退院の報告に行き、正式に辞令を受けて官舎へ戻る途中。
 人気のない廊下で、後ろから追ってきた気配に。
 思わず足が止まった。
「─────」
 振り返ることもできないまま、硬直したように立ち尽くして、その気配が三メートルほど離れた所で立ち止まるのを、ただ感じ取る。
「……振り返らなくて、いいから」
 高くも低くもない、凛とした声が、かすかに震えるように静かな廊下に響く。
「もう、顔も見たくないと思うから、そのままで聞いてくれぬか。嫌なら、立ち去ってくれても構わぬから」
「─────」
「太乙がおぬしの病室へ行ったことは、あやつから聞いた。だが、どうしてもわしの口からきちんと言っておきたくて……」
 これまでに、聞いたことのない口調。
 彼の声でありながら、彼が使ったことのない言葉。
 それを聞きながら、楊ゼンは思考が停止したような脳裏に、ぼんやりとあの日の彼の顔を思い出す。
 想いを打ち明けた自分に、何かを告げようとしていた彼の、必死な表情を。
「──騙そうと、思っていたわけではないのだ。呂望の名を名乗るのは、わしが『伏羲』だと気付かぬ相手にはいつもしていたことで……。おぬしもすぐに気付くと思っていたのだ」
 確かに、と楊ゼンは思う。
 気付かなかった自分がうかつだったのだ。
 十代半ばの少年、ドクター太乙の研究所、とキーワードは揃っていたのに。
 けれど、ガーディアンに縁の薄い、つまりその存在に頼ることなどできない北部戦線で、何年もの間、稀人として戦闘の要となっていた自分は、何年も前に見た資料のことなど意識に残していなかった。
 それに、何より太乙が言った通り、資料に記載されたわずかなデータから想像されるガーディアン像と、実際の彼とはあまりにも印象が異なっていて、彼の言動に不審は感じても、両者を繋げることなど思いもよらなかった。
 あまりにも、彼は『人間』らしかったから。
「だが………知られたくないと……気付かれたくないと思っていたのも事実だ。おぬしと話しているのが楽しくて……。……だから結局、騙していたのと同じことだな」
 懸命に感情をこらえるような、苦い声を聞きながら、楊ゼンは拳を握り締める。
「───すまなかった」
 彼なのだ、と思う。
 いくら口調が違おうとも、今、語りかけている彼は間違いなく『呂望』なのだと。
 けれど。


 傾きかけた陽光を受けて、淡い青にきらめいていた一対の翼。
 風に揺れていた、黒い髪。
 そして。
 振り返って自分を見つめた、すべてを諦めたような瞳の色。
 哀しい、色。


 騙す気がなかったことは分かる。
 人間として──同じ稀人として接していた自分に対し、彼が本当に正体を知られたくないと思っていたことも。
 信じられる。

 けれど。

 彼は稀人でさえなく。
 あの驚異的な破壊力を持つ戦闘機でさえも、一撃で屠ることが出来る、異形の存在。
 自分が稀人であるからこそ──異能力者であるからこそ、その強大な能力に畏怖を感じずにはいられないのだ。
 理屈も何もなく。
 相手が害意を持っていないことが分かっていても、傍に在るだけで緊張を覚えずにはいられない。
 そんな──本能的な、畏怖。
 只人が稀人を恐れる心理が、今、ようやく理解できる。
 ひたすらに、自分と異なる存在が怖いのだ。
 人間は。


「──フォスクに行くのだと聞いた」
「───…」
「あそこで西方軍を抑えられれば、ミリムの戦闘機は孤立せざるを得ない。それは向こうも分かっているから、きっと……」
 激戦になるだろう、という言葉は音にはならなかったが、はっきりと伝わった。
「こんなことを言える立場ではないのかもしれない。──だが」
 すべての感情を押し隠した、凛とした声が告げる。
「武運を祈る。楊ゼン少佐」
 そして。
 気配が遠ざかる。
「────」
 離れていく気配に。
 このままでいいのかと。
 このまま別れてもいいのかと、感情が波立つ。
 こんな、何一つ言えないまま。
 彼は、間違いなく『呂望』であるのに。
「────」
 ぐっと握った拳に力を込めて、振り返る。
「あ……」
 視界の端を、黒い髪がかすめたような気がした。
 けれど、それは一瞬の幻のように廊下の角に消える。
 足は、動かなかった。
 既に感じ取れないほど遠ざかった気配を追いながらも、その場から動くことはできなかった。
「───…」
 唇を噛みしめて、楊ゼンは通路の壁を拳で叩く。
 彼がどんな表情をしていたのか。
 確かめる術はもうなかった。

*     *

「……私を、恨んでいるかい?」
「おぬしを? 何故?」
「だって、君に本当の名前を思い出させたのは私だから。忘れたままなら、こんなことにもならなかっただろう?」
「そんなこと……」
 呂望は微苦笑する。
「おぬしのせいではないよ」
 そう答える彼は、濃紺の軍服を身につけている。
 一見、下級士官の軍服とよく似たデザインだが、耐久性や耐熱性は比べ物にもならない。ガーディアンの厳しい任務に耐えうる、科学技術の粋を集めた特注の戦闘服だった。
「感謝しておるよ。おぬしが名前で呼んでくれたから、あやつも人間として──仲間として接してくれた。束の間のことだとは分かっていたが……嬉しかったよ」
「───ごめん」
「太乙」
「人間であることをやめさせてあげられなくて、ごめん」
 その言葉に顔を上げ、呂望は笑みを見せた。
 伝承に語られる月人のように、限りなく優しい微笑を。
「感謝しておるよ、太乙」








───初めまして。私が君の新しい管理者だよ。
───私は太乙。君の名前は?
───名…前……?
───そう。伏羲はコードネームだろう? 君の本名は?
───本名……。
───もう覚えてないかな。
───いや……。
───じゃあ教えてくれるかい? それとも名前で呼ばれるのは嫌かな。
───嫌ではないよ。ただ……ここでは一度も呼ばれたことがなかったから……。
───ああ、それは知ってるよ。でも君は人間なんだから。私は名前で呼びたいんだけど、おかしいかな。
───呂望。
───え?
───呂望。それがわしの本当の名だよ。
───呂望、か。いい名前だね。
───そうかのう?
───うん。じゃあ、これからよろしく、呂望。
───こちらこそ、ドクター太乙。



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