幕切れはあっけなかった。
勝利を目前にして勢いづいた東方軍の猛攻に、西方軍は後方の補給基地へと退却を始め、ただ一機残った戦闘飛行機もガーディアンの攻撃を受けて、すべての攻撃のすべを失い、黒煙を上げながらかろうじて西に飛び去っていった。
そしてその翌朝、ミリムから西方軍が完全に退却したことと、戦闘飛行機も数十ガル離れた地点で不時着したことの報告を受け、この作戦が完全勝利に終わった ことを全軍が知った。
お祭り騒ぎのシュクリス基地の中を、楊ゼンは副官も連れずに一人で歩いていた。
食堂やレクリエーション用ホール、ロビーなどは言うに及ばず、至る所で兵士たちが長かった戦いの勝利に歓喜を爆発させている。
楊ゼンはそれらを器用に避けながら、あちこちに酔っ払いが座り込み、あるいは寝転がっている階段を上った。
エレベーターを使わなかったのは、単にエレベーターの扉に寄りかかるようにして寝ている酔っ払いを目にしたからである。
そうでなくとも、基地中がでたらめに動いているようなこの状況では、自分の肉体と感覚を最大限に活用するのが正解だっただろう。仮にも中佐の階級にある者がエレベーターの中に閉じ込められるなどというのは、兵士たちを楽しませるささやかな醜聞としてもあまりにもみっともなかった。
淡々とした歩調で白灰色の階段を昇りつめ、屋上へと続くドアを開く。と、さあっと新鮮な乾いた空気が流れ込んできて、楊ゼンは一瞬、目を細めた。
いつもなら一つに束ねている髪を解いて流したまま、ゆっくりと風の中へ足を踏み出す。
そして辺りを見回せば、すぐに求めていた人影は見つけることができた。
「何が見えますか?」
いつかのようだ、と思いながら、屋上の端に腰を下ろした人に問いかける。
あの時は、まだ何も知らなかった。
何にも気付かないまま声をかけ、言葉を交わした自分は、この人にとってどんなに残酷な存在だったのだろうと楊ゼンが考えていると、短く返事が返ってくる。
「何も」
「何も?」
「空と大地と風だけ。今日は静かだよ。何も動かない」
そう言って、彼は振り返った。
「こんな所に来ておっていいのか?」
「お祭り騒ぎは性に合いませんから。部下たちはみんな楽しんでるようですから、放っておいても大丈夫ですよ」
「困った隊長殿だのう」
淡い微笑をひらめかせて、彼は青い空にまなざしを向ける。
陽光に艶をはじく、蛋白質で構成されたものと何ら変わらぬように見える黒髪が、風になびいて揺れるのを楊ゼンは見つめた。
「───それで…」
しばらくの沈黙の後、彼が静かに問いかけた。
「おぬしが部下を放って、こんな所まできた理由は何だ?」
「何だと言われても困るのですが……」
ゆっくりと楊ゼンは答える。
「ただ、あなたと話をしたいと……僕の話を聞いて欲しいと思ったんです。迷惑なことでしょうが……」
「───…」
空を見つめたまま、彼はまばたきする。
「これから話すのは、僕の勝手な一人語りです。聞きたくなかったら、耳を塞いで、忘れて下さい」
空の青さを映した呂望の深い瞳の色を見つめながら、楊ゼンは静かに続けた。
「──おそらく、あなたは僕の心情を分かっていらっしゃるでしょう。尋常にあらざる力を恐れる人間の卑小さを、あなたはよく知っていらっしゃるはずだ。そうでなければ、あの時の僕を許せたはずがありません」
そう言い、少し待ったが、言葉がさえぎられることも否定されることもなかった。
人形のように動かない横顔に、楊ゼンは語りかける。
「言い訳をするつもりはありません。僕はあの時……あなたが声をかけて下さった時に振り返れなかった。それは事実です。……でも、この1ヵ月余りの間、同じ戦場で戦っているうちに、少しずつ見えてきたことがあるんです」
一見、戦闘値に圧倒的な差がありそうな戦闘飛行機を、一機、また一機と撃墜していきながら、その最中でも兵士を庇い続けた彼。
いつでも一人、堡塁の上で敵の動きを観測し続けていた彼。
小さな背中に見えていたのは、過酷な任務を果たそうとする精神と、たとえようもない孤独。
「僕は結局、何も分かってなかった。自分が稀人であることや、あなたがガーディアンであることがどういう意味を持っているのか……。部下たちの会話を聞き、話をしてようやく分かったんです。
人にあらざる力は恐れられるものですが、決してそれだけではない。僕の部下には、僕やあなたを恐れる気持ちも確かにあるようでしたが、それ以上に稀人として、ガーディアンとしての能力を信頼してくれているのだと……。
それに気付いて、ようやく自分の心に整理をつけることができました」
そして、楊ゼンはゆっくりと告げる。
「あなたが好きです」
彼──伏羲は、青い空へと向けたまなざしを逸らしはしなかった。
だが、細い肩が……深い色の瞳が、かすかに揺れて。
「正直に言えば、まだ僕はあなたが少し怖い。あなたの力を……姿を見て、感動するよりも畏怖を感じる心の方が強いんです。それでも、たった一人で戦い続けるあなたを見て、あなたのために何かしたいと……、あなたを失いたくないと思ったのは本当です」
乾いた大地を吹き抜ける風を受けながら、楊ゼンは静かに言った。
「自分にこんなことを言う資格がないのは承知してますし、あなたの心を惑わせるつもりもありません。ただ、あなたに言っておきたかった」
軍人である以上……稀人である以上、死はいつ訪れるとも知れない。
今回は同じ作戦に従事したが、一週間後にはそれぞれ異なる土地へ配属されるかもしれない。
そんな明日の存在さえ曖昧な自分たちだから。
まだこの口が言葉を発することができる今のうちに、告げておきたかった。
身勝手だとは承知しているけれど。
「僕の話はこれだけです。お一人のところをお邪魔して申し訳ありませんでした」
謝罪して、下に戻ると言おうとした時。
「───…」
彼が小さく何かを言った。
遥かな地平線へと向けられたままの瞳に、何とも言い難い光がにじんでいるのに気付いて、楊ゼンはその凛としたものの消えることのない横顔を見直す。
と、もう一度、彼の唇が動いた。
「………おぬしが、」
高くも低くもなく、冴えて透る静かな声が風にさらわれる。
「いつかおぬしが死んでも、わしはこの先も生き続ける。わしとおぬしが生きる時間軸は違う。それだけではなくて、何もかもが……」
ゆっくりと彼が振り返る。
大きな瞳が、もどかしげな……やりきれない色をにじませて楊ゼンを見つめる。
「この身体は生身ではないし、思考は全てガーディアンとしての任務に直結していて、それを忘れることはない。おぬしはわしを怖いと言うが、当然なのだ。自分でも自分が怖いと思うことがあるのだから……」
静か過ぎるその声に、からからに渇き切った絶望を楊ゼンは聞き取った。
持っていたもの全てを奪われ、何一つ望むことを許されなくなった魂は、こうして一つ一つ色々なものを諦めながら、六十年余の年月を刻んできたのだ。
それがひどく痛くて。
───愛しい。
「だから、おぬしは何も気にするな。わしのことなど気にかける必要はない。全部忘れて……」
どこか泣き出しそうにも見える淡い微笑を浮かべてそう言いかけた、彼の細い肩を。
両手を伸ばして、抱きしめようとした、その時。
低い爆音が耳に届いた。
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