「──じゃあ、もう一度」
「……まだ少し違和感がありますね。もう少し、速度を上げてもらえますか。今上げてもらった度数より微妙に小さい幅で」
「ん〜。……これくらい、かな。どう?」
「まだ微妙、ですね」
「じゃあ、もう少し」
 義眼の反応速度を調整している二人の会話を聞くともなしに聞きながら、呂望はソファーに身を沈め、ぼんやりと頬杖をついていた。
 ───低い、けれど低すぎはしない穏やかな、心地よい響きのテノール。
 この声に聞き覚えはあるだろうか、と数日来、脳裏を占めている自問を今もまた繰り返す。
 が、いくら記憶を反芻してみても、ぴったりと重なる音声はない。
 こういう時、機械脳であれば、瞬時に検索、照合ができるのに、と生脳の不便さに少々腹立たしさを覚えながら、そっと研究室の対角線上、検査機器に向かっている青年の横顔を伺う。
 これまでに得られたわずかな情報から判断すると、出会ってから死に別れるまでは、おおよそ一年。
 その間に、自分が覚えている限りではバックアップは二度行っているから、何らかの記憶の欠片が残っていてもいいはずなのに、まるで思い出せない。
 再会(実質は初対面だが)以来、かれこれ二十日近くも宙ぶらりんな状況が続いているのは正直なところ、ひどく気分が悪かった。
「……難しいということは分かっておるのだがな……」
 そもそも、データ化した記憶を生脳に流し込もうというのが無茶な方法なのであって、現在の呂望の記憶は、それこそ滅茶苦茶にかき回された巨大な水槽のような状態にある。
 無意識のうちに選別していた重要な記憶も、とうの昔に忘れ去っていた記憶も全部ごちゃまぜになり、ひどく濁ってしまった水の中から特定の記憶を見出そうとするのは、事実上不可能といった方がよく、それを分かっている太乙も楊ゼンも、呂望に向かって催促するような台詞を口にしたことは一度もない。
 が、気になるものは気になるのである。
 どんな風に出会って、何を話し、思ったのか。
 楊ゼンは思い出す必要はないと言うが、呂望にしてみれば、はいそうですか、とうなずけるものでもない。
 生まれ変わったのだから、ここから改めて始めればいいと割り切るには、彼の持っていた翼の破片は、あまりにも重かった。
「───…」
 返された時以来、何とはなしに手放すことができずにいる欠片を上着のポケットに探り、そっと握り締める。
 これを得たところで、自分が死んだ前後のことはやはり思い出せず、また、彼がその時に何を感じたのか、何を思ってこれを拾い上げ、ずっと持っていたのかも未だ訊けないままである。
 自分が思い出せないことはともかく、楊ゼンに問うことができない一番の理由は、おそらく訊いても彼は答えないだろうという確信だった。
 あくまでも推測でしかないが、楊ゼンの中では、欠片を呂望に返したことで過去への決別はついたのだ。
 忘れはしなくとも、もう振り返りはしない。
 過去の呂望との繋がりを示す唯一の証──その欠片を呂望に返したあの時点で……、欠片を取り出しながら静かな微笑を浮かべたあの時に、彼はそう心に決めてしまった気がするのである。
 といって、実際のところ、自分に対する楊ゼンの言動が特に変わったということはない。
 ただ、比べると、何かを吹っ切った潔さのようなものが、彼の瞳に加わったように思える。あくまでもそれは、よくよく比較したら、という話であって、自分の気のせい……過剰反応なのかもしれないが。
 ───けれど、もし推測が当たっていたら。
 それは少し腹が立つ、と思う。
 自分とも関わりのあることを、彼一人で勝手に決められても困るのだ。
「たとえ一度死んでいても……記憶の一部が欠けていても、わしはここに居る」
 ───そして、楊ゼンも。
 彼もまた、凄惨な戦場を生き抜いて、今、ここに居る。

 これまで、一度死んだ自覚がない呂望の中で、再生以前の過去と再生以後の現在は、楊ゼンという存在を排除したまま続いていた。
 肉体的には有機金属から生身へと大きく変わり、それに伴う違和感も生じてはいたが、記憶そのものは多少混乱しつつも、過去から現在へとそれなりにスムーズに流れていたのである。
 しかし、翼の欠片が返されたことで──失ったものの証を手にしたことで、それまで曖昧にぼやけていた己の死は、呂望の中で明確な輪郭を得ることになり、同時に、楊ゼンという人物が過去、自分と何らかの関わりを確かに持っていたということも、事実として浮かび上がってきた。
 楊ゼンにそんなつもりはなかっただろうが、呂望にしてみれば、この欠片一つのために、覚えていない、思い出せないの一言では、もう現状を片付けられなくなってしまったのだ。
 ───思い出したいし、思い出さなければならない。
 楊ゼンは、さほど親しい関係ではなかったと言ったが、見かけの親しさと内側の心情は常に重なるとは限らない。
 自分が彼にどんな印象を抱いていたのか、自分にとってどんな存在だったのか。
 ただの一士官だったのか、それとも、もっと違う何かを語ることができる相手だったのか。
 他の何が思い出せなくとも、その記憶だけはどうしても見つけ出さなければならないという思いが、あの日から焦燥すら伴って続いている。

「……一番最初は……」
 呂望の名を名乗ったのであれば、出会いはおそらく戦場ではないだろう。その頃の自分は、今と同じくカシュローンに居たはずだから、この基地の中か外か、少なくとも安全地帯であったには違いない。
 そして、出会いからしばらくの間、楊ゼンは自分の正体に気づかなかったと言った。
 だとすれば、自分の感じた最初の印象は。
「………間抜け、か?」
 士官でありながら、ガーディアンを目の前にしてそれに気づかない相手に対する感想など、どう自分の性格を眺めてみても一つしかない。
 だが、呆れたとしても、おそらく今回と同じように、初対面の青年に対して嫌悪感は抱かなかっただろう。それとも楊ゼンは、こちらを只の子供と見て、いかにも軍人らしい傲岸な態度を取っただろうか。
「……それはあまりなさそうだな」
 むしろ、親切な軍人さん、という感じだったのではないのか。
 その様子が容易に想像できるような気がして、思わず呂望は微笑する。
 が、一瞬後にその笑みは掻き消えた。
 ───想像できても意味がないのだ。
 思い出せなければ、過去と現在は繋がらない。
 そして、過去が繋がらない限り、楊ゼンがガーディアンだった自分をどう見ていたのか、何を思って欠片を持ち続けていたのか、訊くことはできない。
「奇妙なものだな……」
 ふと、考えることに疲れて溜息が零れる。
 確かに、事前に太乙から断片的ながらも話を聞いて、関心は持っていた。
 しかし、もともと他者というか個々に対しては極力、関心を持たないようにしていた──感情を調整されていた、というのが正しいが──自分の性分上、たとえ本人に会ったとしても、結局は、ただの顔見知りよりもまし程度の感覚しか抱かないだろうと思っていたのだ。
 そんな自分の性格を知っているのに、どうして太乙がここまでやっきになって自分とこの青年を会わせようとするのか、疑問を感じていたというのが正直なところである。
 なのに、直接対面して、更には自分が喪った物の欠片を示されて、彼自身の事をもっと聞きたい、思い出したいと思うようになって。
 ガーディアンであった頃の自分も、まさか同じだったのだろうか、と有り得ない想像に、しかし、楊ゼンと対面する以前の太乙の態度を思うと、それを否定し切ることも出来ない。
 どうして、たかが一人の青年のことが、これほどのまでにも気になるのか。
「……敢えて言うのなら……」
 彼の目、だろうか。
 ガーディアンであったことを──その力を知っていながら、こちらを見るまなざしは、決して生体兵器を見るものではなかった。
 稀人をも凌駕するガーディアンの能力を恐れたと言いながら、微塵もそんな色はなく、向けられた目はむしろ、太乙に似ているような気がした。
 ───伏羲ではなく、呂望を。
 人間ではないモノではなく、一人の人間を見ている。
 そんな気がして。
「埒もない……」
 口の中で呟き、息をつく。
 有機金属の肉体を失い、もう一度、人間として生き直すことになったものの、何をしたいのか、何ができるのかは未だに心に掴めないままだった。
 外の世界に出たら出たで、それなりに順応して日々を過ごすことはできるだろうが、正直なところ、そうしてどれほど意義のある生を送ることができるのかは、自分ですら微妙だと思う。
 そんな自分と共に、たとえ一時とはいえ楊ゼンが危険を冒して同行するだけの意味が、果たしてあるのかどうか。
 考えずにはいられないのだが、しかし彼の方は重荷とも何とも思っていないらしいことは見ていて分かる。
「わしは……」
 右を見ても左を見ても曖昧模糊として、分からないことばかりが積み重なっている今にくらべると、ガーディアンであった頃は、自分の在り方はひどく単純だった。
 他人の思惑や状況がどうあれ、兵士を守ること、そのために最善を尽くすことだけを考えていればよかった。
 けれど、人間に戻った今は、そんな単純な生き方はできない。許されない、と言った方が正しいかもしれない。
「こんな面倒な生き物だったかのう……」
 しかし、どれほど溜息をついたところで、機械脳に戻れるはずもなく、また戻りたいとも思わないのである。
 仕方がない、と何十回目かの諦めを心に刻んだ時、
「呂望」
 太乙が呼んだ。
「ようやく楊ゼンの義眼の調整が終わったから、見てあげてよ。やっぱり両目が揃ってた方が絶対にいいと思わないかい」
 ひどく弾んだ声の調子に、苦労しているようだった微調整が上手くいったのだと分かる。
 並みの人間の数倍以上の身体速度を持つ稀人の場合、義眼や義肢も当然、特別誂えの上に、とてつもなく微妙な調整が必要になる。
 しかし、それだけの技術を持った軍医は軍全体を見ても片手に足りないほどの人員しかおらず、楊ゼンが提案した義眼の不適合による機能低下という除隊理由は、稀人においては決して珍しいものではなかった。
 双眼視の楊ゼンを見るのは初めてだな、と思いながら呂望はソファーから軽く身を乗り出すようにして、そちらへと顔を向ける。
 この研究室内でも、楊ゼンは検査をする時以外は常に眼帯をしていた。それがどう印象が変わっただろうかと淡い好奇心に駆られて、まなざしを上げて。
 まず一番最初に、義眼も本物の瞳と同じ色なのか、と思った時。
「───あ…」
 くらりと世界が回った。



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