「呂望」
「何?」
楊ゼンが口を開いたのは、再び大通りを歩き出してから数分後。
バザールの中心部を離れて、幾分喧騒が薄らいだ辺りだった。
歩きながら、ゆっくりと楊ゼンは告げる。
「僕は……もしかしたら、君を好きなのかもしれない」
「……え…?」
思いがけない言葉に、思わず呂望は足を止めた。
楊ゼンも立ち止まり、頭一つ分以上も小柄な少年を見つめる。
「今、ふと思い浮かんだんだけどね。そう考えると、つじつまが合うんだ。……でもそれだけのことだから、気にしなくてもいいよ」
「──それだけのことって……」
微笑した楊ゼンを見上げて、呂望は呆然とした表情で呟く。
「それだけのことだよ」
だが、楊ゼンはあっさりと答えた。
「僕の感情を君に押し付ける気はないし、返事もいらない。嫌だと思うなら、これから僕の誘いは断ってくれていい」
「────」
「軍人である以上、いつどこで死んでもおかしくない。ましてや稀人なら、あと十年生きられるかどうかも分からない。だから、欲しいものは我慢しないようにしてる。──君を傷つけない約束はできないんだ」
何でもないことのように告げる楊ゼンを、呂望は言葉もなく見上げる。
「君は君の好きなようにしてくれたらいい。無理強いする気はないし、嫌なら嫌で構わない。第一、たとえ君が僕を好きになってくれたとしても、僕は何も君に返せない……何も、約束できないから」
「……楊ゼン…」
淡々とした、己の軍人として……稀人としての宿命を悟り尽くした言葉に、呂望はただ名を呼ぶことしかできないようだった。
そんな彼を見つめたまま、それでも楊ゼンは続ける。
「傲慢で勝手な言い方だということは分かってる。……ただ、気付いた以上、君には知っておいて欲しいと……そう思ったんだ」
大きく目を見開いたまま見上げている呂望に、楊ゼンは微笑した。
「ごめん、びっくりさせたね」
「あ…いや、そういうことじゃなくて……! もちろん、びっくりはしたけど……、そうじゃなくて……」
呂望の声が段々細くなり、途切れる。
「呂望?」
不安定に視線をさまよわせている瞳の大きな童顔は、怖いほどに真剣で、またひどく動揺してもいるようだった。
しかし、それは突然の告白に嫌悪を抱いたとか、逆に喜んでいるとかいう印象からはかけ離れており、その表情の意味を把握しかねた楊ゼンは名前を呼び、顔を覗き込む。
「どうしたんだい?」
「──楊ゼン…」
「何?」
優しく答えながら、楊ゼンは内心、眉をひそめた。
間近に見た深い色の瞳は、まるで何かに怯えてでもいるような思いつめた光が浮かんでいる。
そして呂望は、これまで見せたこともない、必死と形容してもいい程のまなざしで楊ゼンを見上げた。
「──嫌な、わけじゃない。驚いたけど……嫌じゃない。でも……」
言葉を捜すように、深い色の瞳が揺れる。
「でも、まだ…言ってないことが……」
「呂望?」
「黙っていたことが……ある。もっと早く、言わなければいけなかったことが……」
そう告げる声は、わずかに震えていた。
「まだ気付いていないなら……それでいいと、いずれは気付くと……そう思っていたから……」
「呂……」
尋常とは到底いいがたいその様子に、名前を呼びかけたその時。
どこか遠く、機械音が響いた。
思考の結果ではなく、長年戦場をくぐり抜けてきた経験が身体を動かした。
咄嗟に目の前の小さな身体を胸に抱きこみ、その場に伏せる。
───ほぼ同時に。
爆音がバザールを襲った。
呂望は一瞬、呆然としていた。
「楊…ゼン」
その名を口にした途端、あらゆる感覚が戻り、一気に押し寄せてくる。
「楊ゼンっ!!」
「………ッ…呂望…」
強く抱きしめられていた腕がわずかに緩み、低い声が問い掛ける。
「怪我は……?」
「大丈夫。楊ゼンは……!?」
濃い鉄の臭いが鼻をつく。それが何なのか、確認するまでもない。
必死に身体をずらして、広い肩に伸ばした手のひらが。
べったりと赤く濡れる。
「楊ゼン!」
「……大丈夫、大した……怪我じゃない」
言いながら身体を起こそうとした楊ゼンを、慌てて呂望は制止した。
「駄目だ、まだ攻撃は終わってない!!」
耳をつんざく連続した重い爆音にまぎれて、耳慣れない低い機械音が響き渡っている。
「一体…どこから……」
「空だ!」
「空…!?」
まさか、という響きが楊ゼンの声ににじむ。
この大陸の人間にとって、かつて月人が降りてきたとされる空は、根深い畏怖の対象だった。
その稀人でさえ逆らえない本能的な畏怖ゆえに、これだけ文明が発達していても、いまだに空を飛ぶ方法は実用化されていない、はずなのである。
もちろん、理論だけなら存在した。だが、軍でさえそれを実際に利用しようとはしなかった。たとえ、空飛ぶ兵器を開発したところで、それに乗りたがるような人間が居るとは到底考えられなかったからだ。
それなのに。
「来る…!!」
爆音がみるみるうちに近付いて来る。
「逃…げろ……!」
楊ゼンが言い終わらないうちに。
巨大な黒い影が上空をかすめ、辺り一面が激しい爆撃にさらされた。
咄嗟に、力を解放していた。
それ以外に方法がなかったから。
常識を超えた敵襲から、彼を守るためには。
他に、方法などなかった。
───え……?
爆音が静まったところで、楊ゼンはまず自分が生きていることに驚く。
あんな爆撃を受けたら、命があるわけがない。それどころか、肉体は四散しているはずだった。
奇妙に思って、苦痛に霞むまなざしを横へ向けると。
「……え…?」
不思議な色合いのものが目に映った。
ごく淡い青を帯びた、半透明の乳白色。
その中に虹を封じこめたような、七色の優しいきらめきが揺らめいている。
どこか硬質な印象のそれが、不意に視界から消えて。
腕に抱きしめていたはずの少年の身体が、するりと抜け出してゆく。
「呂……!」
名を呼び、深く傷ついた身体を無理やりに起こして振り返ると。
信じられないものが、そこには居た。
少年は瓦礫と化した街に、真っ直ぐに立って上空を見上げていた。
やがて、ゆっくりと左腕を上げ、空へと指先を向ける。
その細い腕が。
音もなく形を変えて。
一瞬の後。
無機質な塊に変形した腕から空に向けて何かが発射され、数秒後。
上空で何かが爆発四散した。
それを見届けて、少年は腕を下ろす。
その腕は、既にもとの形に戻っていた。
そして。
ゆっくりと青年を振り返る。
その背には、ごく淡い青にきらめく、透明感を帯びた美しい乳白色の翼、が。
「──ガーディアン……」
かすれた声で、その名を呟いて。
楊ゼンは意識を失った。
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