「御厚意に感謝します」
「うん。──呂望」
「ん?」
 不意に名を呼ばれて、思わず呂望は目をまばたかせる。
「君も楊ゼンと一緒に行きなさい」
「は……」
 思いがけない言葉に呆気に取られて、太乙の顔を見つめた。
 が、いつもと同じ、飄々とした掴みどころのない微笑ばかりが向けられていて。
「ドクター、それは……!」
 呂望が言葉を思いつくよりも早く、青年の方が反応して半ば腰を浮かせる。
「何? 何か文句あるのかい?」
「そうではなくて……この人にとって、僕は初対面の人間ですよ。突然そんな相手と行けと言われても、この人が困るだけでは……」
「あれ、この子に好かれる自信がないんだ?」
「そういう問題じゃないでしょう!?」
「要約すればそういうことだろう。呂望、ちょっと聞くけど、初対面の印象はどうだった? 逃避行の同行者としては不満かい?」
 笑顔と共に問いかけられて。
「ドクター!」
「あー、いいからちょっと君は黙ってなさい。今は呂望への質問タイムだから」
 呂望はまだ半ば呆然としたまま、言われるままに青年へとまなざしを向けた。
 すると、こちらを見つめるひどく困惑したような瞳とぶつかって。
「──嫌、ではないよ。むしろ……」
 零れかけた言葉を途中で押しとどめ、視線を青年から逸らし、太乙へと向き直る。
「だが、おぬしは彼を正式に除隊させるつもりなのだろう?」
「もちろん」
「だったら、こんなお荷物は不要だろうが。わしは東方軍の最高軍事機密だぞ。それも死んだはずの……!」
「そんなことは百も承知だよ。でも、いつまでもこんな地面の底にもぐってるわけにもいかないだろう。君は生きてて、自由の身なんだから外に出て行かなきゃ」
「だが、それなら別にわし一人でも……!」
「だーめ。そんな危ないこと、主治医として許可しないよ。今の君は外見は昔と同じでも、身体能力はただの人間なんだから。万が一、君を見知っている人間に発見されたらまずい。それが敵でも味方でもね」
「だからといって、正式に除隊して軍とは関わりのなくなった人間を、軍から逃亡する者の護衛にしろというのか!?」
「そうはいうけど、人選としては最高だと思うよ。楊ゼンは絶対に君を見捨てないし、重荷にも感じない。そうだろう、楊ゼン?」
 突然に会話を振られて、青年は咄嗟の反応に困ったのだろう。
 呂望へと困惑したまなざしを向け、しかし、瞬時に表情を引き締める。
「──はい。ドクターのおっしゃる通りです。ですが……」
「でも…、何?」
「本当にいいんですか、僕で……」
 その問いかけは、呂望が思わず小さく目をみはるほど真摯な響きだった。
 が、太乙はあっさりと振り捨てる。
「他に誰がいるんだい。この子の存在を知っているのは、私以外には君しかいないんだよ?」
「────」
「呂望もだ。そもそも選択肢なんかないんだから、ごねるんじゃないよ。どうしても気に入らなければ、大陸の端まで行って身の安全を確保してから別れたらいい。それまでは一緒に行きなさい。これは主治医としての命令だよ」
「…………」
 当事者の意思など遠く離れたところで今後をお膳立てされて、思わず呂望は青年と顔を見合わせる。
 ───個人的な好き嫌いを言うのであれば、初対面の印象は悪いものではなかった。
 むしろ好ましさを感じたといってもいい。
 だが、それはそれ、である。
 太乙の理屈は間違っていないのだろうが、他者に自己の身の安全の確保を委ねるという事態を飲み込むには時間がかかる。
 が、複雑なのは、彼の方も同じなのだろう。
 しばしの沈黙の後、溜息をつくような調子で、口を開いた。
「──まだ日数はありますよね。義眼や培養骨格を移植して、上官に診断書と除隊願いを受理してもらわなければならないんですから、最低でも一月は……」
「かかるだろうね、当然」
「でしたらその間、こちらに通わせていただいてもよろしいでしょうか?」
「それは勿論だよ」
「分かりました」
 もう一度溜息をつき、きっぱりとした口調で言うと、青年はこちらへ微苦笑未満の表情を向けて。
「短い時間だとは思いますが、その間に僕のことを知って下さい。さしあたって、軍の影響力が強い地域から身を遠ざける必要があるのは、僕もあなたも共通する事項のようですから。その後のことは、またその時に考えましょう」
「……分かった」
 他に手立てはないのかと思いつつ、うなずきながら。
 知己であることを決して匂わせず、知ってくれとは言っても思い出してくれと言わない彼の態度は何故なのだろう、と呂望は思考の片隅で考えていた。

*     *

 青年二人が特大サイズのデスクに並んで向かい、いつになく熱心に議論とも相談ともつかない会話をしている様子を横目で見ながら、呂望は三つのカップに香草茶を注ぐ。
 そして、暖かな湯気を立ち上らせるそれらをトレイに乗せ、わざと軽い足音を立ててデスクへと歩み寄り、
「少し休憩したらどうだ?」
 二客のカップを書類の隙間へと置いた。
「あ、気が利くね」
「ありがとうございます」
 口々に告げられる礼に軽くうなずきながら、ちらりとデスクの上に目をやると、粉砕骨折の跡を幾筋も残した肩甲骨を映した複数枚のレントゲン写真は雑多な書類の下になり、今は新しい光学式武器の設計図が一番上に広げられている。
「今日は、骨の自己培養をどうするかという話ではなかったのか?」
 溜息混じりに、そう問いかけると。
「あ、それはもう終わったから」
 あっけらかんとした返答が返ってきた。
「せっかく五体満足で帰ってきてくれたんだから、ちょっと前に思いついた新しい道具を試してもらおうと思ってね。今から組み立てれば、リハビリをしている間に使いこなせるようになるだろうし」
「僕は、今の光剣でも十分だと申し上げたんですけどね。図面を見ていたら面白くなってしまって……」
「そういうあたり、玉鼎の息子だって感じがするよねぇ」
「あの人ほど、僕はこだわりはないですよ」
「君は実用主義だからね。玉鼎は完全に収集家入ってたからなあ」
「ええ」
 苦笑しながらカップを手に取る青年の頬に、首筋で束ねるには届かなかった鬢の髪が落ちかかる。
 ───軍では少々珍しい長髪は、これでも随分伸びたのだと聞いた。
 無残としか言いようのない様相を呈した敗走の中で、一旦は肩にもかからない長さにしたのが半年余りを経て、不揃いながらもようやく束ねることができるようになったのだと、苦笑するように言った顔は、こちらの同情を徹底的に拒んでいるように見えて、そうなのか、とうなずくことしかできなかった。
 彼──楊ゼンと引き合わせられてから、既に五日が過ぎている。
 毎日、この研究室へとやってくる彼とは幾らか言葉も交わすようになっていたが、しかし、まだ今一つ、為人(ひととなり)とが掴めないままだった。
 悪い人間ではない、とは思う。
 けれど、それ以上にもならないのだ。
 別に、この基地を出るまでとその後、しばらく行動を共にするのは構わないが、その先も長く、積極的に一緒にいたいと思う相手かと問われると、うなずくのは難しい。
「楊ゼン、こっちのことは今日はもういいからさ、呂望の相手をしてやってよ。私は君の肩甲骨の培養をしてくるから」
「はい、分かりました」
 意図的なのか、楊ゼンはこの研究室内では軍人らしい態度は殆ど出さない。
 が、太乙の言葉に逆らうことはまずなく、あっさりとうなずいて、自分のカップを手に立ち上がる。そして、彼らの邪魔にならないよう隅のソファーでくつろいでいた呂望のもとへと歩み寄ってきた。



NEXT >>
<< PREV
<< BACK