「こちらへ行けと言われましたが……いいですか?」
「うむ」
 座ればいい、と手で示すと、斜向かいの位置のソファーへと腰を下ろす。
 そのまま、短い沈黙が落ちて。
「──この香草茶は、あなたの好みですか?」
 何気ない口調で問われて、呂望は一瞬、何と返答したものか考える。
「好みというと少し違うが、嫌いではないよ。今日は何となく、太乙が脱線気味のような気がしたのでな。ちょっと落ち着かせた方が良いかと思ってこれを出しただけだ」
「そうですか」
 なるほど、と納得した相手の様子が、ふと呂望の勘に引っかかった。
「……わしの好みが以前と変わったかと思ったのか?」
 率直に問いかけると、彼は少しだけ困ったように呂望の目を見つめ返し、それから穏やかな仕草でまなざしを伏せて視線を逸らした。
「──僕が知る限り、あなたはいつもヴァニエ茶を飲まれていましたから。もしかしたら、本当のお好みは違っていたのかと思いまして……」
「……好きなのは、昔も今もヴァニエ茶だ」
 ひどく優しい言い回しをする、と思った。
 ガーディアンであったころの自分と、文字通り生まれ変わった今の自分とでは、明らかに異なっている部分が幾つもある。自分でも感じている違和感があるのだから、以前を見知っている相手なら尚更に異質なものを覚えても仕方がない。
 なのに、極力それを出さないようにしているらしい青年の態度が、かえって取り付きにくさを呂望に感じさせる。
 が、彼の方は、そんなことには全く気づいていないだろう。あるいは、気づいていながら敢えて知らぬ振りをしているのか。
「楊ゼン」
「はい」
 短く名を呼んだ心の内には、もしかしたら、そこはかとない苛立ちがあったかもしれない。
 それは決して、目の前の青年に対してばかりではなく。
「わしとおぬしは、いつ、どこでどうやって知り合った?」
「────」
 敢えて要点のみを告げた問いかけに、彼は即答しなかった。
 もしかしたら、いずれ訊かれることを予測していたのかもしれない。特に表情を変えるでもなく、まっすぐに呂望を見つめて、短い沈黙の後。
「それはお答えできません」
 静かな答えが返った。
「……わし自身が思い出さなければ意味がないからか」
「いいえ」
「では、何故?」
 再度、問いかけると。
 今度は言葉を選ぶように、彼はまなざしを軽く伏せた。
「……出会いから最後までを語ることは簡単です。あなたが口にした言葉も、それに答えた僕の言葉も、おそらく一言一句、ここで再現することはできるでしょう。ですが、そのことに意味がありますか?」
「───…」
「それに、僕とあなたは、おそらくあなたが思われているほど親しい関係ではありませんでした。以前の記憶がどうでもいいものだとは決して思いませんが、僕は今、あなたがここに居て、改めて出会えたことの方を大切にしたいんです」
 青年の返答は、筋が通っていないわけではなかった。
 けれど。
「おぬしの言い分を聞いておると、むしろ過去をなかったことにしたいように聞こえるのだが……。わしの聞き違いかのう?」
 また一歩、踏み込んだ己の言葉に、言いながら呂望は何故、こんな風に彼を問い詰めようとしているのだろう、と心の中でひそかに自問する。
 もともと人付き合いを得意としたことはないし、積極的に他人に関わったこともない。軍における役割が役割だったから、まともに言葉を交わすのは管理責任者を除けば、司令部や参謀の一部、数え上げてもほんの数名しか居なかった。
 なのに今、執拗といっても良いほどに、彼に向けて質問を重ねている。
 おかしい、と思った。
 自分は彼のことを知りたいのだろうか。
 それとも。

 ───自分の中にはない、欠落した記憶の中にいる自分を知りたいだけなのだろうか?

「────」
 まっすぐに青年の瞳とまなざしを合わせる。
 と、今度は目を逸らすことなく、
「……あなたのおっしゃる通りです」
 楊ゼンは答えた。
「──何故」
「僕がしばらくの間、あなたがガーディアンであることに気づかなかった、と言えばお分かりになりますか?」
 そう言った時の青年の顔には、ほとんど表情は浮かんでいなかった。
 だが、ほんのかすかに面をかすめていったのは。
 悔い、だろうか。
「だが……、それはおぬしのせいではないだろう? わしが最初に正しく名乗っておれば……」
「その時も、あなたはそうおっしゃいましたよ」
 言い募ろうとした呂望の声は、静かに優しい声と、ほんのかすかな微笑にさえぎられる。
「僕は、以前のあなたと僕のことも何一つ、忘れるつもりはありません。けれど、やり直せるものなら一番最初からやり直したい。そう思う気持ちも間違いなくあるんです」
「楊ゼン……」
 零れ出た名前に、彼は微笑する。
「ですが、一つだけ……。これが何か、お分かりですよね?」
 一部の乱れもなく身につけた士官服の隠しポケットから、ゆっくりとした仕草で彼が取り出し、テーブルに置いたもの。
 それは。

 ───薄い貝殻のような、透明に近い半透明の、ごくごく淡い青を主体とした優しい虹色にきらめくもの。

 手のひらに収まるほどの不規則な形をした破片に、呂望は大きく目をみはる。
「よくも失くさなかったものだと自分でも思います。これがあったから、どれほど苦しい時でも僕は生きることを諦めずにいられた」
「────」
「あなたの力を目の当たりにした時、僕はあなたを恐れました。それは間違いのない事実です。ですが、恐れつつも僕は、あなたの翼を美しいと感じた。……それも、事実です」
 静かに紡がれる声に、呂望は答えられなかった。
 ただ、吸い寄せられたように、テーブルの上の破片を見つめる。
 そんな呂望を見つめ、楊ゼンは立ち上がった。
「それはあなたにお返しします。これまで十分すぎるほどに僕を守ってくれましたから。あなたが必要なければ、お好きなように処分して下さい」
 そうとだけ告げて。
「では、今日はこれで失礼します」
 わずかに不規則な足音と共に立ち去ってゆく。
 その音が完全に消えてから、ようやく呂望はテーブルの上に指を伸ばした。
 震える指先が一旦、表面をかすめ、それから壊れ物でも扱うかのようにそっとそれを持ち上げる。
「───…」
 照明にきらめく淡い虹色を、声もなく見つめて。
 どれほどの時間が過ぎただろうか。
「あれ、呂望、それは……」
 掛けられた声に、びくりと我に返った。
「まさか楊ゼンが持ってたのかい? あんな激戦をくぐって、よく失くさなかったものだねえ」
「……太乙」
「うん?」
「わしは……死んだのだな。兵士を……守って……」
 呟くように言葉は零れた。
「わしの守った兵士の中に……あやつは居ったのか……?」
「……うん。いたよ」
「そうか……」
 ぐっと破片を手のひらに握りこむ。
 冷たくはないが硬い鉱物の感触が、胸に突き刺さる。
 ───楊ゼンが興味本位で、この破片を拾ったとは思わなかった。
 自分は、ガーディアンとして生きて、力尽きて。
 そして、その死を悼んでくれた者が居た。
 記憶の欠落を生じている今の自分には、その時の己が為すべきことを為せたのかどうかは分からない。
 けれど、最後の最後まで守ろうとして。
 そんな自分を見届け、忘れまいとしてくれた者が、少なくとも一人はいた。
 この破片は、きっとその証だ。
 ───それだけで、もう十分だった。
 身体を作り変えられ、人ではないものとして戦い続けた六十年余の日々。
 それが今ようやく、意味を得たような気がして。
 こみ上げるものに耐え切れず、唇を噛み締めて顔を伏せる。
「───…」
 くしゃくしゃと太乙の手が優しく頭を撫でる感触がしたけれど。
 もう顔を上げることも、何かを言うこともできなかった。



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