楊ゼンはちらりと時計を確認した。
 自分がここに着いてから、もう半時ほどが過ぎている。そろそろ彼が来るだろう頃合だった。
 呂望は、漫然と相手を待たせて平気でいられる性格の持ち主ではない。むしろ几帳面な部類に入るだろう。
 だから、さほど自分が待つことになるとは今も思っていないが、だが、何の感傷もなしに、あの場所を旅立てるとも思わなかった。
 むしろ平然と旅立つのは、相当に困難だろう。
 そう信じられるだけの絆が、あの二人の間にはある。
 楊ゼンは静かに空を見上げた。

 太乙と呂望の間にあるものについては圧倒され、羨望を覚えつつも、嫉妬を覚えたことは楊ゼンはなかった。
 嫉妬を覚えるには、自分たちの置かれた状況はあまりにも差し迫ったものであり、また、彼らの繋がりそのものも、ありふれた情愛などの言葉で形容するには深く、切実に過ぎた。
 彼らの関係をあえて表現するのであれば、家族のような繋がり、だろうか。
 それも普通の家族ではない。
 たとえていうなら、ひどく傷ついて行き場のないもの同士が互いに支え合い、共同生活をすることで命を繋ぐような愛他心が、表面的にはどう振舞っていようと、あの二人の根底には流れていた。
 軍人としての太乙のことを、楊ゼンはさほど深くは知らない。
 ただ、稀人としての凄まじいばかりの能力と、稀人であることを理由に上層部に忌避され、謀殺された自分の養父と交友があったという事を考え合わせると、彼もまた平坦な出世街道を歩んできたわけではないだろうことは想像できた。
 どれほどの能力があろうと、人を殺すための発明を強いられて、そこに喜びがあるはずはない。
 少なくとも、楊ゼンの見た太乙は、自分の作った武器が高性能であることを誇るような歪んだ嗜好の持ち主ではなかった。
 彼が真実、望んだ生き方など知る術もないが、もし研究者としての自由が許される時代に生まれていたのであれば、きっと彼は心の赴くままに生活に便利な様々な道具を開発しただろう。
 突拍子もない事を好む彼のことだから、その中には、きっと珍妙なものも実用的ではないものもあっただろう。だが、次々に発明される品は、きっと人々を喜ばせ、楽しませたに違いない。
 彼はそれだけの能力の持ち主であり、またユーモアに溢れた人物でもあるのだ。
 だが、時代は──この世界は、彼に彼の望むような幸福を与えはしなかった。
 おそらく、彼は軍の研究所に安穏とし、兵器開発に従事する自分を誰よりも嫌悪していたのだろう。
 そうでなければ、究極の人間兵器である守護天使を、兵器としてではなく人間として扱ったことの説明がつかない。
 ましてや、機能停止した守護天使を、極秘にただの人間として再生し、それを逃がそうとするなど、軍の研究者としては正気の沙汰ではない。軍の上層部が、新たな守護天使を開発できないかと打診してきたように、もう一度新しい兵器を作ることを模索するのが正しい技術将校の在り方なのだ。
 おそらく、と楊ゼンは思う。
 太乙は、何かを作り出したかったのだろう。
 冷たく血なまぐさい人を殺す道具ではなく、もっと優しい、愛おしいものを。
 心をかけて愛せるものを。
 死と破壊の対極にある、幸福、を自分の手で生み出したかったのだ。
 その想いが、三年前の悲劇的な衝撃をきっかけとして飛躍し、科学者としての狂気とも思える呂望の再生という形で結実したのに違いない。
 確かに、人間を造り出すという彼の行いは身勝手と称されるものだろう。だが、それは科学者の傲慢でも何でもなく、一人の人間としての生と命に対する叫びであったことは、楊ゼンには痛いほどによく分かった。
 楊ゼンもまた、長年戦場に身を晒し、数多の生命を奪い続けていたからこそ、太乙がどれ程、ごく普通の生活に──当たり前の幸福に焦がれていたか理解できるのだ。
 戦争を憎み、軍部を嫌悪し、けれど、新しいものを開発したいという欲求を抑えることができず、優秀な科学者として潤沢な資金が得られる軍の研究室に納まっている。
 そんな自分に対し、太乙がどれほどのジレンマを抱えていたのか、楊ゼンには想像することしかできない。
 そして太乙は、管理者として守護天使──呂望と出会い、彼を人間として扱うことで自分を慰め、長年兵器としてしか扱われてこなかった呂望もまた、そこに安らぎを得た。
 互いに痛みを感じる関係でもあっただろう。
 聡い彼らが、それぞれの中にある矛盾や狡さに気付かなかったはずがない。
 だが、それでも彼らは軍部の中で互いに支え合い、共に歩み続けたのだ。
 そして、そんな彼らに、楊ゼンが惹かれないはずはなかった。

 軍の中で順当な昇進を遂げていたとはいえ、楊ゼンも所詮は稀人だ。
 太乙や呂望と知り合う以前にも、同じ稀人の僚友は幾人もいた。だが、いずれも軍部の方針により複数の稀人将校が一箇所に長く留まることはなく、作戦が終了すれば直ぐにばらばらに引き離されて新たな戦地に配置され、友人と呼べるほどの関係を作ることはできなかった。
 太乙と呂望は、初めて得た、痛みを共有できる仲間だったのだ。
 カシュローン基地に赴任し、軍属の少年を装っていた呂望と偶然に知り合い、養父の旧友であった太乙と面識を得て。
 ようやく楊ゼンは、行きずりの戦友に対する他愛のない言葉ではない、自分の本当の言葉を口にすることができた。
 そして、初めて知ったのだ。自分がどれ程、軍人であることに苦痛を覚えているかということに。
 軍人としてではなく一人の人間として、彼らや彼らと過ごす時間をかけがえないと、愛おしいと思い、──そして初めて、本当の意味で死にたくないと思った。
 彼らから離れて、どこか遠い戦場で命を落とすことが恐ろしいと思うと同時に、自分がいない場所で彼らの命が喪われることにも怯えた。
 本当に、いつ誰の命が消えてもおかしくないのだ。
 軍部に在籍する限り、戦場に立つ限り、死はいつでも自分の隣りにある。
 その恐怖から逃れるには、戦場から逃げ出すしかなかった。
 どれほど卑怯とそしられようと、惰弱を罵られようと、戦場には人としての幸福はない。
 そして、それ以上の理由など見つけることはできなかった。

「──結局、説得はできなかったな。しようと思う方がおこがましいんだろうけど……」
 太乙が、自分たちと共には行かないと言った時、楊ゼンが感じたものを言葉にするのは難しかった。
 行かないという理由そのものについては、即座に幾つも想像がついた。
 除隊の口実があった楊ゼンはともかくも、技術将校として抜群の成果を上げている太乙の除隊が認められる可能性はまずなかったし、あの地下研究所の処分をどうするかという問題もあった。彼自身の寿命という問題も当然、考慮に入っていただろう。
 比べて楊ゼンと呂望は、少なくとも残り十年近い余命がある。そこに、長くとも二、三年しか生きられないだろう自分が割り込む必要はない、と太乙が考えるのは当然とも言えた。
 寿命を迎えた稀人の末期は決まっていて、脳細胞の変異が始まってから半年から一年ほどで、自由に身動きすることは叶わなくなり、寝たきりとなってしまう。
 それは逃亡生活を送ろうという者たちにとっては致命的な足枷だ。
 そして、太乙の老化が始まるまでに安全な隠遁地を見つけられるという保証もない。
 また、自身の死を見せまいとする気持ちも、太乙の中にはあるような気がした。
 昨夜、最後に短い時間ではあったが、酒を酌み交わした時も、希望だけを見つめて行けばいい、というような意味合いのことを彼は口にした。
 必要最小限のものだけ荷造りしたら、後は全部置いていけばいいんだよ。空にはいつだって太陽が輝いているし、道だってどこまででも続いているんだから、わざわざ後ろを振り返る必要なんてない、と。
 そののんきな口調ながらも静かな言葉に、楊ゼンは、共に行きませんかと往生際悪く誘いかけた言葉を飲み込んだのだ。
 彼は残り、自分たちは行く。
 それが彼が最初から決めていた結論であり、覆すことは不可能だった。
 今、改めて考えてみれば、太乙が己の我を通さなかったことは、これまで一度もないのではないだろうか。
 守護天使の管理者となった時に呂望という本名で呼ぶようにしたことを始めとして、呂望を再生したことから、今日、二人を送り出したことまで、どれもこれも太乙の意に適うことばかりであったように思われる。
 とはいえ、それは他の二人の意思を無視したということではなく、結果的に全員にとって最も良い状況を導き出せるよう、彼が心を砕き、行動をしたということであって、楊ゼンも呂望も彼のやりように不満を感じたことはなかった。──唯一、彼が共に旅立たなかったことを除けば。
 この先、残り少ない時間を彼がどう生きてゆくのかは分からない。
 だが、もうどうすることも叶わない。
 ただ、彼が幸いあれと祈ってくれたように、自分たちもまた、彼の最期が平穏であるようにと祈るしかできない。
「やれるものなら、首に縄をつけてでも引きずり出したんだけどな……」
 おそらく、今感じていることは単純な言葉で表現できるのだろう。
 別れが──今生の別れが辛い。
 それだけのことだ。
 たったそれだけのことに、けれど、胸が潰れそうに痛む。
 養父が死んだのは戦場でのことであったから、こんな風に痛みを感じることはなかった。むしろ衝撃の方が強く、悲しみはその後から押し寄せてきた感じだった。
 呂望の時もそうだったし、僚友や部下の死もそうだった。
 目の前で斃れるところを見るか、一日の戦闘が終わった後、疲れ果てた鼓膜に無機的な報告を聞かされるか。
 戦場という場所には、あまりにもあっけない死が当たり前のように転がっていて、感傷的になるには死が近くにあり過ぎた。
 別れが辛い、と感じたことは、思い出せる限りこれが初めてであり、痛みもまた、初めて感じる種類のものだった。
 けれど、自分たちは行かねばならないのだ。
 それが自分たちの望んだことであり、彼の望んだことでもある。
 彼に言われた通り、空と大地だけを見つめて振り返らずに行けば、きっといつか求める地平が見えるだろう。
 それはきっと、どこまでも果てしなく、穏やかで静かで、生きる喜びに満ちた大地であるに違いない。
 それがたとえ子供じみた空想であっても、そう信じてゆくことが、今の自分たちに必要なことだった。
「────」
 遺棄された建物の扉が開閉する錆付いた金属の音に続いて、じゃり、と砂を踏む音が耳に届き、楊ゼンはそちらを振り返る。
「呂望」
 名を呼ぶと、彼は待たせてすまないというように小さく微笑んだ。
 右肩に背嚢を背負って近づいてくる彼の目が、少し赤いように見える。
 当然のことだろうと思った。
「行きましょうか」
「うむ」
 うなずき合い、カシュローンのバザールで安く手に入れた軍の払い下げのビーグルに乗り込む。
 そして二人は、乾いた大地に白くそびえる城塞(カスバ)の遺跡から、砂埃を上げて立ち去った。


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