「あなたはもうガーディアンではありませんし、僕も今月末で軍人ではなくなります。もう、以前のような一方的に守り、守られる関係は、もう終わったんです。僕とあなたの間には、もう何の義務も責任もない。あるとしたら、自分たちのそれぞれの意志だけです」
「────」
 穏やかに告げた楊ゼンの言葉に、呂望は小さくまばたく。
 そして、改めて物を思うように、わずかに瞳を伏せた。
 そのまま、しばらく沈黙して。
 やがて呂望は、小さく息を吐き出した。
「──そうだな。わしのガーディアンとしての役目は終わった。この体は生身のものだし、この背にももう翼はない。受け入れなければならぬのだろうな、全て……」
「はい」
 己に言い聞かせるように言葉を紡いだ呂望に、楊ゼンははっきりとうなずく。

 ───この場で、事を曖昧にして良いことは一つもなかった。
 非合法な甦生の結果であったとしても、現実は現実であり、彼は文字通りに自身が生まれ変わったことを受け入れなければならないのだ。
 有り得ないはずの、二度目の命。
 新たな肉体。
 戸惑わないわけがない。
 けれど、楊ゼンとしては、どれほど身勝手な想いであろうと呂望には生きて欲しかった。
 全てをむしり取られ、心身を削るばかりだった一度目の生の分までも、過酷な任務に縛られることも、思考を制限されることもなく自由に、そして叶うことならば、一人の人間として幸せに生きて欲しかった。
 間違いなく、それはエゴだろう。
 あの頃の彼は、ぼろぼろに疲れ果て、全ての力を使い果たして尽きた時には、初めて見る穏やかに安らいだ表情を浮かべていたのだ。
 だが、それが分かっていても。
 理不尽としか思えない形で失われた命を、この世界に取り戻したかった。
 自分も、太乙も。
 そして、その命を今度こそ守り通すためならば、どんな犠牲を払うことも厭うつもりはなかった。

「僕は軍人ではなくなりますが、稀人としての力は変わりませんし、それはあなたも同じでしょう? ガーディアンとしての能力と体は失っても、稀人としてのあなたの力はそのままなんですから。あなたはあなたにできる事を、僕は僕にできる事をすればいい。そう思いませんか?」
「……共に行くのなら?」
「ええ」
 うなずき、楊ゼンは手近にあった椅子を引き寄せて腰を下ろす。
 そして、わずかに首を傾けるようにして呂望の顔を見つめた。
「今更、共には行けないとは言わないで下さいね。僕はもう、決めているんですから」
 はっきりと一音ずつ発音しながらそう告げると、呂望は少しばかり困惑するように瞳を揺らす。
 ほんのかすかなものではあったが、しかし、それを見逃す楊ゼンではなかった。
 近い距離で、まっすぐにその深い色の瞳を見つめ、言葉を続ける。
「僕はもう二度と、間違えたくないんです。何が一番大切なのか、自分が何をするべきなのか。あなたが僕を思い出して下さったからこそ尚更に」
「楊ゼン……」
「今の間だけでもいいんです。軍の影響が薄いどこかの町か村へ辿り着くまでで構いませんから、それまでは傍に居させて下さい」
「───…」
 真摯に紡がれた言葉に、呂望は楊ゼンをじっと見上げ、それから内心の戸惑いと揺れを示すかのようにまばたきをして瞳を伏せた。
 そして、ぽつりと呟く。
「……逆、だろう?」
「逆?」
「今となっては、わしの方がおぬしよりも遥かに無力で、単独で逃亡することは難しい。わしの方が、共に来て欲しいと頼まねばならぬ立場だ」
 呂望の声は、自嘲を含むかのようにひっそりと静かで、楊ゼンはかすかに眉をひそめる。
 どうして彼が、そんなにも自身を卑下しなければならないのか。
 軍のエゴによって、一時、人ではないモノに造り替えられた。そして、再び他者のエゴによって再生させられた。
 彼に、常人との差があるとしたら、それだけのことだ。
 何一つ彼の責任ではなく、それ以外、今の彼には普通の稀人と何の差異もない。
 彼の再生に加担した立場に居る以上、勝手極まる感情ではあることは百も承知だったが、楊ゼンは彼にそんな物言いをさせたくなかったし、して欲しくもなかった。
「呂望、あまり御自分を卑下しないで下さい」
「楊ゼン」
「あなたがあなたであることに、あなた自身は何一つ責任はありません。責任があるとしたら、それは、あなたに生きて欲しいと思った僕たちが背負うべきものです」
「───…」
「そして、それとは別に、僕はあなたと行くことを負担だと思ったことも、嫌だと思ったこともありません。それは決して、あなたの命に責任を感じているからじゃないんです。
 勝手だということは百も承知していますが、あなたに思うがままに生きて欲しいと思うから、あなたが自由を得たいと思われるのなら、それの手助けをしたい。それだけなんです」
 決して、責任感や義務感からではない。
 ただ生きて欲しいから……、その側に居たいから、共に行くことを望むのだ。
 それだけは知って欲しい、と願いながら告げる。
 黙って聞いていた呂望は、少しの間考えるようにしてから、
「──正直、おぬしの言葉を今すぐ受け入れて、了承するのは難しい。だが、おぬしが本気で言ってくれていることは分かるから、受け入れられるように考えてみるよ」
 楊ゼンの目を真っ直ぐに見上げ、小さくうなずいてみせた。
 と、
「痴話喧嘩はそれくらいでいい?」
 不意に割り込んできた太乙の声に、二人は少しばかりの驚愕と共にそちらを振り返る。
 先程、楊ゼンが退役の報告にやって来た時、太乙は呂望と共に茶を飲んでいたのである。その後、彼はどこかに移動したわけでもなく、ずっとそこにいたのだから、会話に入ってくることは不自然でも何でもないのだが。
 さすがに、このタイミングと台詞をもって割って入られると対応に困る。
 第三者の存在を忘れていたのは、楊ゼンと呂望、どちらも同じだったが、しかし、立ち直ったのは楊ゼンの方が早かった。
「痴話なんかじゃありませんよ。そういう事ではないことを一番ご存知なのは、あなたでしょうに」
「うーん。そうかもだけどねぇ。──当事者の一方として、君のご意見は?」
「え……」
 話を振られて、呂望は戸惑ったように太乙を見、そして楊ゼンへと視線を走らせる。
 咄嗟の返答ができないその様子に、視線を向けられた楊ゼンもまた、少しばかり戸惑うような色をのぞかせて。
 そしてまた、そんな二人の様子をさりげなく見つめる太乙と、三者三様の中で奇妙な沈黙が落ちる。
「……ふぅん」
 その静けさを破ったのは、やはり、なんとも暢気そうで、かつ胡散臭さを忍ばせた太乙の声だった。
「ふぅん、とは何だ、ふぅんとは」
 おそらく反射的にだろう。呂望が過敏な反応を返す。
「別にー?」
 だが、噛み付くような呂望の詰問にも、太乙は片頬杖を付いたまま、のほほんと笑んで見せた。
「初々しくていいなー、と思ってさ」
「──ドクター…」
「何? 楊ゼン」
「……いえ」
 反論、あるいは訂正を求める言葉を見つけられず、楊ゼンは言葉を濁す。
 呂望もまた同様のようで微妙な表情のまま沈黙し、その中一人、太乙だけが快活に言葉を続けた。
「ま、とにかくさ。先行きが長いか短いかは分からないけど、当分、二人だけで行かなきゃいけないんだから、仲良くやりなね。人間同士、たまには喧嘩もいいと思うけどさ」
「太乙」
「楊ゼンの除隊日は月末なんだろう? じゃあ、その日に大脱走決行ということで、二人ともいいね?」
 至極簡単に日程を決められて、楊ゼンと呂望は太乙を見つめ、それから互いの視線を見交わす。
 だが、反論の言葉はどちらの口からも出なかった。




 月末まで、残り半月。
 その後のことがどうなるのかは、まだ確かな形では何も分からなかった。



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