「これで一通りの街路は回ったけど……」
「そうだね」
 それぞれに茶杯を傾けながら、二人は何気ない調子で言葉を交わす。
「助かったよ。これで、もし万が一のことが起きても対処できる」
 万が一、というのが何を指しているのかは改めて言葉にする必要もなかった。
 共に軍隊に属す身であり、ましてやここは最前線基地である。たとえ現時点では可能性が低くとも、いつ市街戦が起こってもおかしくはないのだ。
 そういう意味でも、部隊を指揮する士官として、楊ゼンは道案内が欲しかったのである。そのことは勿論、呂望も承知していた。
「これで役目は終わったかな?」
 呂望は軽い笑みを浮かべて、向かいの席に座る楊ゼンを見つめる。
 そのまなざしを受け止めながら、しかし楊ゼンは即答しなかった。
 太陽は少し傾きつつあり、気温は高くなくとも、内陸の乾燥地帯特有の強い陽射しが二人の表情に陰影を作る。
「──そうだね」
 静かに茶杯を戻し、楊ゼンはゆったりとした仕草で頬杖をつく。
「もう迷子になることなく、一通り街は歩ける。──だから、どうすればいいんだろうね」
「楊ゼン?」
 わずかに首をかしげた呂望の瞳から楊ゼンは視線を逸らして、バザールのにぎわいを眺めやる。
「──どんな口実を考えたら、君はこれからも会ってくれるのかな」
 それは問いかけというより、独り言のような呟きだった。
 が、呂望は聞き逃すことなく、軽く目をみはって彼を見つめる。
「……楊ゼン…?」
 ゆっくりと、逸らした時と同じ速さで楊ゼンは呂望にまなざしを向ける。
 紫を底に秘めた青い瞳が、まっすぐに少年を捕らえた。
「これからも会えるかな?」
 今度は、明確な問いかけ──あるいは確認だった。
 肯定も否定もせず、表情を無くしたように見つめ返す呂望に、楊ゼンは静かに言葉を紡ぐ。
「君が僕と外出することを嫌がってないのは分かってる。でも、君は君の内側には踏み込まれたくなさそうだ。ドクターの研究室に居る以上、言えない事がたくさんあるのは当然だよ。僕も軍人だから、口にできないことの方がよほど多い。でも──、君の場合は少しそれとは違う感じがする」
 言いながら楊ゼンは、わずかに微笑した。
「僕は身体型だからね、気配を読むのは得意中の得意だ。考えは読み取れなくても、何となく分かることは結構ある。それでここまで生き延びてきたわけだしね。
 それで……はっきり言うけれど、僕と居る時、君は時々ものすごく困ってる。──多分、僕の気のせいや思い違いじゃない」
「─────」
「だから、聞きたいんだ。この先、口実もなく会って、こうして話したいというのは君にとっては嫌なこと……、気の進まないことかな」
 穏やかに問い掛けられて。
 大きな瞳で楊ゼンを見つめていた呂望は、ゆっくり目線を下げる。
「………嫌じゃ、ないよ」
 静かな声だった。
「嫌なら最初から引き受けたりしない。こうして一緒に街を歩くのは楽しいと思うし……。ただ……二人で居ると、どうしても目立つから、時々それがわずらわしいと思ってただけだよ」
「本当に?」
「嘘なんかついても仕方ないでしょう? それに、ほら」
 呂望は微笑して、周囲にまなざしを向けた。
 カフェの席はほどほどに埋まっているのに、二人のテーブルに隣接する位置のテーブルは、すべて不自然に空いている。しかし、人々のまなざしだけは、ちらちらとこちらへ向けられているのだ。
「──そうだね」
 溜息をつくように、楊ゼンはうなずいた。
「ごめん。僕はこういうのに慣れっこになってるから、君の気持ちまで考えが回らなかった。確かに君は、普通に歩いていたら稀人らしく見えないよね」
 その言葉に。
「──楊ゼンのせいじゃないよ」
 呂望は曖昧な微笑を浮かべた。
 その静かな表情に、楊ゼンはまた違和感を覚える。
「この街の人は、稀人には見慣れてるはずなんだけどね……」
「──呂望」
「何?」
 だが、楊ゼンは何をも問うことができなかった。
 深い色をした瞳は、完璧なまでに底を読み取らせることを拒む不透明さで、楊ゼンをまっすぐに見つめ返している。
 その瞳を見つめながら口をついて出たのは、先程と同じ、ただの確認の問いかけだった。
「──この先、僕が誘うのは迷惑かな?」
「いいよ。別に稀人だってことを隠してるわけじゃないから」
「本当に?」
「うん」
 うなずいた呂望に、それ以上を問いかける言葉は見つからない。
 何故だろう、と楊ゼンは思う。
 必要以上のことは問わない、それは軍に所属する人間同士の付き合いであれば  当然のことだ。
 けれど今、何故かひどく問いたい。
 まだ付き合いの浅い相手に訊くことではない。
 けれど。

 ───その瞳の奥に、何を隠しているのか、と。

「楊ゼン?」
「──何でもないよ。ただ……まるで子供が駄々をこねてるみたいだと思って、ね」
 衝動を圧殺して、楊ゼンは苦笑めいた表情を浮かべる。
「駄々って……楊ゼンが?」
「そうだろう? こんな風にしつこく会ってくれと頼むなんて……」
 その言葉に呂望は笑った。
「そんなこと……。でも楊ゼンは、ちゃんと僕の意思を確認してくれてるでしょう? 嫌だと言ったら、きっと二度と誘わない。違う?」
「──違わない」
「だったら駄々じゃないし、子供でもないよ」
 やわらかな笑みを楊ゼンは見つめる。
 そして改めて、何故、こんなにこだわっているのだろう、と自分の心に問い返した。
 最前線なだけあって、この基地には確かに稀人が多く集められている。稀人同士の非番が重なることは滅多にないが、日常の会話や、基地内の食堂で食事を一緒にとることくらいは自由だ。
 まだそこまで付き合える相手はいないものの、多分、その気になって仲間を捜せばいくらでも見つかる。
 なのに、自分は年齢も部署もまったく違うこの少年にこだわっている。それこそ、執着しているといってもいいくらいに。
 毎週、非番の日には約束をして、それだけではなく、勤務中の合間にも時々、今ごろは屋上で空を見ているのだろうかと思い出すことがある。
 それは一体、何故なのだろう。
「どうして……僕は君にこだわっているのかな」
「──こだわってるの?」
「こだわってるよ」
 きょとんと問い返してくる少年の表情に、楊ゼンは思わず微笑む。
「……本当に、どうしてかな」
「────」
「僕はね、これまであまり他人と付き合いたいと思ったことがないんだ。もともとが孤児だし……。稀人は友達にはめぐまれないしね」
「──楊ゼンは、もしかしたら西の生まれ?」
「そう。偶然、偵察にきていた東側の軍人に拾われたから、それ以来東側の人間だけどね。まだ物心つくかつかないかという頃だよ」
 稀人はとりわけ大陸の西方で忌み嫌われる。
 だから、西方で生まれた稀人は、大半が親に捨てられて孤児となることが多い。稀人の子を連れていれば、親兄弟までもが迫害の対象となるからだ。
 それに対し東方では、街に稀人が住み着いても特に迫害することなく受け入れる場合が多く、成長後も家族とともに暮らす稀人も、珍しいケースではあるがないことはなかった。
「だから、師父……僕を拾ってくれた人が亡くなって以来、特に親しい相手を作ることもなくずっと一人だった。それを何とも思わずにここまで来たんだ」
「……だから、おかしいと思う?」
「そう。確かに、この街で君に出会った時は正直、嬉しかった。前に言ったよね、久しぶりに稀人を見たって」
「うん」
「でも、それは僕にとって珍しいことじゃない。稀人の数は決して多くはないけど、戦場には必ず一人や二人は居る。どこにでもね。そして稀人同士、軽く挨拶をしてすれ違う。自己紹介をする暇さえない時もあった。──それが普通だったんだ。今までは」
 淡々とした口調で語る楊ゼンを、呂望は静かに見つめていた。
「なのに、君に対しては、こんなにもしつこく……つきまとってると言ってもいいくらいだ。変な話だよ」
 その言葉に、呂望は微苦笑する。
「それを本人に言うの?」
 すると、楊ゼンも苦笑した。
「そうだね、ごめん。困るよね」
「別に困るわけじゃないけど……。迷惑なんかじゃないよ。本当に」
 はっきりと呂望は言った。
「楊ゼンさえ良ければ、いつでも誘ってくれて構わないから」
 深い色の瞳を見つめて、楊ゼンはうなずく。
「ありがとう」
「うん」
 呂望の言葉を鵜呑みにしたわけではない。だが、そう言ってくれたことに楊ゼンは感謝した。
「そろそろ行こうか」
 その言葉を合図に、二人は立ち上がる。
 そして、バザールの雑踏に背を向け、歩き出した。
 舗装されていない石畳の道に、二人の影が斜めに落ちる。
 大通り以外に広い道のないこの市街に、車両は入れない。車両が基地へ行くには、街外れにあるゲートから地下通路を利用して市街の下をくぐるのだ。
 もともと都市の地下には、食物生産プラントやエネルギー生成・制御プラントなど、生活の根幹に関する設備や、その他の工場が建設されている。軍用車が通行できる程度の地下通路なら、どこの都市にもあった。
 しかし、市内を移動しようと思ったら、たとえ将校であっても自分の足で歩くしかない。前時代の遺物をそのまま利用している以上、それはどうしようもないことだった。



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