Spada e Scudo 〔剣と盾〕・後編

「ごめん、何かちょっと酒が回ってきたみたい」
 眠くなってきた、と綱吉が呟いたのは、テーブルの上の料理も八割方が消えた頃だった。
 先ほど炊き上がったばかりのマグロの角煮を肴に飲んでいた綱吉は、涼やかな青い切子細工の猪口を置いて、ふらりと立ち上がる。
 そして、物憂げな足取りで広いダイニングの壁近くにある長椅子まで歩いてゆき、ぽすんと腰を落として、そのままクッションを枕代わりに、織り模様の美しい座面に転がった。
「綱吉さん、休まれるのなら寝室へ行かれた方が……」
 良いのでは、と言いかけた獄寺の言葉は、んーん、という眠たげな声にさえぎられる。
「ここがいい……」
 目を閉じたまま綱吉は答え、ほどなくやわらかな寝息へと呼吸が変わる。その様子気遣わしげに見つめていた獄寺は黙って立ち上がり、ダイニングを出て行き、戻ってきた時にはタオルケットを手にしていた。
 灼熱の八月ではあるが、避暑用に建てられた断崖絶壁に立つ大理石造りの夏別荘は、暑さを忘れるほどに風通しが良い。確かにうっかりうたた寝をすれば、風邪を引いてしまいかねなかった。
 獄寺は綱吉の眠りを妨げないよう気配を消して、広げたタオルケットを胸から腰の辺りまでにふわりとかけ、そして静かにテーブルに戻ってくる。
「ツナ、疲れてんだな」
「……ああ」
 声を低めて呟いた山本に、獄寺はうなずいた。
 綱吉は本来、酒に弱い方ではない。今も正味でいえば二合程度しか飲んでいないはずで、いつもの彼ならけろりとしているか、せいぜいがほろ酔いの酒量である。
「仕方ねえ。この休暇だって、俺が強引に取っていただいたようなものだしな」
「お前はよくやってるよ、獄寺」
 からかうでも何でもない真面目な賞賛に、しかし獄寺は、馬鹿馬鹿しいとばかりに肩をすくめただけだった。
「俺は何にもできてねーよ。スケジュールを調整することはできるし、書類に事前に目を通して整理することはできる。……だが、十代目ご自身にしかできないことが、あまりにも多すぎる」
「そうだな……」
 ボンゴレは表の顔として、農水産工業から海運、建築・不動産、金融、ITまで幅広い業種を手がける複合企業と、由緒正しいシチリア貴族という、政財界でも重い存在感を放つ二つの面を持っている。
 それらは百五十年余り前にボンゴレがマフィア化する以前から持っていた顔でもあり、本業であるとも言えるものだ。
 九代目ことティモッテオから、それらを受け継いだ綱吉は、これまで十分にその役目を果たしてきていた。
 無論、企業としては個々に会社があり、それぞれの取締役が専門スタッフを従えて運営している。
 だが、それでもボンゴレ当主は、それらの企業の役員や大株主の肩書きを保有することで、マフィア系の企業がしのぎを削る混沌としたイタリア経済界の中で、それらの企業が進むべき道を誤らないよう舵取りの役目を担(にな)ってきたのだ。
 ゆえに方面を問わず、新しい企画や開発で一定規模のものについては、すべて綱吉のもとに裁可を求める書類が届けられる。
 綱吉は当然、獄寺や専門家たちの意見を聞いた上で、それらを決裁するのだが、時折、周囲の人々の意見を飛び越えて直感的に判断を下すことがあり、幸か不幸かそれが間違っていたことはこれまで一度もなかった。
「十代目は大事な時には、絶対に判断を誤られない。この四年間で何度、十代目のご判断でボンゴレが救われたか分かりゃしねえ」
「一つ間違ったら、丸ごと食われちまう世界だからな……」
 誰もが賛成する事案に、何かおかしいと異議を唱え、誰もが否定する企画を、必ずやり遂げなければならないと推進する。それは生半可な精神力でできることではない。
 だが、結果としてボンゴレは年若い十代目当主の下でも揺らぐことなく繁栄を続け、そして裏腹に、綱吉自身は何かあるたびに忍耐力を試され、神経をすり減らさなければならない。
 それはどうにもならない正負の循環だった。
「……お前、今夜は泊まっていくのか」
 話を切り替えるように、獄寺が山本に目を向ける。
 すると山本は、いいや、と首を横に振った。
「今日だって水入らずのとこを邪魔しちまったしな。帰るぜ。いくら休暇だつっても、【剣と盾】の両方が総本部に不在を続けるのもよくねーしな」
「そうか」
 喜ぶでもなく惜しむでもなく、どちらも選びかねたような静かな表情で獄寺はうなずく。
「けど、十代目が起きられるまでは居ろよ。……その方が綱吉さんは喜ばれる」
「もちろん、挨拶もなしに帰るような真似はしねーよ」
「ああ」
 そして二人は、もう一度静かに眠る綱吉へとまなざしを向けた。
「……久しぶりにビリヤードでもするか」
「他にやることもねーしな」
 カードという気分ではないし、と山本もうなずく。
 夏別荘には広い図書室や撞球室、談話室やホームシアター、昼寝に適した快適な寝室は備えられているが、それ以外の娯楽らしい娯楽は何もない。美しい海と空を眺めながら、ひたすらのんびり過ごすための場所なのだ。
 このままここで二人で話をしていても、どうせ楽しい話題は殆ど出てこない。
 ならば、言葉を使わなくてもすむ場所へ移動しようと二人は立ち上がる。
 だが、獄寺は真っ直ぐに部屋を出るのではなく、片隅の小さなテーブルへ歩み寄ると、そこに置いてあったメモを一枚取り、手早くメッセージを書き付けて、ダイニングテーブルの上に置いた。
 それから、とても大切なもの――命、あるいは神といったものを見るような目で、綱吉を見つめる。
 普段、ビジネスディナーやパーティーでは絶対に酔わない綱吉が、こんな風にあっさりと潰れるということは、それだけ今は心の糸を緩めているということなのだろう。
 明日もう一日が過ぎれば、また過酷な現実世界へと戻らなければならない。
 ならば、今の間だけでも穏やかな安らぎを得て欲しかった。
「行くか」
「おう」
 綱吉からまなざしを外し、山本を見やる。
 獄寺と綱吉の関係には決して入り込まず、それでいて常に傍らに居る男は、変わらない笑顔でうなずく。
 そして二人は、静かにダイニングルームを後にした。

*                 *

「……んー……」
 ふわりと意識が浮上して、綱吉は目を開ける。
 夢うつつの状態のまま、数度まばたきしてからぼんやりと辺りを見回した。
「あれ……?」
 どこなのか、ということはすぐに分かった。ダイニングのカウチだ。どうやら自分はあのまま熟睡してしまったらしい。
 起き上がって見ると、テーブルの上はそのままだが、二人の青年の姿が見えない。
 綱吉を置いてどこかに行く彼らではないから、別荘内のどこかにはいるのだろうが、ボンゴレ所有の不動産の中では規模は小さいとはいえ、この別荘の部屋数は二十近くに上る。ヒントはないかな、と思いながら立ち上がると、案の定、テーブルの上にメモが見えた。
『ビリヤード室にいます。』
 獄寺の字でそう書かれたメモを取り上げて、綱吉は微笑む。
 二人がダイニングから出て行ったのは、自分の眠りを妨げることを恐れたからだろう。
 あまりにもらしい彼らの気遣いが、染みるほどに嬉しくて、綱吉は何となく窓の外へと視線を向けた。
 そろそろ昼過ぎだろうか。日は天頂にまで昇り、東の断崖に面した窓からはサファイアのように青い海が、輝きながらどこまでも広がっているのが見える。
 いつになく肩が軽く、気持ちが晴れやかなのは、熟睡できたからというだけではなく、彼らの存在がすぐ傍に感じられるからに違いなかった。
「ホント、十年経っても変わんないな。俺自身に限っては、進歩がないって言うべきかもしれないけど……」
 日本に居た頃から、獄寺と山本は常に自分の両側に居た。
 イタリアに渡り、自分が正式にボンゴレ十代目と呼ばれるようになって、彼らが嵐の守護者と雨の守護者、あるいは【ボンゴレの剣と盾】と呼ばれるようになった今も、それは変わらない。
 己の誇りと信念のすべてを懸けて、ボンゴレを守り通す強さを持った彼ら。
 腹心中の腹心である二人は、綱吉にとって部下である以上に、十年前から変わらぬ恋人であり、親友だった。
 二人が居るから、厳しい現実を前にしても、自分を見失わずにいられる。
 今もなお綱吉が綱吉でいられるのは、ボンゴレ十代目ではない『沢田綱吉』を見つめ、大切に思っていてくれる彼らの存在があるからだった。
「もう少し、二人だけにしてあげようかな」
 メモ用紙にキスするように口元に持ってゆきながら、綱吉は呟く。
 自分にとって二人はかけがえのない存在であるが、獄寺と山本の間にも切っても切れない絆があることは十年も前に実証済みだ。
 そして、獄寺にも山本にも、綱吉のことを大切に思うからこそ、綱吉には決して言えないことが幾つもある。互いにしか吐き出せない胸の内があるのだ。
 それぞれに鋼のような強さでボンゴレを守り続ける、【剣と盾】。
 二人にしか分かり合えないことが、きっと沢山ある。
 そして綱吉は、そんな二人の間に入り込もうとは思わない。
 自分たちの関係は綺麗な三角形を描いていて、だからこそ安定し、決して揺るがないのだと知っている。
 自分と獄寺、獄寺と山本、山本と自分。
 それぞれの関係が並び立ち、それを互いに尊重し合っているからこそ、ボスと【剣と盾】となった今でも、自分たちは十年前と変わらない恋人や親友のままでいられるのだ。
 窓の外には、シチリア特有の海と空の青が眩しい。
 二人もこの青さを眺めつつ、ゆっくりとビリヤードを続けているのだろう。
 そこに多くの言葉はきっと存在しない。だが、それで足るものが必ずある。
「そーだな……、お皿洗ってから行くと、ちょうどいいくらいかな」
 親友と呼び合える彼らだが、あまり長時間、二人きりにして放っておくと、雰囲気が昔に逆戻りして獄寺がカリカリし出すのである。
 もちろん山本は気にしないし、それはそれで結構面白い眺めなのだが、せっかくの休暇なのだから、どうせなら全員気分よく過ごせた方がいい。
 そう結論付けて、綱吉はメモ用紙に軽くキスを落とすと、鼻歌交じりに食べ散らかしたままのテーブルを片付け始めた。

end.

【剣と盾】の元ネタは、塩野七生著『ローマ人の物語II・ハンニバル戦記』より。
イタリア半島を侵略したカルタゴの名将ハンニバルに徹底抗戦した二人のローマ軍司令官、マルクス・クラウディウス・マルケルスこと「イタリアの剣」と、クイントゥス・マクシムス・ファビウスこと「イタリアの盾」をもじりました。





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