SACRIFICE
-ultimate plumage-

14. long good-by

 良く晴れた朝だった。
 雲ひとつない空は不思議なほどに青く澄み渡り、太陽が白く乾いた大地を照らし出している。
 この地上のどこかに戦火が広がっていることなど想像すらできないほど──あるいは天地は人間の存在など、塵芥ほどにも気には留めていないのかもしれない──、世界は静かだった。









「本当に良いのか」
「だから、私を何歳だと思ってるんだい? 今更ここを出ていこうなんて、これっぽちも思わないよ」
「だが……」
 少しばかり迷いを残した瞳で、呂望は目の前でのんびりと背もたれ付きの回転椅子に腰を下ろした科学者を見つめる。
 呂望の足元には、軍の支給品としてはさほど大きくない、背に負っても苦にならない大きさの背嚢があり、そして、太乙はそんな呂望をどこか面白がるような表情で見つめ返していた。
「いいんだよ、呂望。私にとっては、軍は別に居心地の悪い場所じゃない。結構な特別待遇をされているし、こんな研究室を独り占めして、好きなだけ好きな研究もできる。どうせ先の長くない命なんだ。最後まで好きなことを好きなだけやって終わりにするのがいいんだよ」
「太乙……」
 言葉を選びきれず、小さく名前を呼ぶ。
 確かに、と呂望は考えた。
 太乙が自分の管理者となってから、今年で八年になる。ということは、彼は今、三十四歳だ。
 稀人の寿命は、どれ程長くても四十年。そして、稀人としての能力が大きければ大きいほど、その寿命は短くなる傾向がある。
 ゆえに、常識的に考えれば、太乙は既に老年期──最晩年といってもいい年齢に足を踏み入れていることになる。
 とはいえ、三十四歳は三十四歳であり、外見的にも内面的にも老化どころか、わずかな衰えさえ見当たらない。外見通りの研究者として、あるいは人間として最盛期を迎えつつある年齢のままに充実し、冴えを見せている。
 けれど、それでも。
「──おぬし……」
「ああ、違うよ。まだ大丈夫。まぁ、いつ『老化』が始まってもおかしくないのは事実だけどね」
 懸念を忍ばせた呂望の呼びかけに、太乙はひらひらと右手を振って見せた。
 その言葉と態度が、どこまで真実なのか、呂望には判別できなかった。
 彼の倍以上の年月を生きて、その間に数限りにない人間を見てきたのに、太乙以上に感情や本音を隠すのが上手い者を呂望は知らない。
 ただ、稀人特有の『老化』が……耐えがたい頭痛や吐き気と共に脳細胞そのものが変異し、壊れてゆく致死的な現象が、遠からず彼を死に追いやるのだということだけは、絵に描くよりも明白に分かりきっていた。
 そして、それは太乙も知っている。
 否、稀人ならば誰もが承知している、己の死の姿だった。
「さあ、そろそろ行きなよ。楊ゼンをあまり待たせちゃ可哀想だろう?」
「……うむ」
 うなずきながらも、ぐずぐずと呂望の足はそこに留まる。
 意味のないことだと、避けがたいことだと分かっていても、ここを──太乙の側を離れがたい気持ちはどうしようもなかった。
 軍にはもう、守護天使だった頃の記憶から生まれるかすかな痛みは残っているものの、未練などない。
 今日、こうして楊ゼンと共に基地を出て行くことは、新天地へ向かうのだという大いなる不安と高揚感をもたらすばかりで、そこに悲しみや苦痛の影はなかった。
 今、ここを立ち去る前に何らかの思いがあるとしたら、彼への未練、それだけだ。
「────」
 改めて、呂望は太乙をじっと見つめる。
 その姿かたちを、瞳の色を、時には得体の知れないと形容される口元に浮かぶ笑みを、瞳に焼き付けておこうとするかのように。
 ───事実、この時を限りに二度と会うことはないと、どちらもが承知していた。
 いつかどこかで再会することなど、自分たちには有り得ない。
 自分は軍の影響の及ばない遠く離れた地へと逃れ、太乙は遠からず、その生命を全うする。
 互いの未来について、どんな約束も交わすことはできないのだ。
 これが、軍人が僚友を戦地に送り出す時であれば、帰ったら飲もう、というような約束事が、たとえどんなに成就が絶望的であると分かっていても交わされるが常であるのに。
 それすらも、自分たちにはない。
「太乙」
「ん?」
「おぬしには……感謝しておるよ。おぬしがいなければ、わしは人間には戻れなかった。とうに人間であることを止めて、純粋な兵器と成り果てていただろう。そうなれていたら楽だったのに、と思ったこともある。だが……」
 込み上げる想いをこらえるように、呂望は一度唇を噛んだ。
「おぬしがわしに、呂望の名を思い出させてくれた。この六十年間、わしを人間として接してくれたのは、おぬしと楊ゼンだけだった。そのことに心から感謝している」
「そんな大層なことじゃないよ」
 黙って聞いていた太乙は、揶揄するでもなく、いつもの彼の笑みで静かに笑った。
「私だって、君の管理者に就任すると決まった時は、どうしたものかと思ったよ。何しろ君は、東軍の秘密兵器だったわけだし。でも、実際に会ってみたら、君はただの年下の男の子にしか見えなかった。だから、感じた通りに接しただけだよ。むしろ、君がそれを許容してくれたことの方が私には驚きだった」
 その言葉に、呂望の顔にもほのかな笑みが浮かぶ。
 だが、その微笑は過去を思い返す痛みと無縁ではなかった。
「そうだな。わしも驚いたよ。歴代の管理者は、おぬしの言う通り、わしを秘密兵器という目でしか見なかった。六十年も経ってから、今更人間として扱われるとは思いも寄らなかったから、呆気に取られて、おぬしの態度を咎めたり疑問をぶつけることを忘れてしまった。そうして、気がついたら、今のこの関係が出来上がっていたわけだ」
「おかしなものだよね」
 くすくすと笑いながら、太乙は立ち上がる。
 そして白衣のポケットに片方の手を入れた格好で、呂望の前に真っ直ぐに立った。
 いかにも非戦闘員らしく細身の青年は、しかしそれなりに均整の取れた体型の持ち主で、背も楊ゼンとほぼ同じくらいある。
 比べて、かつても現在も十代半ばの呂望は並んで立つと、彼の肩の高さにも満たず、いつも青年を見上げる格好になった。
「君は私の最良の友人で、君の方が遥かに年上だったけれど弟みたいな、子供みたいな存在だった。それは今も、これから先、どちらかが死んでも変わらない。そのことは覚えていて欲しいな」
「忘れぬよ」
 忘れられるはずがない。
 忘れられるはずがなかった。
「太乙」
 一歩踏み出し、呂望は両手を伸ばして青年を強く抱きしめる。
 太乙もまた、ためらいなく呂望を抱きしめ返した。

 ───もし、家族と呼べるものがあるとしたら。
 それは太乙だった。
 他愛のない茶飲み話をしたり、下らない冗談を言い合ったり、お互いが無茶なことをすると、呆れつつも本気で心配したり、時には喧嘩をして何日も口を利かなかったり。
 そんな当たり前の日常が、この研究室にはあった。
 妹を含む同胞を戦場で喪った時、もう二度と得られないだろうと思っていたぬくもり。
 身を削るようにして戦い続けた日々において、それがどんなにかけがえのないものであったか。
 今になって、過ぎ去った日々が目もくらむような輝きと重みを持って、怒濤のように襲い掛かってくる。
 ───離れたくなかった。
 子供が親を、弟が兄を慕うように、彼をここに残して行くのは、どうしようもなく心が痛んだ。
 けれど、太乙は共には行かないのだ。
 ここで、自分を見送る。
 それが、彼の選んだ生き方であり、別れの形だった。

「愛しておるよ。本当に感謝している」
「私もだよ。どこにいても、私が君の幸福を祈っていることを忘れないでくれ」
「うむ」
 うなずき、ゆっくりと呂望は太乙から離れた。
 言い尽くせない思いを残したまま、青年を見上げる。
「では、行くよ」
「うん。元気で」
「おぬしも」
「うん」
 そうして足元に合った荷物を取り上げ、片手を上げて、いつも外出する時のように地下研究室へと下りるエレベーターへと乗り込む。
 見つめ合うまなざしの先で扉がゆっくりと閉まり、旧式の昇降機はがたんという衝撃と共にゆるゆると下降を始める。
 その中で、狭い箱の壁に寄りかかり、呂望は込み上げてくるものを何とかしてこらえようとした。
 だが、こらえきれずに一しずくの水滴が床に落ちる。
 同時に、再び軽い衝撃と共に昇降機が止まり、扉が開いて。
 昇降機から降り立って、呂望は足を止め、広い室内を見回す。
 ───自分が二度、生まれた場所。
 そして、もう二度と戻らない場所。
 唇を噛んで、埃臭く薄暗い地下研究室を様々な実験装置や実験台を避けながら横切り、一番奥にある非常口の扉へと手をかけながら、呂望は声を上げて泣きたいと思った。
 けれど、誰も涙など望んではいない。
 自分も、望まない。
 旅立つ──否、巣立つのだ。
 全ての束縛を解き放って、自分は今。
 もう一度生き直すために、一人ではなく今も自分を待っていてくれるだろう青年と二人で。
 そこに涙は必要なかった。
「────」
 思いを振り切るように呂望は扉を開け、そして二度と振り返らなかった。



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