屋上へ続く階段も、やはり白灰色だった。
 それを昇りつめた先にある扉横のボタンを押すと、音を立てて金属製のドアがスライドする。途端に、吹き込んできた乾いた風が髪をなぶった。
 風の中へ一歩踏み出して、楊ゼンは周囲を見渡す。
 基地の屋上はかなり広く、また遮蔽物も多いから、求める人影はすぐには見つからない。
 が、ふと覚えのある気配を感じて、楊ゼンはまなざしを右方に向けた。
 惹かれるままにゆっくり歩いてゆくと、屋上の南端で小さな人影が、こちらを振り返っているのが目に入る。
「──やあ」
 間近まで歩み寄ると、大きな瞳が少し驚いたように楊ゼンを見上げた。
「本当にここに居たね」
「……太乙に?」
「そう。今、光剣のメンテナンスをしてもらってきたところなんだ。──隣り、いいかな?」
 うなずくのを見て、楊ゼンは彼の隣りに腰を下ろす。
 カシュローン基地は窪地に建設されているから、たとえ屋上とはいえそれほど見晴らしが良いわけではない。
 眼下には土気色の街区と、その向こうの渇いた土の色が見えるばかりで、ひどく味気ない風景だった。
 ただ、頭上から地平線まで広がる空だけが、眩しいほどに青い。
「何を見ていたんだい?」
「──色々なものを…」
 それきり、短い沈黙が落ちる。
 それを破ったのは、呂望の方だった。
「何故……?」
「さあ、どうしてかな」
 目的語さえ省略した短い問いに、楊ゼンも静かな口調で答える。
「僕にも良く分からない。久しぶりに仲間に会えて、嬉しかったからかな」
「仲間……」
「うん。北には稀人は少なかった。北部戦線全体で僕を含めて五人しかいなかったし、しかも配置がばらばらだったから、滅多に言葉を交わす機会もなかった。本当に久しぶりだったんだ」
「…………」
 見上げる呂望の大きな瞳に、楊ゼンは微妙なものを含んだ、だがやわらかな笑みを向ける。
 ───稀人に最も適した生き場所が軍隊であるとはいえ、やはりその異質さは、軍の中であっても周囲から稀人を孤立させがちだった。
 だから、稀人同士の間には多かれ少なかれ連帯感が生まれる。
 本来、個人行動を得意とするのが稀人ではあるが、その孤独ゆえに、同類という単語には、時として抗しがたいものがあった。
「迷惑かな」
「そんなことはないよ」
 問いかけた楊ゼンに、呂望も小さく笑みを浮かべる。
「仲間だと言ってもらえるのは……嬉しい」
「良かった」
 そして、楊ゼンは目の前に広がる土気色の街と青い空にまなざしを向けた。
「──不思議な街だね、ここは……」
「うん。中世の頃、この辺りは部族争いが激しかったらしい。それで、街が自然に要塞化して……」
「こんな街が沢山あった?」
「きっと。今はもう、ここにしか残ってないけど、遺跡みたいなのはこの辺に幾つもあるよ」
「そうか」
 うなずき、楊ゼンは傍らの少年の名を呼ぶ。
「呂望」
「何?」
「良かったら……今度、街を案内してくれないかな」
 思わぬ言葉に、呂望は楊ゼンを見上げる。
 深い色の瞳が、空の青さを映して藍色に揺らめいた。
 その瞳を見つめて、楊ゼンは告げる。
「また会いたいんだ。でも、この基地は広すぎて、約束しないと会えそうにないから」
「───仲間だから?」
「それもあるよ。それに──戦闘のない日常は久しぶりだから、非番の日はどうしたらいいのか分からないんだ。下手に街に出たら迷子になるということもこの間、分かったしね」
「だから、案内人が欲しい?」
「そう。駄目かな?」
 少し考えるように、呂望は首を傾ける。
「……次の非番はいつ?」
「一週間後」
 楊ゼンの返事に、
「───いいよ」
 呂望は小さくうなずいた。
「迷惑じゃないかい?」
「大丈夫」
「じゃあお願いするよ。僕がドクターの研究室まで迎えに行ってもいいかな」
「うん」
 笑みを交わして、呂望は地平線へとまなざしを向ける。
 その横顔に、ふと思い出したように楊ゼンは問いかけた。
「不躾なことを訊くけど……君はドクターのところで何を?」
 実のところ、楊ゼンは呂望がどのタイプの稀人であるのかさえ、まだ知らない。頭脳型の太乙のところに居るのであれば、彼も頭脳型と考えるのが妥当なのだが、それにしては気配が頭脳型とは微妙に異なる気がする。
 かといって、身体型ともまた、微妙に身のこなしが違う感じがするのだ。
 おまけに稀人としての気配そのものがかなり稀薄で、ひどく読みづらい。
 あるいは特殊型であるのかもしれないが、とにかく初めて会う気配の持ち主であることは間違いなかった。
「──…」
 数秒の間、呂望は楊ゼンを見上げていたが、やがてふっと微笑を浮かべる。
「───内緒」
「教えてくれないの?」
「うん」
「そうか、じゃあ仕方ないな」
 軍隊では機密事項とされることは非常に多い。ましてや太乙は跳び抜けて優秀な科学者であり、その研究室に居る以上、呂望もまた特殊な位置にいるのだろう、と楊ゼンは結論づける。
 ───だから。
 内緒と言った呂望の笑みが、初めて出会った折、名前を尋ねた時に浮かんだ微笑と同じものだったことに、楊ゼンは気付かなかった。







         *        *







「本当に彼、気付いてないんだね」
 インスタントの茶をすすりながら、太乙が口を開く。
 その声は、呆れをにじませるでもなく、ただ静かだった。
「どうするの、これから」
「──どうって、何がだ」
 マグカップを両手で持ったまま、呂望は低く返す。
「分かってるくせに聞くんじゃないよ。──伏羲」
「!!」
 ばっと呂望は顔を上げる。
 その詰るようなけわしいまなざしを、太乙は受け止め、溜息をついた。
 そして椅子から立ち上がり、片手を伸ばして少年の癖のない髪をくしゃくしゃとやわらかくかき混ぜる。
「──太乙! わしは子供では……!」
「うん。子供じゃないよ」
 静かな声で答えて、太乙は身をかがめ、呂望に目線を合わせた。
「でも悲しい時は悲しい、辛い時は辛い、それを隠す必要なんかないんだ。君は間違いなく人間なんだから」
「────」
「楊ゼンはいずれ、君の正体に気付く。でも、そのことに君が耐え切れないのなら、直ぐにでも私が彼に真実を語ってあげるよ。何も気付いていないくせに懐いてくる相手に、自分の口から打ち明けるのは、もう辛いだろう?」
「…………」
 何かを言おうとして、けれど呂望は結局口をつぐむ。
 そんな少年を見つめて、太乙は静かな声で続けた。
「いいかい、呂望。こんな風に悩むこと自体が、君が人間であることの証明だ。それを否定しちゃいけないよ」
「……こんな思いを、この先ずっと抱えてゆけと?」
「そう。君は人間だから」
「おぬしもいずれは居なくなるのに?」
「それでも」
 きっぱりと告げる太乙の言葉に、呂望の瞳が今にも泣き出しそうに揺れる。
「私は君を人間でないものにはしない。絶対に」
「────」
 うつむいた呂望の頭を、もう一度太乙は優しく撫でる。
「人間なんだよ、君は」










 自分の手を見つめ、そして呂望は目を閉じる。
 脳裏に浮かぶのは、青い空に溶け込むような髪と、瞳。
 優しい笑みと、声。
「………仲間だなどと……」
 呟く声は、泣き出しそうに苦い。
「わしの……仲間は……」
 腕に爪を立てるように、己の躰を抱きしめて。
 呂望は長い間、そこにうずくまっていた───。




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