目をみはる楊ゼンに構わず、太乙は円柱の外部に取り付けられている操作盤に手を触れる。
 と、どんな仕組みになっているのか透明な外壁の一部が変化した。
「な…に……」
 モニター画面のような印象を受けるそこに見えるのは。
 小さな、半透明の球体。
 ただ丸い、ごく小さなものに楊ゼンは瞬きもせず見入る。
「───君が呂望を連れて戻って来た時、あの子の生脳は機械脳の補助を得て、わずかに生命活動を保っていた。でも間違いなく瀕死の状態で、それから完全に脳死に到って機械脳も停止するまでのわずかな時間、取り出せるだけのデータを記録したけれど、完璧には程遠かった」
 水槽に寄りかかるようにして腕を組み、太乙は静かに言葉を紡ぐ。
「でも幸い、私にはこの部屋があった。楊ゼン、見てごらん。あっちの棚だ」
 言われるままに、彼が指し示した方角を振り返る。
 と、薄明かりに慣れた瞳にキャビネットにずらりと並んだものが見て取れた。
「記録ディスク……?」
「そう。全部で1000枚以上ある。あれは呂望そのものだ」
「それは、どういう……」
「元は初代の研究者が残したものだよ。ガーディアンのあらゆる身体データと、起動後、定期的にバックアップ目的で記録した記憶層のデータ。そのことをあの子から教えられた後、私も好奇心半分で、定期的にあの子のデータを保存させてもらっていた。あの子も、まさかこんな目的に使われるとは思っても見なかっただろうけど……」
「ドクター」
 微苦笑した太乙に、楊ゼンは険しい声を向ける。
「それはどういう意味です。あなたは何をなさろうとしているんですか?」
「────」
 問いかけに即答はせず、太乙は微笑したまま傍らの水槽にそっと手のひらを当てた。
「──人間は所詮、28種類のアミノ酸から構成されているだけの存在でしかない。現行の電脳の240倍以上の演算能力があれば、その塩基配列を実際に造るのは不可能ではないんだ。昼夜を忘れて没頭しても、成功するまで二ヶ月かかったけどね」
「ドクター!」
「呂望のDNA情報は完全なものが残されていた。だから、私は造ってみたんだよ。ガーディアンではない、あの子を」

 その言葉に。
 楊ゼンは声を失う。

「もっとも、まだあの子は生まれてない。平たく言えば受精した直後の状態で止まっている。このスイッチを押して、ほんの小さな刺激を与えればたった一つの細胞は分裂を始めて、促成培養液の中で急速に成長を始める」
 操作盤上の小さなスイッチに指先を触れ、太乙は既に微笑のかけらもない表情で楊ゼンを見つめた。
「楊ゼン。私が君をここに連れてきたのはね、決めて欲しかったからだよ。このスイッチを押すべきかどうか」
 淡い光に照らし出された、漆黒の瞳がまっすぐに楊ゼンを見据える。
 すべてを射抜くようなそのまなざしに、楊ゼンは息苦しささえ覚えた。
「私は絶対者じゃない。確かに、私はあの子をガーディアンとしての役目から解き放って、人間にしてやりたかった。けれど、不自然な生を強要されたあの子は、ただの生物のように死にたがっていた。
 君も見ただろう? あの子の死に顔は安らかだった。ようやく死ねたことに、心底安堵していたんだ。その遺志を裏切ってまで、あの子をもう一度、世界に生み出してもいいと思うかい?」
「───…」
「たとえ生まれても、同じDNAを持っているというだけで、あの子と同じ存在にはならない。すべての記憶データを流し込んでも、あの子になるとは限らない。それでも君は、あの子を取り戻したいかい?」
「───でも…」
 低く紡ぎだされた楊ゼンの声が震えた。
「それでも……それは、『呂望』なんでしょう?」
 淡い光の中で、半透明の小さな球体が静かに浮かんでいる。
 楊ゼンの目は、ただそれだけを見つめていた。
「たとえまだ生命活動をしていなくても……それが彼なら」
 殺さないで下さい、と楊ゼンは拳を握り締めて声を絞り出す。


「彼が彼でなくとも……僕はもう、二度と呂望が死ぬところなど見たくない……!」


 苦しげに顔をゆがめた楊ゼンを、太乙もまた苦痛を押し隠した表情で見やった。
「本当に、それでいいのかい?」
 そして、念を押すように、繰り返し問いかける。
「最後の記憶のバックアップは、シュクリスに向かう前だ。そして、瀕死の脳から取り出せた情報は完璧には程遠い。だから、たとえ上手く目覚めたとしても呂望は、自分の最期も、君と最後に交わした会話も知らない可能性が高い。
 そもそも、記憶そのものが完全な形では戻らないかもしれない。つまり、君の事は何一つ思い出せない可能性もあるということだ」
 理論上は不可能ではない。
 だが、所詮は無茶な試みなのだと太乙は告げる。
「それに、DNAを完全複製した以上、呂望が稀人であることは変わらない。相当に強力な能力を持っていたようだから、おそらく長くても三十歳、急速培養の影響が出たら二十歳程度までしか生きられないかもしれない。それでも……いいかい?」
「はい」
 楊ゼンは、うなずいた。
「怖くないといえば、嘘になります。そんなことをしていいはずがないと……。ですが、ドクター。罪だからといって、あなたはその細胞を殺せますか? その培養層から取り出して、捨てることができますか?」
「───…」
「選択肢などないでしょう? あなたの心は最初から決まっている。ただ迷いを断ち切れないから、僕に最後の一押しをしてもらいたがっているだけです」
 断定する楊ゼンの言葉を、太乙は否定しなかった。
 ただ、無言で青年の言葉を受け止める。
「それに……」
 ぐっと楊ゼンは拳を握り締めた。
「僕だって、もう一度彼に会えるのなら会いたい……!」


 天地がひっくり返ってもいいから。
 もう一度会いたいと。
 二度と傷付けることなく、あの孤独な魂を抱きしめたいと。
 死んでもいいと思うくらいの強さで願った。

 彼のいない世界は、死んだ世界も同じ。
 ならば。
 どんな罪であっても、彼にもう一度会えるのなら、その重さは甘美でさえないか。


「僕にあなたと同じ能力があれば、僕が『彼』を造ったでしょう。だから……」
「───いいんだね?」
「はい」
 うなずいた楊ゼンに、最後の覚悟を決めるように太乙は目を伏せて。
 そして。

 操作盤のスイッチを、長い指先で押した。

 かすかに……ほんのかすかに、映し出された小さな小さな球体が震えて。
 言葉もなく二人が見守るうちに、ゆっくりと中央に薄く亀裂が浮かび上がってゆく。
 そして、どれほどの時間が過ぎたのか。
 やがて、たった一つだった細胞が分裂して二つになった。

「これでいい。順調にいけば、二年くらいで私たちが覚えている呂望と同じ年齢まで育つよ。ある程度まで育ったら、同時に記憶も流し込んでいって……三年程度で、普通に生活できる程度には安定すると思う」
 太乙の言葉を聞きながら、楊ゼンは食い入るように生命活動を始めた細胞を──呂望を見つめる。





 『呂望』は本当に戻るのか。
 たとえ自分たちの知っている『呂望』になったとしても、その時、はたして自分たちのしたことは許されるのか。
 答えはまだ誰にも分からないまま、二人は背負った罪の重さを噛み締めた───。




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