「恨んでるかなぁ、と思ってさ」
 さらりと言った言葉に、深い色の瞳がまばたく。
「恨むとは……わしが、おぬしを?」
「そう」
「まさか」
 肩をすくめるようにして微笑する。
 その笑みに、太乙は見覚えがあった。

 ───あの頃、いつも彼はこんな風にして微笑み、すべてを許した。
 自分を傷つけるものも、苦しめるものも。
 他人のエゴを、すべてその微笑の下に飲み込んで。
 ありとあらゆる制約を受けながら、それでも懸命に前を見つめ、生きていた。
 あの頃と今と、一体何が違うのか。
 それを思うと、分からなくなるような気がするのだ。
 自分のエゴを押し通した意味が、どこにあったのか。
 すべてを割切り、気ままに歩んできたつもりの自分の足取りに迷いが生じそうになる。
 ───実際に、迷うことも立ちどまりもすることはないのだけれど。
 それでも、時々何かを確かめたくなるのは、己の弱さ甘さであり、そして『人間』らしさなのだろうと、そんな自分の在り様を受け入れることは、もう随分昔にできていた。

「感謝する、と一言で言うには少し複雑だがのう。だが、わしがずっと人間に戻りたいと思っていたのは本当だ。生きるのが決して楽なことではないとも知っているから、そんなに軽く礼も言えぬが」
「そう」
「生き直すのも悪くはないよ。何がしたいのか、何をすればいいのかも分からぬし、違和感もまだ拭いきれぬがな」
「そうだろうね」
 潔い言葉にうなずいて、太乙は立ち上がる。
「まだ時間はある。『彼』が戻ってくるまで、ゆっくり考えればいいさ。無責任なようだけどね」
「それは良いが……」
 ソファーに腰を下ろしたまま、彼は太乙を見上げた。
 その大きな瞳に、太乙は笑みを向ける。
「悪いけど、何も教えられないよ。『彼』は私の友人の息子で、友人で共犯者、それだけしか今は言わない」
「だからといって、思い出せと言われてものう……」
 この状態でどうやって、と零した彼に、太乙は微笑を深める。
「別に思い出せなくても許してくれると思うよ。事情は分かってるんだし。そりゃ本心としては思い出して欲しいと思っているだろうけどね」
「……その言い方でも十分、プレッシャーなんだが……」
「そんなに重く考えることはないさ。伏羲だった頃の君が気に留めていた相手なんだ。今の君も、会えばきっと好感を抱くだろうから、それでいいんじゃないかい」
 もう一度、最初から始める覚悟は向こうにもできているはずだから、とあっさり告げる太乙に、彼は溜息をついた。
「──つい忘れておったが、時々、無茶苦茶なことを言う性格は変わっておらぬらしいな」
「そんな四年やそこらで、三十年以上培った性格は変わらないよ。それじゃ、そろそろ上に戻るから、何かあったら直ぐに呼ぶんだよ」
「うむ」
 うなずいた相手に見送られて。
 太乙は再び旧式のエレベーターに乗り込み、地上にある自分の研究室へと戻った。

*     *

 ティルデン要塞が陥落した、という情報が入ったのは、この冬最初の雪が舞い落ちてきたのと同時だった。
 結局、最後まで撤退命令が出されないまま、駐屯部隊は補給も滞った戦況の中、ぎりぎりまで戦い続け、要塞の陥落と共に壊走することとなった。
 北部戦線の東方軍は、これでほぼ壊滅し、どの部隊がどれほど生き残ったのかさえ、現時点では定かではない。
 北の平原が西方軍の勢力下に入った以上、これから寒さの厳しくなる中、敗残の兵士たちが友軍の元にたどり着くことさえ困難を極めるだろうことは想像の余地もなく、東方軍の主力が展開している西部戦線も暗澹とした空気に覆われた。



「ひどいな……」
 光学式の画面に映し出されているのは、太乙が技術将校の権限で手に入れた北部戦線の具体的な損害報告だった。
 本来なら大佐という階級に対して公開される情報には、もっと制限があるのだが、兵器開発の担当科学者である太乙には特別に大幅な制限の解除があり、極秘の映像データまでもが添付されている。
 もちろんそれでも限度があり、軍事機密扱いの総司令部首脳にしか与えられないデータも、軍情報部には存在している。そして、そこには太乙たちにとって、更に重要且つ価値のある情報も含まれているはずだが、とりあえずのところは満足すべき量と質のデータが、ここにはあった。
「自分がいたら、とか思うかい、呂望?」
 ラップトップ型端末の小さな画面を見つめながら呟いた相手に、太乙は呼びかける。
 その揶揄というには淡々としすぎた声に、彼は画面に見入ったまま答えた。
「自惚れるつもりはないが、な。こんな状況になる前に、もう少しどうにかできたのではないかと思ってしまう。実際は、ガーディアンが居たところで、どうにもならなかったかもしれぬが」
「西方軍は総力を傾けてきたからね。仕方ないといえば仕方がないんだが……」
「だが、総司令部の判断次第で、もう少しどうにかできたはずだ」
 ここまで追い詰められる前に、撤退、あるいは新しい有効な作戦の決断を下していれば、ティルデン要塞を保持できたかどうかはともかくも、もっと死者を少なくすることはできただろう。
 機械脳を持たない今の呂望に、ガーディアンとして刷り込まれた擬似本能は既にない。だが、それでもあまりにも多い戦死者数に、記憶に刻まれた忌避感が苦悶の悲鳴を上げる。
 だが、呂望は小さく眉をひそめただけで、それ以上は何も言わなかった。
 代わりに端末の画面から目線を離し、傍らに立つ太乙を見上げる。
「それで……おぬしの『友人』は……」
「分からない」
 変わらない口調と声で太乙は応じた。
「少なくとも、これまでに判明してる戦死者の中に彼の名前はないし、全部隊が壊滅しても、彼だけは生き残るくらいの実力は持っていると思う。けれど、大隊長だからね……」
「───…」
 戦場で上官が部下を見捨てることは許されない。
 ましてや、上官が稀人であれば尚更に。
 もっとも現実ではそんな理想論など、一蹴されてもおかしくない。部下を見捨てて一人逃げた士官、司令官の話など、何十年も続いた戦争の中では当たり前のように語られる。
 そして人々は、その惰弱と卑怯に舌打ちし、嫌悪を覚えながらも、自分がそうならない保証はないと密かに拳を握り締めるのだ。
「──戦場で理想的な指揮官、か?」
「おそらくね。私は研究室でしか彼とは話をしたことがないけど、きっと部下に信頼されているいい上官だったと思う」
「だとすると……」
 呂望の声も、曇る。
「でも、まだ分からない。部下が一人でも生き残っていれば、必ず安全地帯まで生還させる。彼はそういうタイプの軍人だろうから」
「……まだ戦っている?」
「必ず」
 静かに言い切った太乙の横顔を眺め。
 呂望はかすかに首をかしげた。
「珍しいな、おぬしがそんな風に断言するのは」
「そうかい?」
「うむ」
 うなずいて、呂望は軽く目を伏せる。
 そして、もう一度視線を上げた時、深い色の瞳は凛と澄んだ光をたたえていた。
「ならば、わしもそやつの生還を信じよう」
「呂望?」
「おぬしがそれほど入れ込んだ相手だ。これまではそうも思わなかったが、是非とも会ってみたくなった」
 そう言い、微笑した呂望を太乙は少し驚いたような表情で見返す。
 そして、ゆっくりと微笑んだ。
「──うん」
 太乙の長い指が、画面上のデータを閉じる。
「きっと帰ってくるよ、彼は……」

 地下深くに建設されたガーディアンの研究室に、無慈悲な地上の風は届かない。
 遠い地表では、乾いた荒野に雪がしんしんと積もり始めていた。



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