「余計な事をしてしまったのかな」
 怯える様子もなく、壁際で一部始終を見つめていた少年に向けて、青年士官は尋ねた。
 稀人であるのならば、一見非力そうに見えても、兵士三人くらいなんということもなかったかもしれない。そう思っての言葉だったのだろうが、返った返事は少々意外なものだった。
「いや、いい加減うんざりしてたから」
 低くもなく高くもない、おそらく十代半ばだろう年齢には、いささか不似合いとも感じられる落ち着いた声音に、青年士官はわずかに目をまばたかせる。
「うんざり?」
「今日、街を歩いていて絡まれたのは三度目。撃退するのも面倒になってきてたから助かった。──ええと、少佐?」
 青年が着用している士官服の襟の階級章を見て、少年は小首を傾げた。
 青年の二十代前半らしい外見から考えれば、不釣合いな階級ではある。だが、稀人であれば、二十代で将官という場合も珍しくなかったから、彼は順当な昇進をしているということなのだろう。
「ああ、そう。先日、ここに転属してきたばかりなんだけどね。……君は稀人にも見慣れているようだけど、もしかして軍の関係者なのかな」
 青年士官の問いに、少年は微妙な笑みを浮かべた。
 面白がるような皮肉を込めているような。
 その意味は、すぐにその後の台詞で知れた。
「この街に、軍の関係者じゃない稀人はいない」
 この街――カシュローンは大陸を東西に分ける前線のほぼ中央に位置し、その戦略的重要さから背後に巨大な軍事基地を抱えている。
 巨大な基地があるということは、内部に数多くの人員を抱えているということであり、様々な消費需要を持つということでもある。つまり、カシュローンは基地を中心にして栄えている街なのだ。
 しかし最前線は最前線であり、当然ながら、そこにいる稀人に民間人などまず居るはずはない。
 そのことにすぐに青年も気付いたのだろう。己の迂闊さに思い当たった顔になり、しかし悪びれる風もなく続けた。
「そうか、そうだね。ごめん、間抜けな質問をして。でも間抜けついでにもう一つ、質問してもいいかな?」
「何?」
「基地までの道を教えて欲しいんだけど……」
 その言葉に、少年は大きな目を更に大きく見開いた。
 並よりも感覚に優れている稀人は、通常、どんな密林だろうが砂漠だろうが絶対に方角を失うことはない。身体型なら尚更だ。
 そして、青年が身体型の稀人であることは、つい先程、一瞬で三人の屈強な兵士を倒したことからも判る。
 なのに、道を教えて欲しいとは。
「………稀人のくせに迷子?」
「一言で言うならね」
 明瞭過ぎる単語に、青年は肩をすくめた。
「方角は分かってるんだよ。でも、この街の路は……。どうやっても思う方向に進めなくて、困ってたんだ。いっそのこと、屋根の上を行こうかとね、思案していたところだったんだけど……」
 言い終わらないうちに少年は吹き出し、くすくす笑いながら答える。
「──この街はね……」
 そして、まなざしを向けた先には──曲がりくねった細い街路。
 石造りの古い薄汚れた集合住宅に挟まれて、うねうねと無秩序に曲がりくねり、ほんの少し先をたどるだけで視界は石の壁にぶつかってしまう。
 まったく規則性のない、巨大な迷路のようだった。
「ここは城砦(カスバ)だから。──稀人でも迷うとは思わなかったけど」
「君は地元の人間なのかい?」
「……そんなようなものだよ。この街の地理を覚える程度には、ここで暮らしてる」
 微妙な言い回しに気付いたのかどうか、青年は屈託なく端整な顔に笑みを刻む。
「じゃ、僕は運が良かったということかな。──悪いけど、時間があったら基地まで案内してもらえるかな?」
「いいよ。どうせもう帰るところだったから」
「──って、君は軍属?」
 少し驚いた顔をした青年に、少年はなんとも言いがたい微笑を向ける。
「………技術将校の太乙師を知っている? 基地内にある彼の研究室に」
「ああ……。じゃあ、君は助手か何か?」
「……そんなようなものかな」
「曖昧な言い方だね」
「実際に曖昧だから。階級もないし」
 肩をすくめるように答えた少年に、青年はふと考えるような瞳になる。
「──ごめん、君は初対面の相手なのに、何だか僕は失礼なことを言っているね」
「いいよ、自分の外見と中身が釣り合ってないのは分かってるから」
「ごめん」
「いいってば。それより帰るんでしょう? 基地へ行く路はこっちだから」
 笑顔でうながして、少年は歩き出す。路上に倒れたままの兵士三人の存在は当然のように無視して、その脇を通り過ぎた。
 青年の攻撃は、ごく軽い当身程度のものだったから、日が暮れる前までには目が覚めるはずである。自分たちが絡んだ相手が稀人だと知れば、報復する気も萎えるに違いないから、これ以上彼らのことを気にする必要はなかった。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったね」
 同じく彼らには目もくれずに後をついて行きながら、青年は口を開く。
「僕は楊ゼン。階級は見ての通り、第四十一師団所属の少佐。君は?」
 問いかけに。
「………呂望」
 ゆっくりと肩越しに振り返って、少年は微笑と共に答えた。

*     *

 しゅん、と軽い音を立てて自動扉が閉まる。
 その途端、
「おかえりー。遅かったね」
 奥から声が掛かった。
「うん……」
 上着を脱ぎながらの生返事に、常とは違うものを感じ取ったのか、作業卓に向かっていた声の主はくるりと椅子ごと振り返る。
「──どうしたの、何かあった?」
「士官のくせに、わしのことを知らん田舎者に遭った」
「……どうせ、呂望ぶりっこしてたんでしょ、君のことだから」
「まぁ、な」
 椅子に腰を下ろして行儀悪く片膝を抱えた少年に、苦笑交じりの声で答えながら白衣姿の青年は立ち上がった。
 そして、片隅の湯沸しで茶を二人分煎れて、茶杯の一つを少年に手渡し、自分は作業卓に戻って再び腰を下ろす。
「──で、どんな人? その田舎者って」
「年は二十代前半。長身で士官にはあるまじき長髪の、身体型の稀人」
 その言葉に、青年は首をかしげた。
 肩のあたりで無造作に切りそろえた癖のない漆黒の髪が、さらりと流れる。
「髪が長いというと……第四十一師団の少佐かな」
「そう言っていた。名前は楊ゼン」
「ああ、じゃあ間違いないよ。北のヴァールから転属してきた」
「ふぅん」
「ふぅん、じゃないって」
 少年の気のない返事に、青年は茶杯手に苦笑する。
「君は田舎者っていうけど、彼はすごいよ。北部戦線では猛虎の異名を取ってた。ティルデン要塞を陥としたのは、ほとんど彼一人の功績だしね。一騎当千っていうのは、彼のためにあるような言葉だよ」
「……だが、迷子になっとったぞ」
「ああ、そりゃあね」
 くすりと青年は笑った。
「この街じゃ仕方ないさ。私だって未だに案内端末がないと外出できないし。身体型でも最短距離で目的地に出るのは難しいと思うよ」
 その言葉を聞きながら、少年は杯の茶をすする。
「それにね、彼が君のことに気付かなくても仕方ないよ。基地内で会ったわけでもなくて、ごく普通の格好で街を歩いてる男の子が、東方軍最高の軍事機密だなんて、誰が気付くと思う?」
「……けれど、わしの情報は全軍の士官に行き渡ってるはずだろう。第一、わしはおぬしの所にいると言ったんだぞ。それだけでも気付いても良さそうなものなのに」
 片膝を抱えたまま言葉を紡ぐ少年に、青年は溜息をつくように微苦笑した。
「なんだか機嫌悪いね。──そんなに、呂望ぶりっこをする羽目になったのが気に入らない?」
「────」
「気付いてない相手に、わざわざ自分から正体をばらしたくなくてやってることだろう? だったら仕方ないんじゃないのかい」
 その声はやわらかい。が、少年は拗ねたようにうつむく。
「………時々、おぬしは意地が悪くなるな」
「そりゃ、君とも付き合いが長いしね」
 そして、青年はことん、と茶杯を作業卓に置く。
「そうか、でも珍しいね。いつもなら呂望ぶりっこも嫌がりつつ、結構開き直って面白がってるとこもあるのに」
「────」
 反応を窺うように見つめながら、笑みを含んだ声で青年は言った。
「相手の間抜けさにそこまで不機嫌になるってことは、相当気に入ったんだ? まぁ彼は、軍ではピカいちの美形だって噂だしねー」
「───なんで顔が関係ある」
「だって君、醜いもの嫌いじゃない」
 あっさり紡がれた言葉に、顔を上げた少年は絶句する。
 その顔を見つめて、青年は小さく笑った。
「いいんじゃないの、それならそれで」
「………どうかのう」
 再び抱えた膝に頬杖をついた少年に、微妙な笑みを向けてから青年は作業卓に向かう。
「……なるようにしかならないよ、何事もね」
 少し低くなった静かな声で、背中越しにそう告げられて。
「うむ……」
 少年はうなずいた。

*     *

 目を閉じると、残像のように蘇る──蒼。
 軍人も稀人も嫌になるほど見てきているのに、何故か不思議なほど印象に残った。
 並みの稀人の動体視力では、到底捕らえられないほどの戦闘時の動きの鋭さと、自分と向き合った時の、間抜けにも見えるほどの好青年ぶりとのギャップのせいだろうか。
 最前線をくぐり抜けてきた戦士にしては、少し珍しいタイプだという気もする。
「わしのことにも気付かぬし、な」
 呟いて、自分の手を見つめる。
 まるきり少年の、細い小さな手。
 ───おそらく、彼も近いうちにこの正体を知るのだろう。
 北部戦線が東方軍によって制圧されてから、約一ヵ月。
 そろそろ、しばらく小康状態を保っていたこの西部戦線も、戦闘が再開される頃合だ。
 実際、西方軍の動きがこのところきな臭い。
 北部戦線で勇名を馳せたという彼がこの基地に転属してきたのも、来るべき新たな戦いのために違いなかった。
「…………」
 大陸全土で延々と続く、泥沼化した紛争。
 血と硝煙と砂埃と。
 その中でしか生きられない自分は。
「呂望、か……」
 遠い幻のようなその名前を呟いて。
 抱えた片膝に頬を預けたまま、目を閉じた───。



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