転属の辞令が降りた、と楊ゼンが告げたのは、呂望の再生が始まってから三ヶ月目のことだった。
「転属って……どこへ?」
「北部戦線です。また近頃、向こうの戦況が厳しくなってきているので、兵力増強のために」
「ということは、またティルデン要塞に?」
「ひとまずは。婉曲な言い方でしたが、どうやら要塞が敵に奪還される寸前のようなので、なんとしても保持したいというのが上層部の意向でしょう」
「そうか……」
 溜息をついて太乙が背を預けた椅子の背凭れが、小さく軋み音を上げる。
「命令に従うのが軍人の商売とはいえ……」
「仕方がありません」
 楊ゼンはわずかにやるせなさを滲ませ、だが命令に従う意思をのぞかせる。
「まぁね、君は東方軍の切り札だからねぇ」
 椅子の背凭れに体を預けたまま、太乙は溜息をつくように呟く。

 身体型の稀人は、生まれながらにして優秀な兵士であり、その中でも楊ゼンの能力は突出している。
 これまで数々の軍功を立ててきた歴戦の戦士の名は、いまや敵味方を問わず、軍の関係者なら一度は聞いたことがあるに違いない。
 少し前の知己の死に受けた衝撃のために、一時は退役するのではないかと危ぶまれもしたが、見事にそこからは立ち直り、以前と同等──それ以上の戦果を上げている。
 西部戦線がひとまず安定した今、そんな存在を上層部が遊ばせておくはずがなかった。

「ガーディアンも、もういないしね。上層部も必死なんだろうね」
「──ええ」
「一旦有利になったはずの戦況も、近頃は芳しくない感じだし、なんだかそろそろ、なりふり構わない気分になってきてるみたいだよ。私のところにも先日、妙な打診がきてさ」
「何です?」
「新しくガーディアンを造れないかってさ」
「な……!」
「ガーディアンが成功したのは奇跡の領域、第一、開発に関する資料も全部廃棄されて何も残ってない、って山ほど理由を並べ立てて、絶対に不可能って答えておいたけどさ。参謀長殿は未練タラタラの顔してたよ。天才って評判が立つのも考えものだね」
 顔色を変えた楊ゼンに、太乙は肩をすくめて見せた。
 だが、それでも楊ゼンの険しい表情は変わらない。
 そんな青年に、太乙は微苦笑を浮かべる。
「大丈夫だよ。たとえ殺されたって──といっても、私を殺すわけがないけど、ガーディアンなんか造らないさ。あんな哀しい存在を生み出すために、何百人もの稀人を犠牲にするなんて、冗談じゃない。
 私は別に正義の権化というわけじゃないけど、それでも許せないことはあるんだ」
「別に自分は、ドクターを疑っているわけではありませんよ。ただ……」
「うん……」
 軽く腕を組んで、太乙はうなずいた。
 太乙も楊ゼンも、ガーディアンがどんな存在なのか、その実態を知りすぎていた。
 どんな手段を使ってでも自軍の優位を確保しようという上層部の判断は、戦争という現実からしてみれば、決して間違っているものではない。むしろ正しい。
 だが、その影で犠牲になる者がいることを──ガーディアンの抱いた苦痛や孤独を知ってしまったら、『ガーディアンさえいれば』などという、そんな虫のいいことはもう考えられない。
 特別な力を持たない一般の兵士にしてみれば、そんな思いは稀人であるがゆえの傲慢な感傷だと誹(そし)られるかもしれない。
 けれど、もう二度と見たくないのだ。
 あれほどにまで深い孤独も。
 あれほどにまで切ない哀しさも。
「どんな理由を積み上げられても、私はガーディアンを造ったりはしない。ここの設備も不要になり次第、かけらも痕跡を残さずに消去するつもりでいるよ」
 きっぱりとそう言いきり、一つ息をついてから太乙は立ち上がる。
「ドクター?」
「こんなところで、滅入る話をしていても仕方がない。──あの子のところへ行こう、楊ゼン」
 青年の目を見つめて、太乙はいつもの笑みを浮かべた。
「会おうと思えば会えるのに、モニター越しにお別れなんて無粋すぎるだろう?」
「──そうですね」
 太乙の口調に、小さく微苦笑をして、楊ゼンはうなずいた。








 地下の研究室は相変わらず薄暗く、培養ポッドの放つ淡い青の光だけが、ぼんやりと世界を照らし出していた。
 液体に満たされた大きな円筒形の水槽の中で、小さな嬰児が眠っている。
 軽く手足を丸め、時折、ゆっくりと回転をする様子は、まるで母親の胎内にいるかのように穏やかだった。
「本当に大きくなりましたね……」
「そろそろ生後二ヶ月ってところかな。まだ首は据わってないね。一日中眠るのが仕事だ。といっても、この子はずっと眠りっぱなしなんだけど」
「ええ。……最初は、あんな小さな細胞だったのに」
「そうだね。たった一つの1mmに満たない細胞が、気が遠くなるほどに何度も分裂を繰り返して、こんな赤ん坊に成長するんだ。誰かの……大人の身勝手で止めていいものじゃないと、つくづく思うよ」
「そうですね」
 うなずきながら、楊ゼンはじっと培養層の中の赤ん坊を見つめる。
 そのまなざしは、やはり痛みは隠せない。
 けれど、それ以上に懸命に生きている命に対する愛おしさがあふれる。
「呂望でなくてもいい……」
 小さな存在を見つめたまま、楊ゼンは呟くように静かに口を開いた。
「誰であっても……、僕のことを何一つ覚えていなくてもいい。この子が元気に育って、生きていってくれるのなら……。そうしたら、何かが救われるような気がするのは、僕の身勝手ですか?」
 ゆっくりと振り返り、太乙に問いかける。
「これまでに散々戦場で人を殺して……。それでも、こんなエゴに満ちた形であっても救いが欲しいと思うのは、身勝手ですか?」
「──おそらくね」
 軽く腕を組んだまま、デスクに寄りかかって太乙は応じる。
「身勝手だと思うよ。でも……自然なことだろうね、とても」
 殺したくて殺しているわけではない。
 人殺しがしたくて、軍人なったわけではない。
 それでも、義務として敵の命を奪うことを求められる。
 殺さなければ殺される。
 誰しもが死にたいとも殺したいとも思ってはいないはずなのに、それが戦場という現実世界での鉄則。
 だからこそ。
 救いを求めずにはいられない。
 血と硝煙の臭いに酔った一瞬の興奮の後、薄汚れた仮の寝床で死の恐怖と己の罪の重さに怯え、心の底から救いを求めずにはいられないのだ。
 どんなにその弱さをそしられたとしても。
「何か支えに思うものでもなければ、軍人なんかやっていられない。たとえ誰に責められようと、何かを大切だと……愛しいと思う気持ちは、決して止められるものではないよ」
 太乙の言葉に、楊ゼンは無言のまま、再び培養槽に目を向ける。
 そのまなざしの先で、赤ん坊の髪がやわらかく水中で揺れ、小さな手が何かを掴もうとするかのようにぎゅっと握られる。
「───君が戻って来られるのは、いつかな」
「さあ。一年先か二年先か……。下手をしたら北の戦況が好転しても、こちらには戻ってこられないかもしれません」
「厳しいね」
「ええ。かなりあちらの情勢は苦しいようですから。昨日、辞令をもらってからすぐに調べてみたんですが、どうも着任先のティルデン要塞に入るためには、まず道を切り開かなければならないような感触です」
「分厚い敵の包囲網を切り開いて、か。確かに君向きの任務だねぇ。というより、君にしかできないと言うべきか」
「僕もそう思いますよ」
 皮肉な微笑を口の端に滲ませる楊ゼンを見つめて、太乙は溜息をついた。
「まぁ仕方がないね。──とりあえず、この基地とこの研究室は、私がいる限り敵に破壊されることはない。だから、私の寿命が尽きるまでに戻ってくることだね。さもないと、大きくなって培養層から出たこの子に、君に関するあることないことを吹き込んじゃうよ」
「やめて下さいよ。あることないことって何です?」
「ヒミツ♪」
 楽しそうに太乙は笑みを浮かべる。
 そんな彼を見つめて、楊ゼンは肩をすくめた。
「まぁ僕も死ぬ気はありませんしね。上手い具合に二年位で北部戦線が東方軍有利で安定して、その頃、西部戦線の雲行きが怪しくなることを願っていて下さい」
「うん。心の底から願ってるよ」
 うなずいた太乙に微苦笑して、楊ゼンは片手を上げ、淡い青の輝きをひそやかに放つ培養槽の表面をそっと撫でる。
 そして、別れを惜しむようにもう一度、眠る小さな赤ん坊を見つめ、一つ息をつくようにして、そこから離れた。
「そろそろ戻ります。出立の準備がありますから」
「明後日の早朝だったね?」
「ええ。現地での着任は来週の月曜の予定ですが……間に合うかどうかは微妙なところでしょうね」
「せめて正確な情報をくれればいいのにね。上層部の稀人嫌いも、ここまで来ると立派としか言いようがないよ」
「仕方がありません」
 割り切った声で応じて、楊ゼンは太乙を見つめる。
「僕がいない間、彼のことをよろしくお願いします」
「うん。武運を祈ってるよ」
「はい。お心遣いに感謝します」
 太乙のはなむけの言葉に、端正な一分の隙もない敬礼を返して。
 楊ゼンは踵を返し、旧式のエレベーターの中へと消えた。



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