SACRIFICE
-ultimate plumage-

10. wintry scene

 見上げる空は、いつも高かった。
 地上で蠢く小さな存在などに構うことなく、風は過ぎ、太陽は巡り、季節は移ろってゆく。
 生まれ、そして消えてゆく世界の輪に抗うことなど、何者にもできはしない。
 ただ、空を見上げ、己の卑小さに目を伏せる。
 この世界の中で小さな小さな存在に許されているのは、それだけだった。

*     *

 戦況は芳しくなかった。
 大陸中央に位置し、複数の前衛基地に厚く守られたカシュローン基地の、そのまた最奥にある研究室に閉じこもっていても、情報はいくらでも流れてくる。
 しかし、この一年余りの間、手にした情報の中に朗報といえるようなものはほとんどなかった。
 四年近く前の西部戦線における大規模なぶつかりあいで、守護天使ガーディアンを喪った東方軍は、その後、戦況を逆転され、じりじりと各地で後退しつつある。
 西方軍が大きな損害をこうむった西部前線では、まだ東方軍が優位のまま一応の平静さを保っているが、南部戦線は依然、きな臭い睨み合いと小競り合いが続き、そして北部戦線では戦況は悪くなる一方だった。
 極寒地帯に近い地域にまで伸びている北部戦線は、軍用道路は通じているものの遠隔地であるがために、大陸中央に総司令部を置く東方軍からの物資や人員の輸送は、他地域よりも難しい。
 だが、西方軍の中心は、大陸の地形上、東方軍よりも北に寄っており、その分、北部戦線への支援も比較的容易だった。
 そういった物理的な不利にもかかわらず、これまで東方軍は善戦を重ね、ついには北部戦線最大の拠点であるティルデン要塞を西方軍から奪ったのだが、西部戦線での大敗北以来、西方軍は総力を北部戦線に移動させており、東方軍の状況は一転して相当に苦しくなってきている。
 中央から支援しようにもティルデン要塞は遠く、またガーディアンを喪った今、総司令部のある西部戦線の戦力を大幅に減らすこともできない。
 結果、見殺しにするとまでは言わなくとも、北部戦線の苦境に歯噛みしながら手をこまねいているしかない、というのが東方軍の現状だった。


「この分だと、ティルデンが陥ちるのも時間の問題かな……」
 届けられた通信文を読み終えて、太乙は溜息まじりに手のひらサイズの端末を閉じる。
 年下の知己が定期的に伝えてくる消息は、淡々とした筆致は変わらないものの、それでも深まるばかりの戦況の厳しさを感じさせた。
 青年の性格からすれば、おそらくこの文面も相当に控えめな表現であるはずなのに、勝機のかけらも見えないこと、少しでも心弱くなれば二度と立ち上がれない、そんな絶望に限りなく近い境地に東方軍が追い込まれていることが、ひしひしと伝わってくる。
 ここまで戦況が悪化してしまったら、本来ならば撤退を考えるべきであり、中央の総司令部にもその打診は来ているだろう。
 だが、しかし、ここで退いたら北部戦線は西方軍の勢力下に落ちることになるし、第一、ここまで追い詰められて、部隊が軍隊としての秩序を保ったまま、安全地域まで撤退することができるかどうか。
 このままティルデン要塞と北部戦線を維持することは難しいというより、既に不可能な状態であることを知りつつ、撤退命令を出せない。それは、ある意味、百年近くも戦争を終わらせることができなかった、総司令部の意思決定力のなさの露呈でもあった。
「撤退さえ許可されれば、各個に脱出することもできるだろうに……」
 許可なく戦場を離脱すれば、それは脱走であり、重大な軍令違反となる。そんな真似は、あの責任感の強い青年はまずしない。
 帰還することなく死ぬことを決して望みはしないだろうが、少なくとも部下が一人でも生き残っている間は、上官として彼らを生かし続けるべく、戦い続けるだろう。
「それとも、彼のことだから自分がすべて責任を背負う形で、部下に脱出命令を出すかもしれないな。その方が彼らしいし」
 知己の青年は軍人であり、何より稀人だ。
 軍隊における稀人の存在意義は、唯一つ、他者より遥かに優れた能力で戦闘を有利に導き、友軍を援けることにある。
 戦闘に勝ち、部下や僚友を失うことなく生還すること。
 その困難な命題をまっとうすることを期待されるからこそ、稀人は軍の中で異端者として敬遠されつつも優遇されるのだ。
 そして、今の彼は、おそらく誰よりも生き抜くことの大切さを知っている。
 苛烈な戦況下で、どれほどの苦難があろうと必ず生還することを求め、また一人でも多くの兵士を生還させようとするだろう。
 ここに、彼の一番大切なものが在る限り。
「────」
 一つ溜息をついて、太乙は椅子から立ち上がる。
 そして白衣の裾をひらめかせ、研究室の一番奥にあるドアへと向かった。



 前世紀の遺物といってもいい旧式のエレベーターは、ゆっくりゆっくりと降りてゆく。
 数十秒をかけて、ようやく底にたどり着いた箱は、制止すると同時に、やはりゆっくりとした動きで両開きの扉を開いた。
 地下の研究室は相変わらず薄暗く、けれど広い室内の真ん中にだけ、読書にも支障ないほどの照明が小さく灯っている。
「外はどうだった?」
 そこに向かって歩きながら、太乙はいつもと同じ、のんきな口調で問いかけた。
「相変わらずだよ。大分、気温が下がってきてはいるが……。明日からしばらく、雨になりそうだ」
「そう。久しぶりだね、雨が降るのは」
「季節の変わり目だからのう」
 高くも低くもない声は、廃墟のような研究室の内部に凛と響く。
 この声の主がいる場所──古ぼけた大きなソファーの手前で、太乙は足を止めた。
「体調はどうだい?」
「悪くないが……」
 曖昧に語尾を濁した返答に、しかし太乙は相手の言いたいことを悟って苦笑した。
「もう一年近いのにねぇ。まだ駄目かい?」
「仕方がない。内臓の重さを感じるのなど六十年ぶりだ。視覚も聴覚も、それこそ狭い箱の中に入れられたくらいにしか利かぬし、筋力も……。
 大分慣れたつもりだが、屋外に出るとどうしても、この身体が蛋白質と水分でできていることを痛感してしまう」
「それが普通の人間なんだけど……」
 ほろ苦い微笑を零しながら、太乙は大きなソファーに腰を下ろす。
 そして、くつろいだ姿勢で隣りに収まっている相手を見つめた。
「とにかく見た目が一緒だからね。余計に感覚の違和感はあるのかもしれないな」
「そうなのだろうな」
 そう言って、彼は自分の手を照明にかざした。
 照らし出された手の輪郭は、成長期の少年のままに細く、頼りない。
「妙な感じだよ。あれほど人間に戻りたいと思っていたのに、いざ生身になると違和感ばかりで、あの器で得られた感覚が忘れられない。事ある毎に、「あれ?」と思い、鈍い身体にもどかしさを覚える。今のわしの肉体は特に訓練もしていないのだから、十代半ばの標準程度の能力しかなくて当たり前なのにな」
「嫌かい?」
 問いかけると、考えこむように沈黙が落ちる。
「……嫌ではない、と思う。ただ、違和感を持て余している。そんな感じだのう」
 そして微かに溜息をついた相手の横顔を無言で見つめ、それから太乙はサイドテーブルに視線を移した。
 ラップトップ型の端末と、数冊の本、それから幾つかの小物が無造作に置かれている。
 その中に一つ、目新しいものがあった。
「これは、今日のお土産?」
「ああ。半分、地面に埋もれていたのを見つけた」
「へえ」
 太乙は手を伸ばして、それを取り上げる。
 指先で照明の光に透け、きらめいたそれは、無色透明の石英の結晶だった。
 小指ほどの大きさの結晶は、表面の細かい傷に土が詰まっているものの、拭うか洗うかしたのだろう。綺麗に澄んだ輝きを放っている。
「超音波洗浄にかけたら、もっと綺麗になると思うけど、結晶自体が割れちゃうかな」
「大したひびではないがのう。とりあえず、やめておいてくれ。それほど気になる汚れでもないしな」
「そうだね」
 苦笑した相手に、太乙は結晶を返す。
 片手を差し出して受け取った相手を、太乙は口を閉ざして見つめた。
「──何だ?」
 その視線に気付いて、彼は顔を上げる。
 真っ直ぐに向けられた深い色の瞳に自分が映っているのを見ながら、太乙は小首をかしげるようにした。



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