
 カシュローン基地の東翼の地下から突如吹き上がった地上にまで達する巨大な火柱は、そこにあった全てを焼き尽くし。
 何一つ形あるものは、その後には残さなかった。



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