SACRIFICE
-ultimate plumage-

11. the returnee

 思えば、いつも空を見ていたような気がする。
 過ぎゆく風を、乾いた大地を、遥かな地平線を。
 ただ、来る日も来る日も見つめていた。
 何のために、という問いは意味をなさない。それが自分の存在意義だった。
 何をしたいか、ではなく、何をしなければならないか、そのために何をするか。
 疑問さえ抱く必要はなく、また許されもしなかった。
 多分、不幸かどうかさえ、自分は考えたことがなかったように思う。
 ただ、その中でも哀しさだけは、いつも影のように付きまとい、決して離れなかった。

 あの頃、自分の思考の大半は、擬似本能によって占められていた。
 寝ても覚めても、兵士たちの血の臭いが鼻をつき、その度毎に恐慌状態に陥りそうなほど激しい忌避感と恐怖を覚えた。
 死なせてはならない、血を流させてはならない。
 大半が機械に置き換えられた脳の中で、いつでも何かが悲鳴のように叫んでいた。
 戦場を彷徨する死神の幻影に常に怯え、一つたりといえども生命を狩らせまいと懸命になっていた。
 それを愚かだったとは思わない。
 本当に愚かだったのは……愚かなのは、血と硝煙の中で歯を食いしばりながら戦っていた兵士たちでも、そんな彼らを守ろうと必死になっていた自分でもない。それは今でも断言できる。

 強引な手法で再生された記憶は、細切れになったフィルムのように途中で途切れたり、無秩序に他の記憶にまぎれこんだりしていて、まともな流れを形作っていない。
 古い記憶よりも、むしろ新しい記憶の方が、その現象は顕著だった。
 それでも、あの頃に感じた痛みや恐怖だけは鮮明に覚えている。
 自分が死んだ瞬間さえ覚えていないのに、有機金属の身体に内蔵された魂が裂け、微塵に砕け散るほどの強さで、守りたいと思った記憶だけは手に取れるほどの確かさで残っているのだ。
 我が身の限界を省みることさえ忘れる絶大な恐怖。
 あの感覚を、自分より先に消えていったかつての守護天使たちも、きっと感じたのだろう。
 あんな痛みを魂に──あるいは機械脳の電子回路に感じて、生きていられるはずがない。今ようやく、同胞たちの死が本当の意味で理解できる。

 手をかざすと、内陸の冬でも強い日差しに血管が透ける。
 血の通った、生身の手。足。
 電子回路を持たない脳。
 燐酸塩を主成分とした骨格。
 水分で体積の60%を満たされた身体。
 ほんの1キロ先でも判然とは見えない視覚。
 当然、不可聴域の音波も聞こえない。
 起き上がっていても横になっていても内臓はその重みを伝え、たとえ指一本でも欠損したら、そのまま自然再生することはない。
 あまりにも不完全な──いずれ死に至る肉体。
 けれど、この肉体に意識が宿っているということが、生きているということだ。
 ならば、あの頃の自分は生きていなかったのか。
 ───否。
 生きていた。
 たとえ思考の大半を機械脳に支配され、肉体が有機金属で構成されていたとしても。
 自分は間違いなく、存在していた。
 そうでなければ、どうして痛みなど感じられただろう。
 今も消えない、数え切れない傷みが、自分の存在を証明する唯一のものだ。

 望んだわけではなかった。
 今も、昔も。
 自分が望んで得たことなど、これまでに一度も……一つもないような気さえする。
 けれど、強制された生を恨んでいるかと問われれば。
 返る答えは、また、否。
 与えられ、刷り込まれた擬似本能は、製作者への反抗は当然の如く許容しなかった。
 だから、解放されたはずの今も、恨む術が分からない。
 ただ、訳もなく、もの悲しかっただけだ。あの頃は。
 そして今は。
 相変わらず悲しさはすぐそこにあるが、もう陽炎のようにこの血の通った手には掴めない。
 代わりに、茫漠とした感覚が胸腔を占めている。

 機械脳の電子回路からも、擬似本能からも解放された。
 けれど、生きることから逃げられたわけではない。
 正確には、一旦は解放されたのに、強引に引き戻された。
 恨みはない。おそらく、ないと思う。
 与えられたものを甘受することに慣れているだけかもしれないし、死んだ時の記憶が……自覚がないせいかもしれない。
 確かに意識が覚醒し、状況を把握した時には、あまりの無茶と不条理に呆然とした。
 とても真っ当とはいえない、どこまでいっても歪み続けるばかりの生に、言い様のない虚無感をも覚えた。
 それでも、相手の感傷を──エゴと分かっていても──恨む感情は起こらない。
 ただ、途方に暮れているだけだ。
 物心ついた頃以来、六十数年ぶりに、君は何をしたいのか、と問われて。
 命令もなく、任務もなく。
 戦うことしか教えられなかった自分が突然、自由を宣言されて。

 おそらく、こんな感覚を抱くのは自分だけではないのだろう。
 極端な事例には位置するだろうが、関与できないところで処遇が決定され、それまでの存在意義を失うことは、自分が知っている軍隊という小さな世界を見渡しても、決して珍しくはない。
 だから、悲観することも、不遇に酔うこともするまいと思う。
 命がある。
 手も足もある。
 どこにも痛みなどない。
 ならば何度でも立ち上がり、戦うため、あるいは逃げるために走ることができると戦場で教えられた。
 だから、今はただ、考える。
 消えていった四人の同胞や、数え切れない何万、何十万の兵士たちと異なり、非合法な手法であっても二度目の生を与えられて。
 自分に何ができるのか。
 何がしたいのか。
 そして。
 消えていった彼らは、本当は何をしたかったのか。
 細切れになった記憶のフィルムを拾い集め、脳裏で再生しながら、考え続けている。






 極秘に建設された地下研究室の奥には、非常用の脱出口が設けられていた。
 薄暗い通路を進んで行くと、古びた金属製の扉に突き当たる。それを開けると、また照明の少ない通路があり、通気口や大きな機械の稼動音が遠く、何重にも重なって聞こえてくる。
 振り返って扉を見てみれば、さりげなく『関係者以外立入禁止』と書いてあり、そこが市街地の地下に建設されている広大なプラント層の一画であることが分かる。
 定期的に見回りが巡回する以外、無人といってもいい空間には当然、厳重な監視システムがあるものの、性能のいい小型のジャマーがあれば、存在を撹乱することは容易い。
 そうして人気のない通路を進み、やや離れた位置にある、出てきた扉と同じような古びて錆の浮いた扉の鍵を開けると、また薄暗い通路が目の前に現われる。
 直線で構成されてはいるものの、十字路の多いそこを間違えずに角を曲がって進めば、最後に階段に突き当たり、それを昇って壁の開閉器を押すと、そこに広がっているのは崩れ落ち、風化した遺跡──市街地から最も近いところにある、古い城砦(カスバ)跡の片隅だった。


 前時代の遺跡には、何も残っていない。
 カシュローンの城砦と同じ、敵の侵入を阻止するための曲がりくねった街路も既に崩れ、礎石がかろうじて、その面影を残しているだけだ。
 この城砦が捨てられた理由も分からない。
 風化の激しい地域であるがゆえに正確には判別しがたいが、どこにも火災の痕跡は見られないから、おそらく敵襲に遭って滅んだわけではないだろう。
 となれば、地下水脈の流れが変わって、井戸が枯れたのかもしれない。
 カシュローンも、北西にある大陸最大のアリガ湖から数百キロのパイプラインが通っているものの、基本的には地下水脈に拠っている。
 雨が降ることが珍しい内陸の乾燥地帯では、現代に至っても水の確保が何よりも重要なのだ。水がなくなったら、他所に移動するしかない。
 人間などちっぽけなものだ、とここに来るたびに呂望は思う。
 人間だけではない。動物も植物も、この広大な世界のうち、ほんの小さな小さな空間を間借りして生きているに過ぎない。
 それでも、岩石のように風化し、時の流れの中に消えてゆくことを許容できずに相克を続けている。
 ひどく奇妙なものだ、と感じる。
 しかし、かといって自分がその数多の生命の中の一つであることは変わらない。
 どれほど奇形の命だとしても。
 だから、呂望はただ、白く乾いた遺跡に腰を下ろし、遥かな空を見上げる。



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