SACRIFICE
-ultimate plumage-
12. turning point
研究室に入ってきたその姿を一目見ただけで、彼の四肢がひどく傷ついていることに気づいた。
秀麗の一言に尽きる顔の左半分、左目を覆う眼帯と、その上下に伸びる無残な傷跡ばかりが目立つが、見るものが見れば、歩く時にわずかに右足の動きが遅れること、左肩がかすかに上下することはすぐに分かるに違いない。
満身創痍としか言いようのない姿で、しかし、青年の気配は研ぎ澄まされていながらも穏やかに落ち着いていて。
それだけで、太乙が彼をなぜ気に入ったのか、分かるような気がした。
「しかし……手紙で分かってたつもりだけど、本当にひどいね」
「さすがに写真までつける気にはなれませんでしたから……。驚かせてすみません」
熱い茶を満たしたカップを片手に、青年は淡い苦笑を唇ににじませる。
「いや、いいんだよ。どんな姿になろうと、命を失うよりはいい。絶対にだ」
「ええ」
初めて──少なくとも再生されてからは初めて聞く青年の声は、耳に心地よい低めのテノールで、不思議とこちらを安心させる響きをしていた。
楊ゼンと名乗った彼は、ある程度の情報は太乙から得ているのか、こちらに対して性急に何かを問いかけたり説明したりしようとする様子は全く見せなかった。かといって存在を無視するのでもなく、ただ、この場に呂望も居合わせていることを受け入れた上での自然な態度で、太乙と言葉を交わしている。
その二人の様子を、呂望は黙って見つめていた。
あるいは、もしかしたら無言のうちに感じていたのかもしれない。
───見ていれば分かる、と。
いつか、会えば分かるよ、と言われた時と同じ響きの声が、彼を紹介された時に聞こえたような気がして。
ただ、青年の顔と科学者の横顔を等分に眺める。
「僕もどんな姿になろうと……たとえ手足の二三本を失ったとしても、必ず生きて還ろうと思っていました。ですが……」
「────」
途切れた言葉が、どんな意味を……重みを持つのか、聞かなくとも呂望には理解できる気がした。
司令部が手をこまねいているうちに、北部戦線がいかに無残な崩壊をしたか。
雪と氷に覆われた北の大地で、一体、幾万人の兵士が命を失い、その血で地上を染めたか。
あくまで呂望は、報告書として提出された数字と映像でしか、その様を知らない。だが、それを見た時、数十年の年月を戦場でのみ生きてきた記憶が、まるであたかも己が只中に在ったかのように、むせかえるような血と硝煙の臭いと、左右の兵士たちが次々に倒れていく痛みを感じさせた。
ましてや、彼は現実にその激戦の中に、士官として身を置いていたのだ。
太乙の評を聞く限り……、そして目の前の彼を見る限り、彼の指揮能力はおそらく軍でも指折りと思われるから、損失は他の部隊よりは多少、軽微ですんだかもしれない。が、稀人である彼が、ここまで酷い手傷を負っている以上、彼の部下もまた、無傷で帰還した者が存在するとは思えなかった。
「──第四十一師団第二十六重装歩兵連隊第十七大隊、総兵員数五百名。……生還したのは……、自分を含めて百十二名です」
言葉にはしなかった呂望の想像を言い当てるかのように、視線をやや伏せ気味にカップに添えた手元を見つめながら、しんと青年が言葉を紡ぐ。
「酷い……戦いでした。戦場暮らしももう随分長くなりましたが、この先、これ以上酷い戦いがあるかどうか……」
「ぎりぎり、帰還率二割、か」
受け答える太乙の声も、重く湿った溜息交じりだった。
「それでも、よその歩兵隊に比べれば、まだかなりマシだね。なにせ壊滅した隊を数えた方がよっぽど早い」
「────」
「今更、悔み言を言っても遅いのは分かっているけどね。もう少し早く、総司令部が判断を下せていたら……」
「……そう、ですね」
重く言葉を交わす二人を、呂望は黙って見つめていた。
戦場ほど、生命が軽く扱われる場所はない。兵士を──生命をただの数として見なければ、戦争などできようはずもない。
けれど。
つい一瞬前まで隣りで生きて、動いていた人間が鮮血を撒き散らして倒れる光景を目の当たりにして、平然としていられる人間は神経がよほどどうかしている。
たとえ戦いの最中は神経が麻痺していても、どうにかその場を離脱して一時の休息を得た時、どうしようもない恐怖と悲哀がこみ上げてくるのだ。
ましてや、それが己が守るべき兵士、部下であったら。
言葉を交わしたことのある、あるいは話したことはなくとも見知った顔の相手だったら。
その死に顔は忘れようとしても忘れられるものではない。
生還できた兵士の数より、生還できなかった兵士の数こそが、生き延びた人々の心を苛む。
その痛みを、呂望は誰よりもよく知っている。
だからこそ、何一つ言うべき言葉が、今はなかった。
「────」
ふと気づくと、言葉を途切れさせていた青年のまなざしがこちらへと向けられていて。
「……何だ?」
「いえ……すみません。あなたとは初対面なのに、こんな話しかできなくて……」
「いや」
謝罪する自嘲めいた声の奥に、彼の負っているひどい疲れが垣間見えたような気がして、呂望は小さく首を横に振る。
「わしは構わぬよ。酷い戦いをした後の気持ちは、それを体験した者にしか分からぬものだ。幸い、ここにはこの三人しか居らぬのだし、他にも話せることや話したいことがあるのなら、気が済むまで話せば良い」
「──ありがとうございます」
呂望の言葉をじっと聞いていた青年は、ふっと片方しかない瞳の色を緩ませて淡く笑む。
───それは、ひどく優しげな印象を相手に持たせる、歴戦の軍人には似つかわしくない笑みだった。
だからこそ、その分、赤く引きつれた傷跡が、いっそう無残に見えて、
「その左目は……何時に?」
興味本位にならないよう気をつけながら、静かに呂望は問いかけた。
「言いたくなければ言わなくて構わぬが……」
「いえ……」
聞かれて困ることでもないから、と青年は声のトーンを変えることもなく続ける。
「ティルデンが陥落して敗走する途中に……。すぐ側に迫撃砲が着弾して、その破片で左目と左肩をやられました。肩は骨を砕いたんですが、応急処置しかできなかったので、今も肘が肩より上には上がりません」
「それは大丈夫だよ。すぐに骨を自己培養してあげるから。十日もあれば、元通りになる」
「はい」
それは分かっている、とうなずく青年を見ながら、おそらくその時、彼は誰かをかばったのだろう、と呂望は思った。
肩と同様、不自由になっている右足を、たとえそれ以前に負傷していたとしても、稀人の身体能力なら、直撃でない砲弾の破片くらい十分に避けることができる。
軽傷くらいは仕方がないかもしれないが、肩を砕き、眼球を損傷するような重傷を負うのは、通常ならばありえないのだ。
なのに、回避できなかったということは、つまり、すぐ側に部下なり何なり、庇うべき対象が居たのに違いない。
だが、その誰かが生還できたかどうかは分からない……生還の確率がかなり低い以上、敢えて口に出して確認できることではなかった。
「左肩と……あと右足も不自由そうだね。足首?」
「はい。一応完治してますが、踝(くるぶし)の骨と腱を傷つけたので……」
「じゃあ、そっちも培養しないと。目は培養して再生するより義眼の方がいいな。義眼の方が微調整が利くから、前と全く同じ視界が確保できる」
「ドクター、その事なんですが……」
半ば独り言のように呟きながら、あれやこれやと治療法に頭をめぐらせている太乙に、青年は落ち着いた声を掛ける。
「左目の治療は不可能という診断書を出してもらえませんか」
「え?」
その言葉に。
思わず呂望も青年の顔を見直した。
だが、二人の視線を受けても、彼は表情を変えることはなく。
「人工義眼は不適合、自己培養した眼球も、以前と同じ視界の確保ができず、大幅に視力は低下。事実上、左目は失明。その影響によって負担の倍加する右目も、将来的には失明の可能性有り、と」
まるで報告書でも読み上げるかのような淡々とした口調で続けた。
「…………」
あまりにも意外だったのか、それとも何か思うことがあったのか。
彼が口を閉ざした後も、太乙は目を軽くみはったまま、しばらく何も言わなかった。
呂望もまた、沈黙したまま青年を見つめる。
彼が何を言わんとしているのか。
その意図は、明白だった。
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