「……除隊するつもりなのかい」
「はい」
 戦闘が小康を保っている時期ならともかく、北部戦線が崩壊した今、東軍は恐慌状態に陥っているといってもいい。窮鼠猫を噛むのたとえの如く、なりふりかまわずにどんな手段でも用いて戦況を挽回しようとしている時だ。
 そんな時に、実績ある士官の、それもよりによって稀人の除隊をたやすく上部が認めるはずがない。
 それが分からないはずはないのに、彼は見事なまでに台詞にそぐわない穏やかさでうなずく。
「色々考えましたが、除隊願いを受理されるには他に方法がありません。戦場に戻れる可能性がわずかでもあれば、自分の除隊は決して認められないでしょう」
「それは……そうだけど、でも君ならおそらく、参謀としても留任されるのは間違いない。それはどうする?」
「振り切ります。どうしても認められないようなら、最後には脱走兵になっても構いません」
 彼の声にも表情にも、微塵も迷いはなく。
 すべてをもう決めたのだという意志だけが、しんしんと伝わってきて。
 こういう人間だったのかと……こんな強さを持った青年だったのかと。
 新たな驚きと共に、呂望は目の前の相手を見つめる。
 その視線の先で、彼の右目がかすかに沈鬱な色を滲ませて伏せられた。
「──この左目を失った時、何人もの部下をも失いました。そのうちの一人は自分の副官で……稀人に対しても物怖じすることなく、人の情に疎い僕と部下たちの橋渡しを、ずっと勤めてくれていました。彼ばかりでない……死んだ三百八十八名、全員がかけがえのない部下でした」
 ……かけがえがないのは、彼の部隊に限ったことではない。
 敵軍にあっても、一人一人がかけがえのない部下であり、上官であり、戦友であるだろう。
 けれど。
「もう、こんな思いはしたくないんです。誰に何と罵られてもいい。死んでいった彼らに怨まれても構わない。僕はもう、二度と戦場に立ちたくはない。これ以上、誰かの無残な死を見たくもないし、何よりも、この手で誰かの命を奪いたくないんです」
「……たとえば、」
 たとえば、と太乙は静かに口を開いた。
「このまま軍に残留して、何年か後に参謀として地位を得た君が戦争を終わらせる、というのは? そういう策は考慮の余地はないのかい?」
「……はい」
 かすかに苦悩をにじませながらも、きっぱりと答える。
「短絡的かもしれませんが、今すぐこの馬鹿げた戦争が終わらなければ、僕にとっては意味がないんです。たとえ順当に昇進できたとしても、戦争を終わらせることができる立場に辿り着くまで何年かかるか、それまで寿命があるかどうか……。それ以上に、稀人である僕が昇進したところで、どれほどの権限が与えられるかという疑問もあります。参謀に名を連ねたとしても、せいぜいが末席で、実際的な発言が許されるとは思えません。
 それに、それ以前の問題として、軍に所属してから既に十年以上になりますが、上層部が戦争を終わらせたいと真実、考えているとは自分にはどうしても感じられないのです」
「────」
「おそらくこの命が尽きるまで、どんなに長くてもあと十年でしょう。それなら、その十年は自分が望むように生きたいんです。軍を辞めて、どうやって生きていくかもまだ決めていません。ですが、それでも……」
 これ以上、人の死を見たくはない、と。
 低く紡がれた声は、呂望の耳には血を吐くような苦鳴に聞こえて。
 自分もそうだった、と思い返す。
 ───あの頃何度、自分も思っただろう。
 もう沢山だ、と。
 誰か、もう止めてもいいと言ってくれないかと。
 名も知らない兵士たちの死を目の当たりにするたび、のたうち回るほどの苦しさの中で願った。
 泣くこともできず、逃げることもできず、眠れぬ夜ばかりを過ごして。
 一人でも多くを守ることを願いながら、一日でも早く、擬似心臓が止まる日を夢見ていた。
「───…」
 そのまま、小さな明かりだけが灯された地下研究室は、しばしの間、沈黙に満たされる。
 そして、ゆっくりと顔を上げた青年は、静かな瞳を呂望へと向けた。
「あなたは……僕を軽蔑しますか? 卑怯だと思われますか?」
 そう言った青年の目は、ひどく深い色をしているようだった。
 菫色を帯びた青い瞳には、自嘲の色もあったかもしれない。
 だが、それ以上に、すべてを受け入れて尚、己を貫こうとする意志の方が遥かに強く滲んでいて。
「……いや」
 確かにずるいのだろう。
 卑怯でもあるのだろう。
 まだ数百万の兵士たちが泥と血にまみれて戦っているのに、回復可能な負傷を偽って除隊しようとするのは決して褒められた行為ではないに違いない。
 けれど。
 あらゆる非難を覚悟した上で、彼はもう人を殺さない道を選択したのだ。
 おそらくは裏切り者、卑怯者としての自責に生涯、苛まれることまでも覚悟した上で。
 その強さが、何一つ選べなかった身には、ひどく眩いように思えて、
「人間として、当然のことだと思う。正常な人間なら戦場を忌避して当然だ。おぬしは何も間違ってはおらぬと、わしは思うよ」
 呂望は静かに、肯定の言葉を紡いだ。
「……そうだね」
 黙って傍らで聞いていた太乙もまた、うなずく。
「この戦争はあまりにも長く続き過ぎている。西が正しいのか東が正しいのか、もう誰にも分からなくなっているだろう。正義のためだとでもいうのならともかく、そんな馬鹿げた戦争のために君が命を捨てる必要などないよ」
「ドクター」
「君だけじゃないね。大陸の人間全員が戦争なんて馬鹿馬鹿しいと放棄してしまえば、この戦争は終わるしかないんだ。でも、大半の人間は死ぬのは嫌だと思いながら、戦争を終わらせる方法を思い付かないでいる。……もう戦争を終わらせることなんて想像できなくなってるのかもしれないな。とにかく現状の戦線を維持して戦い続けること……それだけしか考えられなくなっているのかもしれない」

 ───あまりにも長すぎる、大陸中を巻き込んだ戦争。
 一人の人間が生まれて死ぬまでの時間と同じだけの年月、常に戦いがあれば感覚など麻痺してしまって当然だった。
 むしろ、今すぐ戦争が終わったら、大陸中の人々が呆然としてしまうだろう。
 とりわけ軍に直接関わっていた人々や、軍組織を相手に商取引をしていた人々は、明日からどうやって生きてゆけばいいのか、どうやって生活の糧を得ればいいのか、途方に暮れてしまうに違いない。
 ……守護天使を造っても、戦闘機を造っても、いずれも勝利には繋がらず、戦いが中断することもなかった。
 この長すぎる戦争を終わらせるには、おそらく旧策以上に悪魔的な手段か、もしくは百八十度発想を変えた手段を発案するしかないのだろう。そして、そんな兆しは、──もしかしたら既に誰かが考え始めているのかもしれないが──まだどこにも見えない。
 世界のすべてはまだ、戦争を継続する方向へと傾いたまま、誰も戦争のない地上を思い描くことすらできないでいる。
 けれど。
 人が人を殺す虚しさに……どれほど殺したところで戦争が終わらないことに気づいてしまったら。
 その瞬間から、兵士は心の足場を失う。
 それでもなお、生きる術は他にないのだからと、虚しさに見て見ぬ振りをして戦場に立ち続ける者もあるだろう。
 が、彼のように、あえて終わりの見えないそれに加担し続ける義務もないのだと思い切る者も必ず居る。
 そして、生きたいと心の底から願うのなら、たとえ大陸の全体が戦争に依存しているのだとしても、人ひとりがすり抜けて生きてゆく隙間くらいは見つけられるはずだった。

「分かったよ、楊ゼン。誰が見ても文句のつけようのない診断書を出してあげよう。君は君の望む道を生きていくといい」
 そう告げた太乙の表情は、晴れやかなほどに凛と穏やかで。
 長い付き合いでも見たことのない科学者の表情に、呂望はひそかに目をみはる。
 だが、一方の青年はそれに気づいているのかいないのか、古ぼけたソファーに腰を下ろしたまま深々と頭を下げた。



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