ここに来てから、どれほどの時間が過ぎたのだろう、と楊ゼンは考えた。
 支給の通信機を兼ねた端末は身につけてはいたが、そこに表示されている時刻を確かめるのは何故かためらわれて、ただ感覚のみで時間の流れを測り続けている。
 目の前で刻一刻と時は過ぎ、そして、それに応じてモニターに現れる細い光の線──脳波の波長も変化していた。
 昏睡状態を現す単調な波線から、徐々に複雑に、振幅の大きな波線へと目覚めてゆく。
「そろそろレム睡眠だ。本当にちょうど良い頃合に君は帰ってきたよ」
 ずっと沈黙を続けていた太乙が、モニターを示して不意に言った。
「あと数時間、遅くても早くても、この子の覚醒には立ち会えなかった。まぁ私も、ある程度は君の到着時間にタイミングを合わせたけど……」
 静かに言い、そしてまた太乙は口をつぐむ。
 楊ゼンもまた、ずっと黙ったままだった。
 ───否、この期に及んで話すことなど何もなかった。
 こんな深い恐れと微かな期待を持って、いずれ訪れる一瞬を待っている時に、言うべき言葉など知らない。
 どこを探しても、そんなものが見つかるはずがなかった。
 だから、ただ沈黙して、モニターを見守る。
 静かに眠っているその存在を見ることにさえ畏怖を感じている状況では、それが精一杯だった。
 不規則に振れるレム睡眠の脳波。
 それを見ている間にも、絶えまなく想いが沸き上がってくる。
 ───本当に目覚めるのだろうか?
 ───目覚めたとしても、何かを覚えてくれているだろうか?
 ───否、覚えていなくてもいい。それよりも、生まれ直させられたことを彼はどう感じるだろうか?
 ───もう一度、生きなければならないことを知って、彼は。
 喜びよりも不安が。
 愛しさよりも恐れが。
 待ち続ける楊ゼンの神経を苛む。
 彼の瞳にもう一度、己が写し出されることを想像するだけで、本当に今すぐ、この地下研究室を逃げ出したい思いが込み上げる。

 ───あなたは、僕を。

 ぐっと拳を握る力を強くした時、脳波を示す細い光の線が、これまでになく大きく振れた。
 見る見るうちに振幅が大きく、激しくなる。
 楊ゼンは思わず息を呑んで、彼の寝顔に視線を向けた。
 その目に。
 閉ざされた瞼が、かすかに震えているのが見えて。
 知らず、楊ゼンは椅子から立ち上がる。
 モニターなど、もう見ている余裕はなかった。
「──目覚めるよ」
 太乙の感情を押し殺した低い声さえ、もう耳に入らない。
 食い入るように見つめる、その先で。
 瞼が震えて。


 ゆっくりと、開かれた。


 誕生以来、眠り続けていた瞳には最低限の照明さえ眩しすぎるのか、目を細めて数度まばたきする。
 そのまま、ぼんやりと視線が動いて。
 己を覗き込んでいる存在を捕らえる。
 かろうじて焦点の合った深い色の瞳で、見上げ、まばたきして。
「呂望……?」
 楊ゼンがかすかに震える声で名を呼ぶと、ふと、安堵したように小さな溜息のような息をつき、またすうっと目を閉じる。
「呂望?」
「眠ったんだよ。これまで完璧な箱入りだったわけだから、初めて接する外の世界は刺激が強すぎるんだ。人間の自己防衛本能というのは大したものでね、これから外界に慣れるまでの間は、一日の大半を眠りながら……つまり感覚を半ば遮断したまま過ごすんだよ」
 だが、太乙の言葉にも楊ゼンは反応しない。
 再び眠りに落ちた呂望を、ただひたすらに見つめている。
「楊ゼン?」
 斜め後ろから首を伸ばして、その横顔をのぞきこんで。
 太乙は軽く目を瞠る。
 ───楊ゼンの端正な線を描く頬を、涙が伝い落ちていた。
「ありがとう……ございます、ドクター」
 呟くような声も、小さく震えていて。
「彼にもう一度、会わせてくれたことに……心から感謝します」
 ひそやかな感謝の言葉に、口を開きかけて止め、太乙は微笑を形作る。
 そして、楊ゼンの肩を軽く手のひらで叩いた。
「私は先に上に戻ってるから、気がすんだら帰っておいで」
 それだけを告げて、踵を返す。
 そうしてエレベーターに乗り込み、扉が閉まるまで太乙は淡い微笑をにじませたまま、二人の姿を見つめていた。

*     *

 地下研究室から戻ってきた楊ゼンに手渡されたのは、真新しい光剣だった。
「これは?」
「嫌だねぇ、君が私に依頼したのは『新しい光剣の製作』だろう? ちゃんと持って帰らなきゃ、わざわざここまで来た意味が無いじゃないか」
「そう、ですけど……」
 パールホワイトの超硬質樹脂とクロム(=白銀色の硬くて重い金属。一般には鍍金などに使われる)で形作られたシンプルでありながら美しいフォルムに、楊ゼンの目は吸い寄せられる。
「バッテリーの持続時間は、君がこれまで使っていた奴の倍以上。内部設計も大幅に変えて光線の収束率も3割増にできたから、威力もこれまでとは比較にならないよ。とにかく、あらゆる面にわたって性能を上げられるだけ上げてみた」
 喜々として説明する太乙に、楊ゼンはまだ驚きが抜け切らない顔を向ける。
 これまで、手紙のやりとりの中で使ってきた『光剣』というのは、ただの符牒でしかなかった。
 まさか、本当に太乙が新しい光剣を、しかも技術の最先端を駆使した新設計のものを作っているとは、楊ゼンは想像もしていなかったのだ。
「いいんですか?」
「いいも何も、君のためにオーダーメイドで作ったんだから、持って帰ってもらわないと」
「ですが……」
「いいんだよ。君に死なれたら私も困るんだから」
「え?」
 思わず聞き返した楊ゼンに、太乙は笑う。
「だって、私はもう三十歳だよ? あと何年、生きられると思う?」
「あ……」
「だから、君にはせいぜい長生きしてもらって、あの子の保護者役をしてもらわないとね。もっとも、あの子が嫌がったらそれまでだけど」
 そう言い、太乙は学生のような仕草で白衣のポケットに両手を突っ込んだ。
 そして、軽く顔を上げ、天井の照明を見つめるようにしながら、淡々と告げる。
「とりあえずここまでは何の問題も起きなかった。あとは、記憶だ。バックアップディスクから流し込んだ過去のデータは全部収まっているだろうけれど、その後の最期に採った分の記憶はどうなっているかは分からない。
 流し込まれたデータは、本人が意識的に階層化して格納したものではないから、おそらくデータを取り出すのにもいちいち時間がかかるだろうし、中には奥の方にしまわれてしまって思い出せないこともあるだろう」
「……でも…」
 じっと太乙の言葉を聞いていた楊ゼンが、静かに言葉を挟む。
「彼は目覚めたんですから。それだけで十分なのではありませんか?」

 たとえ記憶が戻らなくとも。
 自分たちの知っていた『呂望』ではなくとも。

 ───ひとつの生命が、ここに在る。

 それ以上の喜びは、おそらくは求めてはいけないものだ。

「そうだね」
 楊ゼンを見やり、太乙はうなずく。
「でも最善は尽くすつもりだよ。見かけはまったく同じ人間に、自分のことを忘れられたままというのは辛いものだからね。エゴかもしれないが、できる限り彼にはすべてを思い出してもらいたいと思う」
 その言葉に、楊ゼンは静かに目を伏せる。
 ──呂望は、太乙のことは覚えているはずなのだ。
 バックアップ用の記憶ディスクは、太乙が保守管理者になってから、新しく追加されたものも相当数含まれている。だから、多少欠損した部分があっても、太乙に関する大半のことは思い出せるはずなのだ。
 欠損したままの可能性が高いのは、楊ゼンと出会った以降の記憶に他ならない。
 だから、太乙の言葉は自分のためのものなのだということを、楊ゼンは痛いほどに理解していた。
「──彼のことを、よろしくお願いします」
 それしか言えないまま、亡き養父の親友に対し、深く頭を下げる。
「うん。呂望のことは全部私が引き受けるから、君も必ず、またここに戻って来るんだよ」
 静かに太乙は年下の青年に声をかける。
「一応、これでも技術将校だからね。北の情勢が相当やばくなってきてることは知っている。今回の再編と補給も、そのためだということもね。でも、たとえ腕や脚がなくなっても、命さえあれば私が最高の義肢を作ってあげるから、君は生きて帰って来なきゃいけない」
「──はい」
「その新しい光剣も、私としては最高傑作といっていい出来栄えなんだ。だから、ちゃんと定期メンテナンスをさせてもらいたいんだよ。戦場に持っていって、それっきりというのはやめると約束してくれないと困る」
「ええ。また必ずメンテナンスをお願いに来ます」
「うん」
 白衣の両ポケットに手を突っ込んだままの姿勢で、太乙が笑む。
 その笑顔に、楊ゼンは万感の思いを込めた敬礼を返して。
 静かに、もと来た戦場へと戻っていった。



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