『……今年は春が遅いと以前、書きましたが、どうも天候が不安定な日が続いています。今日も、朝から小雨が降り続き、視界が利きません。
 肌寒い空気の中に身を浸していると、そんな場合ではないのに、彼のことを思い出してしまいます。
 彼と出会い、別れるまでの短い時間は、すべて乾ききった地の青空の下で起きたことだったというのに、こんな北の冷涼な夏に彼のことを思い出すのは、おそらく僕の心象が映っているからでしょう。
 過ぎ去るものすべてを許した彼が、その内面にどれほどの孤独と哀しさを抱えていたのか。想像すると、かつての自分の言動がどうしようもなく、居たたまれない気分になります……』





「あれ、」
 いつものように楊ゼンからの手紙を、培養槽の傍らで音読していた太乙は、終わりの方の文章を目にして、小さく声を上げる。
「『新しい光剣の製作の進み具合は、いかがでしょうか。急な話ですが、最近、当方の敵軍が軍の再編成を行っているようなので、それに合わせてこちらも一旦、軍の再編と補給を行う予定があるのです。その際に自分も一度、短い休暇を兼ねてカシュローンへ戻ることになりそうなのですが……』、だって。本当に急な話だなぁ。そりゃ、この間の返信で完成度は9割を超えたとは言ったけど……」
 言葉ほどには大変そうでもなく、太乙は傍らの培養槽を見上げた。
 この円筒型の培養槽が稼働を始めてから、既に二年十か月。
 相変わらず、内部に見たされた成長促進培養液は透明な外版を透して、淡い青の光を周囲に投げかけている。
 その幻想的な光を白衣に受けながら、太乙は誰に語りかけるでもなく呟いた。
「ここまではすべて順調に進んだ。少し覚醒が予定より早くなるけれど、外見年令でいえば、十ヶ月程度の誤差だ。あとは……何を、どこまで覚えているか、だな」
 そして、骨張った長い指の目立つ手を、ゆっくりと外版に触れる。
「君の中に、私は……彼は居るかい?」
 静かな声は、培養槽や周辺機器の立てるかすかな物音と共に、地下研究室の冷えた空気に吸い込まれて消える。
 そのまま、太乙は長い間、培養の傍らに立ち尽くしていた。

*     *

「──全然、変わってないねぇ」
「あなたもですよ、ドクター」
 楊ゼンが二年ぶりに太乙の研究室に足を踏み入れたのは、冬の始めの雨が降る肌寒い日の午後だった。
「しかし、向こうに比べるとこちらは暖かいですね。ティルデンはもう一面の銀世界ですよ」
「そうは言ってもね、ここで暮らしている人間には十分に寒いよ。私はここに籠りっきりで、建物から一歩も出ないような生活をしてるから、あんまり問題はないけどさ」
「……その生活には十分すぎるほど問題があるように思えますが」
 苦笑しつつ、楊ゼンは不躾にならない程度に、研究室の内部に視線を走らせた。
 白い壁に、無機質な戸棚や作業卓、様々な器具。
 部屋の主も含めて、何一つ変わってはいない。
「相変わらず、お一人なんですね」
「助手なんて私にとっては邪魔なだけの存在だよ。上層部は、私の技術を盗ませるために、しきりに助手を押し付けようとするんだけどさ。どうせ無駄だって、どうして分からないんだろうね。私と同タイプ同レベルの頭脳型稀人なんて、そうそう居るわけがないし、それだけの能力を持っていなければ私の技術を真似ることもできやしないのに」
「……確かに、あなたは不世出の天才科学者ですからね」
「そうそう」
 笑ってうなずきながら、太乙は座っている回転椅子をくるりと九十度ほど回転させ、楊ゼンを見上げる。
「さて、どうする? お茶でも一杯飲んでから行くかい? 今朝、培養槽から出したばかりだから、覚醒までにはまだ少し時間がかかるけど」
 その言葉に、楊ゼンはほんの一瞬ではあったが、表情をこわばらせる。
「そう、ですね」
 返答に惑うその表情を、太乙はかすかな微笑を浮かべたままの瞳で注意深く観察した。
 最後に会った二年前と、面ざしは殆ど変わっていない。
 他者の前では鋭い光をたたえる理知的な瞳も、無駄のないすっきりとした顔の輪郭も、何より印象的な長い髪も。
 『彼』の死後、一時はひどく憔悴した姿を見せていたが、今はもう、以前と同じ歴戦の将校らしい落ち着きと鋭さを取り戻している。
 ただ、雰囲気だけが初めて面識を持った頃に比べると、明らかに変化していた。
 もとより稀人として生まれて、実親には捨てられ養父をも謀殺されたが故に、楊ゼンの中には拭いようのない影が存在していた。が、それが更に透明度と深みを増した、と太乙は感じる。
 ここカシュローンでの一連の出会いと別れが、それを彼に与えたのだ。
 哀しみと痛みは、より深く鮮明に刻み込まれ。
 そして、その苦悩ゆえに、己という存在を更に深く掘り下げることとなって。
 彼という人間を、変えた。
「──いえ、すぐに案内してもらえますか? いずれにせよ、落ち着かないのは同じでしょうから……」
「そうだね」
 わずかな逡巡の後、それでも微苦笑さえ滲ませてきっぱりと告げた楊ゼンに、太乙は微笑する。
 そして立ち上がると、やや年期の入った回転椅子がぎし、と鈍い音を立てた。
「じゃあ、行こうか」




 旧式のエレベーターが降りる長い長い間、楊ゼンはほとんど無言だった。
 しかし、底が──目的地が近付いてきた頃、ひっそりと口を開いて独り言のように言った。
「……戦場で、こんな恐怖を感じたことはありません」
「へえ?」
 太乙もまた、静かに応じる。
「いつでも死ぬこと殺すことに対して恐怖は感じているはずなんですが、でもいざ、戦闘が始まってしまえばそんなことは忘れるんですよ。思い出すのは、野営地の天幕で横になってからの話です」
 下降してゆくエレベーターの壁に軽く背を預け、淡々と楊ゼンは語った。
「なのに、今はこんなに怖がっている。もう少し自制心が弱かったら、叫びながら逃げ出しているところです」
「でも、君は逃げないだろう?」
 がたん、と軽い衝撃とともにエレベーターが止まる。
 そして、自動的に扉が横にスライドした。
「ええ」
 太乙に続いて、狭い箱を出ながら楊ゼンは告げる。
「逃げ出すのは、一生に一度あれば十分ですから」

*     *

 地下研究室は、以前とほとんど何も変わってはいなかった。
 廃虚と呼ぶにふさわしいそこは、様々な器具や資料が整然と、所によっては雑多に積まれ、いずれも薄い埃をかぶっている。
 その中で唯一、埃をかぶっていないエリア。その中心に据えられた大きな培養槽は、空っぽだった。
 内部に促進培養液は満たされたままなのに、それはもう幻想的な淡い青の光を放ってはいない。
 上部の蓋を開けられ、沈黙した培養槽のその傍ら。
 そこには、以前はなかった医療用の寝台が置かれていた。
「───…」
 何本ものカテーテルとコードに繋がれ、医療器具と複数のモニターに取り囲まれているもの。
 静かに目を閉ざしている、『彼』。

「呂…望……」

 間違いなく、一度は喪ったはずの彼が、そこにはいた。



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