「呂望!」
 地下通路を抜け、呂望がひそかにガーディアンの研究室に戻った途端、待ち構えていたらしい太乙が出迎えた。
 常になく大きな声で名を呼ばれて、呂望はまばたきする。
「どうしたのだ、血相を変えて」
「どうしたもこうしたもないよ! やっぱり生きていたよ!」
 興奮を隠し切れない面持ちで、太乙は主語も目的語もない台詞を叫ぶ。
 だが、その言葉だけで呂望には十分だった。
 はっと表情を引き締めて、太乙を見上げる。
「──連絡があったのか?」
「さっきね。先月の終わり頃に、シリンに駐屯している第十二師団に合流したそうだ。さすがに無傷じゃないみたいだけど、生きてるのは確かだよ」
 言いながら、手にしていた携帯端末を忙しなく持ち替えている太乙の顔は、珍しくも血の気が昇っている。
 軍人でありながら身体を動かすのが嫌いだという天才科学者は、不健康な青白さではないものの、普段は決して血色がいいとは言いがたい。だが今は、耳朶の薄い耳まで血の色が透けて赤くなっていた。
「そうか……」
「今すぐには無理だけど、冬が終わるまでにはここに戻るってさ。ようやく会わせてあげられるよ、呂望」
 普段は、のほほんとした口調を崩さない彼が、今は声まで上ずりかけているようだった。
 余程嬉しいのだろう、少年のようにはしゃいでいる太乙を微笑して見やり、呂望は、まだ見ぬ相手へと思いを馳せる。
 この一年の間、太乙はその人物のことを『彼』としか呼ばず、名前も顔も教えようとはしなかった。話の中で分かったのは稀人であることと、優秀な軍人として北のティルデン要塞に駐屯していたこと、それだけである。
 だが、それだけの情報があれば、その気になれば調べることは呂望には簡単だった。
 DNAを原型のまま、そっくり複製して作り直した器は、能力も原型とまったく同じ──ガーディアンの素材として人体実験の対象となった原因である稀人としての力も、そのまま生成されており、小さな端末一つあれば、呂望はそれを自分の頭脳の一部として、どんな情報でも自由に操ることができる。
 ティルデン要塞にいる稀人の士官など指折り数えられるほどしか居ないはずであるし、ましてや太乙やガーディアンと接点を持っていたとなると、条件に当てはまる候補が複数いると考えることも難しい。
 しかし、呂望は何もしなかった。
 太乙からもらったラップトップ型の端末は、小さいながらも特殊機能満載で、総司令本部の中枢頭脳への侵入さえ容易い代物だったが、情報機関に記録されている『彼』の名前も経歴も容貌も、呂望にとっては興味の対象ではなかった。
 他人に干渉することもされることも嫌っていた太乙が常になく入れ込み、そして、自分ともいずれ会えるというのならば、それで十分であり、それ以上の情報を知る必要などあろうはずがない。
 第一、再生される前の自分は、『彼』を知っていたはずなのだ。
 未だに、そんな人物がいたという記憶の片鱗さえ思い出せず、もしかしたら『彼』に関する部分のバックアップデータは破損、あるいはスクラップと化した記憶の海に消えてしまったのかもしれないが、それでも言葉を交わしたことのある相手だというのなら、自分の力で思い出してみたかった。
 だが、思い出すより、直接顔を会わせる方が早くなりそうだ、と呂望はひそかに溜息未満の吐息を零す。
「でも、本当に良かった。大丈夫だとは信じてたけど、正直、気が気じゃなかったよ。どの程度の怪我だか知らないけれど、腕や足の一本や二本が無くなったって、ちょちょいのちょいで作って上げられるからね。命があることが一番大事なんだ」
「そうだのう……」
 興奮が鎮まりきらないらしい太乙に苦笑して、呂望は未だに顔も思い出せない『彼』のことを考える。
 歴戦の軍人であり、稀人である『彼』。
 何を思い、何を考えて、ここまで死線をくぐり抜けてきたのだろう。
 『彼』には、語れることが……語るべき言葉があるだろうか。
 あるのならば聞いてみたい、と思う。
 あの戦場を、否、あの戦場しか知らない者同士として。
 それは、傷の舐め合いでしかないかもしれない。
 だが、それでも。
「──会えるのか…」
 やっと、と呟いた言葉に。
「会えるよ。何が何でも私が会わせてあげるから、もう少しだけ待っていておくれよ、呂望」
 太乙が喜々として応じる。
 だが、ふと、その弾んだ声の裏に、もっと真摯な何かが潜んでいるような気がして、呂望は太乙を見上げ、まばたく。
 けれど。
 科学者の端正な顔からは、知己の青年の生還を喜ぶ興奮以外、何も読み取れなかった。

*     *

 土埃にまみれ、くすんだ白灰色をした巨大な建造群が、岩山を背景にした窪地にうずくまっている。
 その光景を見て初めて、帰ってきた、と思った。
 だが、振り返ってみれば、ここは長くても数ヶ月滞在するだけで、常に通り過ぎるだけの通過点でしかなかったはずである。
 なのに、帰ってきたと感じる自分の感傷に、青年は小さく笑う。
 しかし、生きて戻ってこられたのだ。それ以上のことがあるだろうか。
 惰弱と呼びたい者は呼べばいい、と思いながら、刻一刻と近付く風景を装甲車の後部座席から見つめる。
 大排気量の軍用ビーグルは、後背に激しい土埃を巻き上げながら地表すれすれを滑空していく。が、風向きによっては薄褐色に視界を遮るその土埃さえも、今は気にならない。
 城壁の外側に設けられたゲートまでは、あと十数分の距離だった。




 無機質な白灰色の廊下の突き当たりにある、そのドアの前に立ったのは、基地に付いてから数時間が経過した後だった。
 戦場でなら省略される様々な手続きも、前線とはいえ非戦場の基地内では、全く簡略化されることがない。
 ここに滞在する間の寝場所を確保するために、あちらこちらの部署を渡り歩き、何枚もの書類に署名し終えて、ようやく楊ゼンは煩雑な事務手続きから解放され、束の間の自由を得た。
 これが下士官以下の兵士なら、もっと事は簡単なのだ。一般兵用の受付に行って階級と所属を告げ、照合が済めば、割り当てられた宿舎の部屋番号と所属隊の詰め所を告げられて、着任の手続きは終わりである。
 なまじ大佐の階級を持っている分、優遇されているようでかえって面倒事が多いのは皮肉だった。
 別に士官用の宿舎をあてがわれなくても、どこでも眠れるのだ。ましてや野戦地でもないここでは、夜中に砲弾が飛んでくる危険性も薄い。
 いっそのこと、廊下や屋上ででも毛布なしで熟睡できそうなほどで、激戦地を渡り歩いてきた身にしてみれば、格式を維持するためだけに存在しているような手続きは、ひたすらに馬鹿馬鹿しかった。
 けれど、と目の前の扉を見つめて、楊ゼンは心なしか浅くなったような気のする呼吸を整える。
 そしてインターフォンに向かい、来訪を告げると、すぐにスライド式のドアは開いた。




「───」
 目が合った瞬間、太乙は何と言えばいいのか分からない、という表情をした。
「──よく、帰ってきてくれたね」
「……はい」
 対する楊ゼンもまた、器用な言葉を見つけられずに短く答える。
 そして、差し出された右手を強く握り返した。
「積もる話はあるだろうけど……その前に君にあの子を会わせたい。あの子も君の話を聞きたがっていると思うから。──それとも、心の準備をしてからの方がいいかい?」
「いえ」
 握手を解いた途端の彼らしくもなく性急な物言いに、少しばかり意外さを感じながらも楊ゼンは穏やかにかぶりを振る。
 気ままな印象の強い太乙だが、決して無神経な人間ではない。彼がそうしたいと言うのであれば、必ず何らかの意味があるのであり、従った方が良い結果が得られる可能性が高い。
 第一、心の準備など、ここに来るまでの道程や煩雑な事務手続きの間に済んでしまっていた。
「すぐに会えるのでしたら、僕も会いたいと思います」
「──うん」
 うなずいて、太乙は表現しがたい、痛みを堪える表情にも似た微笑を浮かべ、白衣の裾を翻す。
 その後に続いて、楊ゼンも一番奥にある旧式のエレベーターに乗り込んだ。
 ボタンを押すと、がたんという軽い衝撃と共に箱が動き出す。
 その狭い空間の壁に背を預け、白衣のポケットに軽く手を突っ込んだ姿勢で、太乙は口を開いた。
「──結局、駄目だった」
「……そうですか」
「私はヒントを何も与えなかったから、実際に望みがなくなったわけじゃないけど、可能性としては分からない。もう覚醒してから1年以上過ぎているし、確率は……かなり、低いと思う」
「はい」
「ごめん」
「ドクターの責任ではありませんよ。それに最初に言ったでしょう? 生きてくれれば、それでいいと」
「うん。でも、ごめん」
「いいですよ。もう一度出会えるんですから。──ほら、もうすぐ着きますよ」
「うん。……楊ゼン」
「はい」
「君は強いね」
 その言葉に、楊ゼンは静かに微笑う。
「そんなことはありません。強くありたいとは思っていますが……」
 語尾に、停止の軽い衝撃が重なる。
 そして、自動でゆっくりと箱の扉が開いた。




「呂望、来たよ」
 その声に、どくんと心臓が脈打つのを感じた。
 楊ゼンは、ひそかに右手を握り締める。
「おぬしが……」
 立ち上がる気配と共に、呼びかけられた声。
 高くも低くもなく、凛と澄んで。
 向けられた瞳も──どこまでも果てしなく澄み切った、深く透明なまなざし。
 まっすぐな視線を呼吸も忘れて受け止め、そして傍らの太乙を顧みる。
 と、低いささやきが返った。
「何も教えてない。名前も言わなかった」
 そうか、と納得して楊ゼンはわずかに瞳を伏せ、すぐに目の前の相手を見つめた。
 本当の意味で、初めて出会える。その心遣いをありがたいと思いながら、静かに呼びかける。
「あなたにとっては、初めまして、ですね。楊ゼンといいます」
「楊ゼン……」
 確かめるように呟き、彼はゆっくりと歩み寄ってくる。
 そして、楊ゼンのすぐ前に立ち、こちらを見上げた。
「負傷したとは太乙から聞いていたが……その左目は……」
「はい。眼球を損傷しましたから、完全に失明しています」
 そう答えると。
 額から左頬にかけて、眼帯の下に半ば隠された傷を思ったのだろう。彼の表情が少しだけ曇り、そのことを切ないとも嬉しいとも感じて。
 小さく胸が痛んだ。



NEXT >>
<< PREV
<< BACK