Spada e Scudo 〔剣と盾〕・前編

 音量をぎりぎりまで下げた携帯電話の着メロが鳴ったのは、朝の日差しが淡く、南向きの寝室に差し込んでくる頃合だった。
 早朝というほどではなく、普段の起床時間よりも幾分、時刻は遅い。もとより獄寺は眠りが浅い方だったから、ベッドサイドテーブルから携帯電話を取り上げるまでには三秒程度しか必要なかった。
「Pronto?」
『はよっス、獄寺。今着いたんだけど、開けてくんね?』
「……山本?」
 隣りで眠っている綱吉を起こしてしまわないよう抑えた声で電話に出た獄寺は、スピーカーの向こうから聞こえてきた聞き慣れた声に眉をしかめる。
「着いたって……ここにか!?」
『おう。今、下にいるぜー』
 まさか、という問いかけは、能天気なほどあっさりとした答えで肯定された。
 何しに来たんだてめえ、と思わず喉元まで声が出かかるが、その瞬間に十代目を起こしてはならない、といつもの自己抑制力が働いて、獄寺は小さく溜息をつくことで自分の中の感情を強制的に置き換えた。
「……待ってろ。すぐに行く」
『おう』
 その返答を最後に、獄寺は通話を切って溜息をつき、振り返って綱吉を見つめた。
 やわらかな羽根枕に半分ほど顔を埋めた綱吉は、通話に気付いた様子もなく、気持ち良さそうに眠っている。
 この分なら、もともと朝に弱い彼のことだ。そう簡単には目を覚まさないだろう。少なくとも階下での会話程度なら、彼の眠りを妨げることにはならないに違いない。
 それを確認してから獄寺は静かにベッドを降り、音を立てないように気をつけてクローゼットを開け、手早くシャツとジーンズを身に着けた。
 本当ならシャワーを浴びて身支度を整えたいが、それだけの暇はないし、また身だしなみに気を遣わなければならない客でもない。その辺りは、山本の来訪の用件を聞いてからでも間に合うだろうと踏んで、獄寺はもう一度、ベッドの方を振り返る。
 角度を持った朝の光が淡く南向きの窓辺に差し込んでいる部屋は、照明がなくとも綱吉の表情をうかがえる程度には薄明るい。
 その中でころんと小さく綱吉が寝返りを打つのを見届け、獄寺はもう一度小さく溜息をついて、寝室を出た。




「邪魔して悪いな」
 厳重なセキュリティと連動した最新の電子錠を解除し、玄関の扉を開けると、まず目に入ったのは、夏の朝の空を背後に従えた仲間の笑顔だった。
 ただ、知り合った頃は無条件に夏空が似合っていた笑顔に、十年が過ぎた今は、言葉にしがたい凄みが加わっている。
 この男に似合うのは、もう雲一つない空ではないなと思いながら、獄寺は軽く眉をしかめて、男が肩にかけた巨大な青色のクーラーボックスを見やった。
「朝っぱらから何の用だ?」
「見ての通り、とれとれピチピチの魚の押し売りだな」
「帰れ」
「あ、今追い返したら後悔するぜー。特上のマグロを朝一の港で仕入れてきたんだからな」
 お前好きだろ?と言われてしまえば、確かに反論は難しい。
 もともと帰れというのもさほど本気ではなかったから、肩をすくめながらも獄寺は立ち位置を譲って、山本を別荘の内部に招き入れた。
「邪魔するぜ」
 この夏別荘の玄関ホールは広さは控えめだが二階までの吹き抜けになっており、玄関扉上の大きな窓をはじめとする幾つもの明かり取りと装飾を兼ねた窓からふんだんに光が差し込んで、雪白と空青、薄荷翠を基調とした瀟洒な石膏細工の天井や壁を美しく輝かせている。
 その繊細な美しさを感心するように眺めながら、山本は獄寺に話しかけた。
「管理人夫婦はどうしたんだ?」
「今回は休みを取らせた」
 綱吉は、この夏別荘の実直な管理人夫婦をいたく気に入っているが、それと獄寺との休暇を過ごすということは別と考えているらしく、一夏に何回か夏別荘に滞在するうち、最低一回は管理人夫婦に休暇を出して、完全な二人きりの空間を作り上げてしまう。
 今回はたまたまそれで、昨日から明日までは、ここには綱吉と獄寺以外の人間は存在しないはずだった……のだが、しかし招かれざる客である山本は悪びれず、温かみのある光を浮かべた目で獄寺を見やった。
「ツナは、まだ寝てんのか?」
「ああ。……夕べは割合早くにお休みになられたから、そろそろ目を覚まされるとは思うけどな」
 このところ色々と忙しかったこともあって、昨夜この別荘に着いた後は、そのまま二人ともシャワーを浴びるだけ浴びてベッドに直行したのである。
 それは本当に文字通りの睡眠へのダイビングであって、同じベッドで寄り添って眠りはしたものの、そういった意味合いのことは全くしなかった。
 ゆえに獄寺の言葉は、疲れることは何もせず一晩ぐっすりと眠った綱吉も、そろそろ機嫌よく目を覚ますだろうという意味合いを含んでいたのだが、無論、そんなことまで獄寺は山本に説明する気はない。
 が、もとより誰の発言に対しても深く突っ込んでくることのない同僚は、あっさりとうなずいて持参のクーラーボックスをぽんと叩いた。
「そっか。じゃあ、これから台所借りてもいーか? これ、さばきてーんだけど」
「好きにやってろ。その間に俺はシャワーを浴びてくる」
「悪いな」
「そう思うんなら、前もって連絡してから来やがれ」
「いや、今朝、目が覚めて急に思い立ったもんだからな。だからって、朝の四時過ぎに電話したら、お前、怒るだろ?」
「当然だろ」
「だから直(ちょく)で来たんだよ。二人ともまだ寝てんだろーなとは思ったんだが、港でいい魚を仕入れようと思ったら、夜明けに行くしかねーしな。で、仕入れたら仕入れたで、一分でも早くさばいて食った方が美味いに決まってるし」
「バカか、てめーは」
 呆れながらも、山本のこういう性格が、獄寺はさほど嫌いではなかった。
 出会った頃はこちらも余裕がなかったため、事あるごとに神経に障ったものだが、十年も仲間として共に過ごせば、彼の性格の温かみもそれなりにかけがえのないものとして受け入れられる。
 そしてこの突然の来訪も、獄寺と綱吉の休暇の邪魔をしようというものではなく、彼自身の休暇の過ごし方を考えた結果だろうということは推測できたから、これ以上の文句を言う気はなかった。
「とにかく俺は二階に戻るからな。勝手にやってろ」
「おう」
 明るい笑みを見せる相手に、肩を一つすくめて獄寺は階段へと向かった。

*                 *

「おはよー、武」
「はよっス、ツナ。悪いな、せっかくの水入らずの邪魔しちまって」
「それは構わないよ。それはそれ、これはこれ。ね、隼人?」
「……そうですね」
 即答ではない上に肩をすくめながらではあったが、さほど渋い顔はせずに答えた獄寺に綱吉は小さく笑って、テーブルの上へと注意を戻した。
「すごいね。刺身と竜田揚げと……なんで丼が二つあるの? どっちも載ってるのはヅケだよね?」
「ああ、こっちは茶漬け丼で、大葉が載せてあるこっちはヅケ丼。とろろがあれば山かけができたんだけどな。さすがに急に思いついたもんだから、総本部の食料庫にも山芋がなくってなー。今、角煮も作ってる最中だから、あと一時間くらい煮込めば食べ頃だぜ」
「朝っぱらからマグロ尽くしかよ……」
「美味いぜー。今朝、港に上がったばっかりのクロマグロだからな。赤身の一番良い部分、もらってきたし。トロは二人ともあんまり得意じゃなかっただろ? だから特上のをちょっとだけにしといた」
「嬉しーな。すっごい美味しそう」
「あともう一個、オマケな」
 言いながら山本は厨房へと行き、戻ってきた時には一升瓶を手にしていた。
「親父が送ってくれた大吟醸。滅多に手にはいらねーやつなんだ。どっちかつーとマグロよりもこっちの方が本命だな」
 どんとテーブルに置かれたその苔緑色の磨りガラスの瓶を、獄寺と綱吉はしげしげと見つめる。
 確かに名の知れた銘柄ではなく、豪快な筆致で書かれたラベルにも見覚えはない。
「いいの? 三人で飲んだらすぐになくなっちゃうと思うけど」
「酒は飲むためにあるんだって。それにどんなにいい酒でも、一人で飲んでも美味くねーよ」
 あっさりと山本は笑い飛ばして、これまた持参してきたらしい真っ青な江戸切子の猪口(ちょこ)をテーブルに並べた。
 マグロ尽くしに加えてアサリの吸い物まで並び、とてもシチリアの夏別荘とは思えない食卓が出来上がる。
 その光景に微苦笑しながら綱吉は自分の席に着き、他の二人もそれぞれの席に腰を下ろすのを待って、猪口を取り上げた。
 阿吽の呼吸で、銘々の猪口によく冷やされた大吟醸が注がれる。
「何に乾杯しよう?」
「んー。単純に、夏休みにでいいんじゃね?」
「そだね。じゃあ、三人揃っての夏休みとマグロ尽くしに乾杯」
 軽く猪口を掲げてから、くいと飲み干す。その手を下ろした途端に、三者三様の溜息が零れた。
「本当にこれ、美味しいね……!」
「うーん。送ってくれた親父に感謝だな」
「確かにポン酒の中じゃ、これまで飲んだ中で一番かもな」
 親父さんは大したもんだ、と普段は滅多に人を褒めない獄寺すら呟き、二杯目を綱吉の猪口に注ぐ。それから目線で促して、山本が差し出した猪口にも並々と酒を注いだ。
 山本もまた、それを飲み干したところで酒瓶を受け取り、獄寺の猪口に注ぐ。
 その様子を横目に、綱吉は嬉々としながら料理を口に運び始め、一品ずつ一通り味わって零れたのは、やはり感嘆と満足の溜息だった。
「刺身も美味しいし、丼も美味しいし、おすましも美味しいし。本当に嬉しーな、久しぶりの日本の御飯」
「俺がもうちょっと暇なら、もっと頻繁に作ってやれるんだけどなー」
「うん。でも、これで十分。ありがとね、武」
「おう」
 飾り気のない満面の笑顔に山本も笑って返し、自分もまた箸を手に取る。
 そして、特上トロをぱくりと口に放り込んで、美味い!、と満足げにうなった。
「自分で褒めてりゃ世話ねーな」
「お、そんなこと言うなよ、獄寺。たかが刺身に見えるだろーけど、料理人の腕と包丁で、味はぜんぜん変わるんだぜ」
「勝手に言ってろ」
 ぞんざいに言いながらも、獄寺の箸もせっせと動いている。
 言葉とは裏腹なその様子に、山本は綱吉とこっそり目線を交わして悪戯な笑みを刻み、そしてまた綱吉の猪口に酒を注ぎ、綱吉も注ぎ返して。
 潮騒が断崖の下から届く夏別荘の朝は、いつもにも増して涼やかに、水晶のようなきらめきを残して時が過ぎてゆくようだった。

to be continued...





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