「厳しいな」
 一帯の地理と兵士の配備を詳しく書き込んだ軍用地図を見つめながら、楊ゼンは淡々とした声で呟いた。
「そうですね。とにかく遮蔽物がありませんから、塹壕を掘るしかないですよ、これじゃ」
 答える副官は、童顔のため若く見えるが、既に5年以上楊ゼンと戦場を共にしてきた歴戦の兵士である。
 稀人である楊ゼンにも臆することなく任務に忠実で、勘が鋭く、細かく気が回るところを買われており、今回も楊ゼンと共に昇進して副官の任を解かれることはなかった。
「たとえ、その場その場の戦闘に勝っても、一気に兵を前進させるのは無理だな」
「敵の掘った塹壕を利用するわけにはいきませんしね」
 撤退する時、それまで自分たちがいた所に爆薬を仕掛けるのは戦場の常識である。戦況が悪化してくると、回収しきれない僚友の遺体に爆弾を仕掛け、動かそうとしたら爆発するようにすることも珍しくない。
 どんな大義名分があったところで、戦場で行われるのは、道義を忘れた人殺しに過ぎなかった。
「ガーディアンがいる分、うちの方が有利は有利でしょうけど、損害ゼロって訳にはいかないでしょう」
「ガーディアンも、決して万能じゃないからな。戦闘飛行機が出てきたら、地上戦の支援は期待できなくなる。目の前の敵は、自分で何とかするしかないな」
 自分の隊から損害は出したくないが、と呟いて楊ゼンは、作戦卓に置いてあったベレー帽を手に取り、テントの出入り口に向かった。
「少し辺りを見てくる。何かあったら連絡をしてくれ」
「はい」


 約六千五百人からなる第四十一師団が増強されたことで、シュクリスの兵員数は一気に膨れ上がった。
 この兵力を利用して一気に攻勢に出ることが決められたのは、新たな部隊が着任した翌々日の作戦会議上のことである。
 まだ敵に戦闘飛行機が残っている今、戦線を前に進めるのは大きなリスクが伴う。
 だが、既に戦闘開始から八ヶ月が過ぎ、いくら補給が確保されていても兵士たちの疲労は蓄積されている。
 度重なる撃墜に用心深くなり、なかなか深くは進撃してこない戦闘飛行機を潰すには、もう発進基地そのものを叩き、あるいは叩こうとする様子を見せて戦闘飛行機を誘い出すしかない、というのが司令部の見方だった。
 その方針に従い、東方軍が前進を始めてから既に五日。
 工兵隊により突貫工事で新たな堡塁と塹壕が建設され、兵士がそこに配備されている。
 この間、敵機の妨害は頻繁にあったが、単独ではガーディアンの射程距離内には入ってこようとせず、嫌がらせ程度の遠隔射撃に終始していた。


 堡塁の内側は、今日明日にも始まるだろう新たな戦闘の準備にざわめいている。
 弾薬や食料が次々に後方から運び込まれ、分配されてゆく。
 その間を足早に抜けてゆくのは、どこかの隊の伝令か。
 慌しい光景に何とはなし足を止め、楊ゼンは周囲を見渡した。
 そして、再び歩き出そうとした瞬間。
 視界の片隅にあるものを捉えて、びくりと動きを止める。

 ───コンクリートで固められた頑丈な堡塁の上。
 喧騒に背を向けた格好で腰を下ろしている、小さな後ろ姿。

 少し遠いその姿を見つめて、楊ゼンは小さく唇を噛んだ。




 再会は、この作戦が発動される前の作戦会議でのことだった。
 八ヶ月前と寸分違わぬ姿で、ただ、初めて見る濃紺の戦闘服に身を包んだ彼は、新しく着任した士官たちを無感動にちらりと見やり、視線を止めることも表情を変えることもなかった。
 まるで感情の色の見えないその様子は、ヒト型をした兵器に相応しくて。
 何か言いたい…、と軍議中でもあるに関わらず、灼けつくように強く思った。
 けれど、あの時振り返れなかった自分が、今更何をどう言えばいいのか。
 到底、言葉を思いつけず、また呼びかける隙もなく、会議を終えて立ち去っていく後ろ姿をちらりと見送るしかなかった。
 そして、この数日、作戦を共にして。
 ガーディアンというものがいかなる存在であるのか、ようやくその一端を知ったのだ。
 戦闘の要として、どれほど重い任務を課されているのか。
 どれほど兵士たちに必要とされているのか。
 戦場に置いては常に一番危険な箇所に身を置き、その持てる能力の全てを駆使して味方の援護をし、兵士を守り、敵を叩き潰すことが、ガーディアンの唯一絶対の存在意義。
 高性能レーダーと同等、否、攪乱される可能性がないことを考慮すればそれ以上の策的能力を持つ五感で、いち早く敵の動きを察知し、兵士がどう動くべきか、自分が何をなすべきかをを判断する。
 稀人に通じる部分はあるものの、世界でただ一体しか存在しないガーディアンはあらゆる面に置いて、その重要性は稀人とは比較にもならない。
 もちろん、その戦場における絶対的な強さは、軍全体に依存心を抱かせかねない。が、ガーディアンにも死があるということ、そして既に最後の一体しか残っていないことが、甘えの感情を食い止めている。
 ガーディアンは一人しかいない、だから目の前の敵は自分で何とかする。万が一、本当に絶体絶命、部隊全滅の危険にさらされるような時には、必ずガーディアンが援護に来てくれる、という信仰にも似た信頼を、兵士たちは抱いているのだ。
 依存心は戦場にあってはならないものだが、しかし確実な援護と正確な情報が得られるという安堵感は、銃弾に身をさらしている兵士に何よりも冷静さを与える。
 ガーディアンが戦場において不敗なのは、その能力もあるが、それ以上に兵士が怖気づき、浮き足立つことがないからだ。

 ───片膝を抱えた、小さな後ろ姿。

 堡塁の上に腰を下ろした彼は、ただ風景を見ているのではない。
 その彼方にあるものを……敵影を捉えるために、彼の視覚は青く光る空と遥かな地平線に据えられている。
 カシュローン基地で彼が毎日屋上にいたのは、あそこが好きだったからでも暇つぶしでもなかった。
 敵が接近するより先に発見すること。それが彼の使命の一つだから、彼はいつでも乾いた大地を見つめていたのだ。
 後から聞いたところによれば、決してそれは義務付けられた行為ではないらしい。しかし、兵士を守るという至上命令のために、彼は毎日、屋上へと白灰色の階段を上っていたのだろう。
 そんな彼があの時、戦闘飛行機の来襲を察知できなかったのは、常識外れの攻撃だったということもあるが、他のことに気を取られ、動揺していたからに違いない。
 だが、それでも、彼はその淡い虹色にきらめく翼を広げて、重傷を負った楊ゼンを守り、一撃で戦闘飛行機を破壊したのだ。
「────」
 正直なところ、あの光景を思い出すと、楊ゼンは今でも背筋にかすかな戦慄が走る。
 ガーディアンの非現実的な外見が──その桁違いの能力が、本能的な畏れを呼びさますのだ。
 その人間にあらざる力を持っていることを、誰よりも彼自身が哀しんでいるのだと分かっていても、畏怖を感じる心を抑えることができない。
「──守護天使、か……」
 戦場でなら、その恐るべき能力を頼もしいと……優しくきらめく翼を美しいと思えるのだろうか、と楊ゼンは小さな背中を見つめたまま考える。
 と、まさかその呟きが聞こえたのか、単に視線を感じたのか、堡塁の上に腰を下ろしたまま、彼が肩越しに振り返る。
「!」
 数十メートルの距離を越えて、深い色の瞳がまっすぐに楊ゼンを見つめる。
 内心かすかな狼狽をしつつも、楊ゼンはまなざしを逸らしはしなかった。
 そのまま、音もなく短い時間が過ぎて。
 特に感情を浮かべない、静かな表情でしばらくの間、楊ゼンを見つめていた視線がゆっくりと外され、元通りに地平線の彼方に向けられた時。
 ああ、と楊ゼンは思った。
 おそらく誰をも恨むことなく、すべてを諦め続けてきた彼は、あの時振り返ってやれなかった自分に傷ついてはいても、恨んだり憎んだりすることはしないのだろう。
 自分は人間ではないのだから、と通り過ぎる人々を、彼は諦めと共に許してきたのだ。
 けれど。
 それが分かったからといって、彼になんと言えばいいのか。
 否、それ以前に言葉をかける資格さえ自分にはない。
 こんな畏れを抱いたまま、彼の前に立つことなどできるはずがない。
「────」
 苦い思いを噛みしめて、楊ゼンは行き交う兵士の間を再び歩き出した。



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