「無事に受理してもらえましたよ」
 上官の執務室を出て、真っ先に向かったのは官舎の私室ではなく、既に馴染んだ研究棟の一角だった。
 おかえり、と迎えた面々に対する楊ゼンの第一声に、太乙と呂望は、それぞれに思いの泡沫がはじけたような表情を見せた。
「それは良かったね。君のことだから、もっとごねられるかと思ったのに……、そうあっさりいくと、ちょっと拍子抜けかも」
「妙な期待をしないで下さいよ」
 それよりも、と楊ゼンは、安堵ばかりではない微妙な表情をにじませた相手へとまなざしを向ける。
「呂望?」
 名を呼ぶと、その声に込められた問いかけの意味を正確に捉えたのだろう。深い色の瞳が、ほのかに憂いめいた色をたたえて楊ゼンを見上げる。
「いや……」
 いつになく沈むようなその声に、
「呂望」
 楊ゼンは改めて彼の名を呼んだ。
「気にしているんですか? 僕が軍を辞めるのは、御自分のせいだと……」
「!」
 問いかけに、呂望ははじかれたように顔を上げる。
 その瞳に浮かんだ表情に、楊ゼンは軽く溜息をついて見せた。
 呂望を責めるつもりは微塵もない。ただ、思い違いだけは正しておきたくて、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「別に僕は、あなたのためだけに軍を辞めるわけじゃありませんよ。僕自身がもう、戦場に立ちたくないから辞めるんです」
「楊ゼン」
「第一、僕とあなたが一緒に行くという話になったのは、僕が除隊すると言った後のことですよ。これに関しては、あなたの気にすることじゃありません」
「……それは分かっておるよ。おぬしが決めたことなのだし、わしがどうこう言うべきことでは……」
 けれど、とすっきりしない様子を見せる呂望は、楊ゼンが軍と戦場を忌避するようになった理由の根底に、自分自身の存在と、永訣となるはずだった一度目の死があることにうすうす気付いているのだろう。
 瞳を伏せるように言葉を紡ぐ表情は、呂望が楊ゼンのことを思い出して以来、時折見せるようになったものだった。
 ───自分と出会わなければ、また違った未来があったのではないか、と。
 今もまた、そう考えているのに違いない。
「呂望」
 彼の考えが全く的外れだと言う気は、楊ゼンにはなかった。。
 この二年、呂望の存在は自分にとって何よりも大きく、重かったのは事実である。
 だが、それだけで全てを決められるほど、呂望と出会う以前の歳月が軽かったわけでもないのだ。
「本当は、僕はもっと早く軍を辞めるべきだったと思ってるんです。それこそ七年前、義父が死んだ時に辞めるべきだったと……」
「──楊ゼン…」
「軍にとって、稀人は便利な道具……使い勝手のいい武器でしかない。稀人でもあり、軍人でもある義父を見て育ったんですから、それは分かっていたつもりでした。けれど、仕方のないことだと僕は諦めていたんです。こんなご時勢で、稀人がまともな職にありついて生きていくのは難しいのだからと、悟ったような気分になっていました」
 呂望の深い色の瞳が、まっすぐに楊ゼンを見つめる。
 その瞳の色が、何よりも好きだと、ためらいもなく楊ゼンは思った。
「それに、軍人であることを辞めるのは、軍人として生きて死んだ義父に対する裏切り行為のようにも思えて、僕は軍を辞める決断ができないまま、今日までずるずると戦場に立ち続けてきたんです。そして、この七年の間に一体どれだけの命を奪ったのか……。もう思い出すことも数えることもできません」
「楊ゼン」
「『ひと』に戻りたいんです。稀人であっても、『ひと』として生まれたはずなんですから、最期は『ひと』として死にたい。この手で散々殺してきて、今更虫が良すぎるとは思いますが……」
 ───おそらくは、戦場で赤黒い血を撒き散らしながら死ぬのが、自分にはふさわしいのだろう。
 これまで、数百数千の命をそうして奪ってきたように。
 けれど、もう嫌なのだ。
 これ以上、命を奪うことにも奪われることにも耐えたくない。
 ただ。
 ただ当たり前のように、笑って、泣いて、生きて。
 そうして、いつか……それほど遠くない年月の果てに死ぬ。
 たったそれだけの、けれど戦場からは呆れるほどに困難で遠い生き方が欲しくて、自分のものにしたくてたまらないから、卑怯にも戦場を逃げ出すのだ。
 恥じる気も言い訳をする気もない。
 自分は、たったそれだけのちっぽけな存在なのだから。
「だから、あなたが責任を感じる必要はないんです。僕が自分で考えて、決めたことなんですから」
「……うむ。それは分かっているつもりでおるよ。ただ、……」
「ただ……、何です?」
 声にすることをためらうように言葉を濁らせた呂望に、静かに問いかける。
 と、呂望は己の手を小さく握り締めるようにして。
「おぬしが軍を辞めるという理由の中には、わしのためという部分も全く無いわけではないだろう……?」
「──否定はしませんが、それこそ僕の勝手な感情ですよ。あなたが気に病むようなことじゃありません」
「そうではなくて……」
 言いにくそうに言葉を捜しながら、呂望は楊ゼンを見上げた。
「誰かに、何かをしてもらうということが……慣れぬのだよ。居心地が悪いというほどではないが……」
 どう受け止めればいいのか分からない、と困惑に沈んだ瞳を伏せた、その様に楊ゼンはかすかに眉をひそめる。

 ───戦場において、ガーディアンを庇護する存在など有り得なかった。
 兵士の命を守るために、戦線において最も過酷な座標へと身を投じる。それが六十年もの間、彼の唯一の使命であり存在意義だった。
 最後の最後まで、そうして文字通りに身を削り続けた彼が、今更、誰かに手を差し伸べられても、困惑するしかないのは当然のことだ。
 それは本当に自分に差し伸べられたものなのか。
 手を伸ばして触れてもいいのか。
 そんなことすら分からず、躊躇って立ち尽くすしかないに違いない。

「……そう、ですよね」
 呂望がこれまで歩んできた道程に思いを馳せて、楊ゼンは自分の至らなさに溜息が零れかけるのを、かろうじて推し留めた。
「あなたが戸惑われるのは当然のことでしょう。すみません、僕も配慮が足りませんでした」
「そんな、おぬしのせいでは……」
「いえ、こういうことは、どちらか一方が悪いということはありませんから。ですが、呂望」
 名を呼んで、深い色の瞳を覗き込む。
「うむ……?」
 呂望は、まなざしを逸らすことなく、少しばかり戸惑うように楊ゼンの瞳を見上げた。
「この先行動を共にするのであれば、僕があなたのために何かをするという機会は、増えはしても減りはしないでしょう。それは一緒に居る以上、当然のことですし、そうしたいという僕の気持ちもあります。
 ですから、我儘を言うようですが、少しずつで構いませんから、新しい関係に慣れていってもらえませんか? 代わりに、僕も過剰な気遣いはしないように気をつけますから」
「──新しい、関係」
 どこか不思議そうに、そして、少しばかりの新鮮さを味わうように呂望は呟く。
 その言葉に、楊ゼンはうなずいた。



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