───振り返ることは、ひどく怖かった。

 どんな目で彼が自分を見つめているのか。
 それを知るのが、ひどく怖いことのように思えて。
 薄茶色く煙った地平線を遠く見つめたまなざしを、彼の方へ向ける。ただ、それだけの仕草に渾身の力を費やさなければならなかった。









「呂望!?」
 不意に張り詰めていた糸が切れたようにソファーから倒れこみかかる体を、咄嗟に飛び出して寸でのところで受け止める。
 だが、ぐったりと腕に重みを預けてくる呂望は、完全に意識を失っていた。
 何が、と思うよりも早く、
「ちょっと見せて」
 さほど慌てるでもなくソファーの所までやってきた太乙が、腕の中の少年の顔に手を触れ、脈を取る。
「少し脈が速いけど、呼吸も正常だし、チアノーゼも起こしてない。神経に何か負荷がかかっただけだね」
 そう言い、一人うなずくと、ソファーに寝かせてあげて、と指示を出した。
「覚醒したばかりの頃によく起こした発作だよ。瞬時に処理しきれない情報にぶつかると、自衛して意識を失うんだ。気の弱い人が、びっくりして失神するのと一緒。しばらく眠ったら自然に目覚めるから心配いらない」
 いつもと同じ口調で説明されて、楊ゼンは無意識に緊張していた肩の力を抜く。
 確かに覚醒直後は一日の大半を眠って過ごすと聞いたこともあったし、太乙が心配ないというのなら、本当に危険な状態ではないのに違いなかった。
「ですが、何故……」
 大きなソファーに横たわらせ、胸元のボタンとベルトを少し緩めてやりながら問いかけると、太乙は軽く首をかしげるようにして答える。
「んー。まぁ考えられる原因は一つ、かな」
「何ですか?」
「君の顔」
「は……」
「それしかないでしょ、この場合」
 あっさりと言われて、楊ゼンは目をまばたかせる。
 左目は入れたばかりの義眼だったが、まるで生まれながらの肉体の一部のように馴染んで、何の違和感もない。
「考えてもごらん。呂望はこの二十日間、片目に眼帯してる君しか見てないんだよ。傷の有無だけでも人間の印象は変わるのに、ましてや片目と両目とでは全然雰囲気が違う。再会してから初めて君の顔をちゃんと見たのだと考えるなら、何らかの刺激を感じてもおかしくはないさ」
「それは──」
 淡々とした説明を聞き終えて、楊ゼンの声がわずかにかすれた。
「彼が何かを覚えている、ということですか?」
「反応したということは、そうなんだろうと思うけどね」
 答える太乙の声は、一転して慎重な響きを帯びる。
「ただ目を覚ました時に、呂望が刺激を受けたことそのものを覚えているかどうか……。自己防衛本能というのは、どっちに転がるか全く見当がつかないんだよ」
「──つまり、どうして意識を失ったかということすら忘れているかもしれない、と?」
「そう。内容に関係なく負荷を受けるということ自体が脳にとっては嬉しいことじゃないんだ。『無かったこと』として、その部分をリセットしてしまう可能性もある」
「………」
 太乙の言葉に、楊ゼンはゆっくりと視線をソファーに横たわる呂望へと向けた。
 意識を失った顔は、血の気が少々薄いものの、ただ眠っているだけのように静かに見える。
 そのまま無言になった楊ゼンを見つめ、一つ息をつくと太乙は口を開いた。
「はっきりとは言えないけど、一、二時間経てば気がつくと思う。時間に余裕があるのなら、看てやっていてくれるかい。私はまだやることがあるから」
「──はい」
 うなずいた青年の肩をぽんと一つ叩いて、太乙はデスクの方へと戻ってゆく。
 残された楊ゼンはしばらくの間その場に立ち尽くし、やがて思い出したように空いているソファーへと腰を下ろした。
 ───思い出してくれることなど想像もしていなかった。
 再生そのものが無理な手法だということは最初から分かっていたし、覚醒後も記憶の回復についてははかばかしくないと報告をもらった時から、一番最初、出会ったところからやり直すことだけを考えていた。
 そして、実際に再会して、それで正しかったと思ったのだ。
 呂望の中には過去の自分は存在していない。向けられたまったく見知らぬ相手を見るまなざしに、以前に交わした会話はすべて無かったこととして心の奥底にしまっておこうと思い、その通りにした。
 なのに。
「───…」
 むしろ残酷だ、と思う。
 こんな反応を見せられたら、否が応でも期待したくなる。
 思い出して下さいと、すがりたくなってしまう。
「何も望まないと、決めていたのにな……」
 あの時、冷たい重みを腕に伝えてきたその人が、いま生きて、そこに居てくれる。
 それだけで本当に良かったのだ。
 ただ、それ一つを望んできたはずなのに。
「呂望……」
 ためらいながらそっと右手を伸ばし、さらさらと額に零れている髪にごく軽く触れる。
「あなたの中に、僕は居るんですか……?」
 問いかけても、眠る人は答えない。
 それ以上、問う言葉も掛ける言葉も見つからないまま。
 乱れた心の裡を隠すように、楊ゼンは目を伏せた。

*     *

 ───最後に見たのは、自分の指示を受けて駆けてゆく後姿。


 ……長い長い夢を見ていたようだった。
 肉体を有機金属に置き換えられ、脳の大部分も機械脳に置き換えられ、数十年を生きて。
 仲間は一人、また一人と消えてゆき、自分もまた、いつの日か戦場ですべての機能を──生命を喪うのだろうと思っていた。
 空と大地がどこまで広がっていようと、自分はただ一人きりの存在で。
 わずかに最後の管理責任者となった科学者の青年だけが、人間として沿ってくれて、それは確かに仄かながらも救いではあったけれど、何かを期待することも願うことも遠い日に忘れたまま、かさかさに干からびた心を数十年、抱えて歩き続けた。
 けれど。
 一人だけ。
 たった一人だけ、この背に宿った翼を畏れながらも、それでも六十年の間、一度も誰も言ってくれなかった言葉を。
 最後の最後に。

 ───後悔はしていない。

 あの瞬間、自分がどうなろうと守りたいと強く願った。
 守りたいと思った。
 数万の人々を。
 命を。
 そして。
 最初で最後の言葉をくれた、彼を。
 守れるのならどうなってもいい、と。
 干からび切っていたはずの自分が、千切れるような想いで祈った。
 そうして何が起きたのかは、もう覚えていない。
 悔いはない。
 たとえ何度やり直しても、自分はあの場面で持てる全てを使い切っただろう。
 そうすることに何の躊躇いも覚えない。
 けれど。
 でも、一つだけ。
 遥かな昔に人ではなくなった自分にそんな資格はもうないのだろうけれど、あと一つだけ、余分に願うとしたら。
 それは───…。










 目を開いて、一番最初に見えたのは光だった。
 白い天井に眩しい光が滲んでぼやけている。
 まばたきすると、雫がこめかみを伝い落ちてゆく冷えた感触がした。
「呂望?」
 名前を呼ばれて。
 ゆっくりと目をそちらへと向ける。
 滲む視界に最初に映ったのは、左のこめかみから頬へと斜めに走る傷痕だった。
 そっと手を上げ、その赤みを帯びた痕に触れると、不規則に引きつれた皮膚の感触が指先に伝わってくる。
 けれど、肌のぬくもりは確かに感じられて。
「──楊ゼン」
 驚いたようにみはられた目を見つめ、名前を呼ぶ。
 ───たった一つの、名前。
 後から後から溢れ、零れ落ちてゆくものに、それ以上は言葉にならない。
 けれど、彼には分かったのだろうか。
 彼の傷痕から離れて半端に浮いていた左手が、一回り以上も大きな手にゆっくりと包み込まれる。
 そのまま痛いほどにきつく握り締められ、その手を押し頂くように楊ゼンが顔を伏せて。
 ───それだけで。
 もう何一つ、他に望むことはなかった。



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