SACRIFICE
-ultimate plumage-

8. calm days

 日々は静かに続いていた。
 薄氷の上を渡るような不安と恐れを奥深くに抱きながらも、それでも静かに。
 ゆっくりと流れてゆく時間がもたらすものは、喜びであるのか苦痛であるのか。
 それさえもまだ、人々には判じることは難しかった───。






 インターフォンのベルと入室許可を求める声に、太乙は目の前の小さなモニター画面からまなざしを上げる。
 そして、一言応答し、訪問者が入室してくるのを待った。
「いらっしゃい」
 おそらくは訓練後に直接寄ったのだろう、戦闘服のまま敬礼をする相手に、太乙はデスクの椅子に座ったまま微笑を向けた。
「敬礼なんか要らないって言ってるのに……」
「どこに誰の目があるか分かりませんから」
「外ではね。でも、この研究室内なら何をしても言っても大丈夫だよ。外部には絶対に分からないんだからさ」
「性分です」
「かもね。そういうところは玉鼎にそっくりだよ、楊ゼン」
 小さく苦笑して、太乙は訪問者を差し招く。
「つまらない問答はこれくらいにしておいて……。いつもの“光剣のメンテナンス”に来たんだろう?」
「はい」
 差し伸べられた手に、楊ゼンもまた淡い苦笑めいた表情を浮かべて、太乙の方に歩み寄った。
 だが、腰に装備した光剣には手を触れることもなく、アームチェアに深く腰掛けている太乙の後ろに立った。
 そのまなざしが見つめるのは──デスク上の小さなモニター。
 サイズこそ小さいものの高解像度のモニターには、どこか見る者を懐かしいような気分にさせる淡い青い輝きが満ちている。
「たかが二十日間、されど二十日間。大分、成長しただろう?」
「ええ……」
 同じようにモニターを見つめたまま語りかける太乙に、楊ゼンは小さくうなずいた。


 太乙と楊ゼンが、既に失われた存在を取り戻すべく共謀してから、早くも二ケ月以上が過ぎていた。
 今のところ、問題は何一つ発生していない。
 すべてがひそやかに──順調に進んでいた。
 淡い青の反射光を放つ成長促進培養液の中で、八ヶ月ほどの胎児がくるりと回転する。
「もう時々、手足を動かすんだよ」
「そうなんですか……」
 モニターを見つめる楊ゼンの瞳には、生命に対する愛おしさと押し殺した痛みが滲む。
 『彼』のいる地下の実験室までは、エレベーターですぐに行ける。
 だが、それを二人がしないのは、事の発覚を恐れているからだった。
 もちろん、万全の体制は敷いてある。
 太乙の能力による意識の障壁を研究室全体に張り巡らせてあるし、外部からの通信も地下実験室で受け取れるよう配線もいじってある。
 けれど、不意の来客があった場合には、どうしても対応に困る。不在ということにすればその場は済むが、これまで滅多に研究室から動かなかった太乙が、そう度々留守にしていれば、いずれ必ず怪しまれることになる。
 そうなったらそうなったで言い訳も考えてはあるが、それ以前にまず、不審を抱かれないよう保身を図るべきなのは当然であり、だから太乙自身も日に一度、チェックのために地下に降りるだけで、あとはすべて、この研究室からモニターを続けているのだ。
「この分だと、あと二十日くらいで母体から誕生する大きさに育つよ」
「速いですね」
「まぁ仕方ない。本当なら、自然と同じ速度で発生させるのが一番安全なんだけど、そんなことをしていたら私たちの寿命が尽きてしまうから」
 稀人の寿命は、能力の強さに反比例して短くなる。
 身体型の楊ゼンは、まだ十年程度は問題なく生きられるだろうが、頭脳型の、それも二種類のそれぞれに強大な能力を持つ太乙は、既に晩年に足を踏み入れているといってもいい。
 どれほどに長くとも五年、短ければあと一年ほどで、その命が尽きてもおかしくはないのだ。
「一度始めてしまったことだからね。エゴだと分かっているけれど、この子が私の知っているあの子と同じくらいに育つまで見届けたいんだ。それまでは何があっても死んだりなんかしないよ。薬漬けになってでも生きてやるさ」
 微笑さえ含んで、太乙は穏やかに言い切る。
「幸い、まだ『老化』の兆候は出ていないからね。少なくとも、あと二、三年は命が残ってるよ」


 稀人は、寿命の一年程前から急速に身体能力が衰えてゆく。
 代謝能力が極端に落ちてゆき、頭痛、発熱、嘔吐などの症状を繰り返しながら衰弱して、最後は死に至るのだ。
 どんな薬や治療をもってしても、それを止めることはできない。
 せいぜいが、薬で激しい症状を抑えるくらいが関の山なのである。
 ───結局、稀人の能力は、人間の肉体には負担が過ぎるものなのだ。
 はるか昔に混じった月人の血が、人間に超人的な能力を与える。けれど、その能力の行使には、月人の肉体と同等の強度が必要なのだ。
 最初から異能力を持った生物として、進化の過程で発生していれば、能力の行使には何の問題もない。人間が複雑な音声を発するように、獣が闇の中でも物が見えるように、当たり前に備わった能力を操ることができる。
 だが、混血による能力の強制付加は、異種である人間の肉体には重過ぎる負担にしかならない。
 そもそも月人と人間は、月上と地上とで各々に発生した、進化の上では何の接点もない……生命の根源さえ異なる全く異種の生物だったのだ。
 それでも混血ができたのは、月人の持つ血の力ゆえ。
 そして、それが数千年の時間を超えても、今もなお脈々と人間の中に息衝いているのも、その血の強さの現れ。
 そんなものに、本来ならば何の能力も持たない人間の肉体が耐えられるわけがないのである。薬物による常軌を逸した肉体改造、あるいは大脳興奮と同じで、いずれは必ず肉体が破壊されてしまう。
 その期限が、平均して三十年。
 それが稀人の──月人の血を受け継いでしまった者の肉体及び頭脳の限界……寿命なのだ。

 人間でありながら人間ではない。
 かといって、滅びたる月人でもありえない。
 稀人は稀人──人間の腹から生まれながら、異種、あるいは人間及び月人の亜種でしかないのだ。


「……残酷、ですよね」
「うん?」
 ぽつりと漏らした楊ゼンの言葉に、太乙はモニターを見つめたまま先を促すように問い返す。
「僕たちのしていることは……。彼をもう一度、生み出そうとしている事そのものもですけど、それ以上に、稀人としての生をもう一度、強制しようとしているのは……。
 稀人として生きることがどれほど苦痛に満ちているか、身を持って知っているのに。そのために、彼がどれほど苦しめられたかも知っているのに」
「──でも、それが分かっていても、取り戻したいと思ったんだ」
 静かに、喜びも苦しみも超越した静かな微笑で、太乙は答える。
「どんなに苦しんでも、たとえあの子の憎悪を買うことになっても、それでも理不尽に奪われたものを取り戻したいと思った。そうだろう?」
 そして、長い指をのばして、淡い青い光を放つモニターの表面を、そっと撫でるように触れた。
「第一、途中でやめられるかい?」
「いいえ」
 はっきりと楊ゼンは首を横に振る。
「やめられるわけがない。罪を背負うべきなのは僕たちであって、この生命ではない。──殺せるわけがありません。もう、生き始めているのに」
「うん」
 見つめる二人の目の前で、音もなく小さな生命は眠り続ける。
「呂望でなくとも構わない。ただ生きてくれたら───…」

 不自然に生み出された、限りある短すぎる生であるとしても。
 間違いなく、この手で運命を歪められているとしても。
 それでも。
 ただ、生きてくれたら。

「エゴだよね……」
「ええ……」
 呟かれた言葉に、静かにうなずいて。
 しばらくの間、二人は淡い青い輝きに満ちたモニターを見つめていた。



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