天国まで何マイル?

10.

 雲雀恭弥のところへ行くに際して、綱吉は少しばかり人選に迷った。
 といっても、同行する人間の選択肢は獄寺と山本しかない。だが、どちらをつれてゆくのか、あるいは両方つれてゆくのか、両方ともつれてゆかないのか。その点では、四つの選択肢が存在する。
 雲雀の性格を考えるならば、綱吉一人で行くのが一番に決まっているが、そうなると獄寺がうるさい。
 しかし、五分ほど考えた挙句、綱吉は一人で行くと決めて、獄寺を三分かけて説き伏せた。
 獄寺の善い所、と評価していいかどうかは微妙だが、少なくとも今の彼は、綱吉が筋道を通して話せば絶対に折れる。
 昔はなかなか折れない上に、その場は渋々従っても後をつけてきて騒ぎを起こしたりしたものだが、近年はそんな振る舞いも無くなり、今日も駅前のファミリーレストランで山本共々、綱吉が戻るのを待っていることを承知したのだから、大した進歩だった。
「ここ、かな」
 雲雀の連絡窓口である草壁哲也から聞いたメモを頼りに辿り着いた、駅前の通りから一本入った通りにあるそのビルは、古い建物のようだった。
 ビル、という形容は少し間違った印象を与えるそこは、たとえば帝国ホテルとか赤坂迎賓館とかをうんと小ぶりにしたような、古くともモダンで手入れのゆきとどいた建築物で、雲雀恭弥という人物のイメージにそぐうのかそぐわないのか、その建物を見上げたまま丸々一分ほど綱吉は考え込んだ。
「……とりあえず入ろう」
 装飾的に手吹きガラスの嵌まったドア(自動ドアではない)の真鍮製のノブを掴んで回すと、施錠はされていないようで、重いもののなめらかに開く。
 そうして中に入ると、中はさして広くはない二階までの吹き抜けの玄関ホールで、右手に郵便受けが九個並んだ白い漆喰の壁と、右側へ続く通路があり、正面左には明るく日差しの差し込むガラス窓に沿うように、美しい鉄製の手摺りのついた階段が階上へと伸びていた。
「最上階、だったよね」
 ブリキ製らしい郵便受けは、全て綺麗に埃が払われて磨かれているが、氏名を記入する正面のくぼみ部分には何も書かれていない。
 おそらくこの古いアパート全体が、雲雀の並盛における事務所として使われているのだろうと見当をつけながら、綱吉は階段を上り始めた。
 古い階段は、中央が磨り減ってへこんでいる上に、一段一段が高くて奥行きが短いため、少し上りにくい。下りる時はもっと大変だろうな、と思いつつ、綱吉はこの建物は一体、築何年なのだろうと考えた。
 並盛は古い田舎町で太平洋戦争の被害も殆ど無かったが、戦後にベッドタウンとして住宅地が何十倍もの規模に肥大化したため、駅前の町並みも高度経済成長期からバブル期にかけてのものばかりが立ち並び、中心街にはこんな古い建物は他に残っていないといっていい。
 おそらく、と手仕事ならではの歪みがあるガラス窓の向こうの景色を見やりながら、この建物は昔から雲雀家の持ち物だったのではないか、と綱吉は想像してみる。
 先日リボーンに教えてもらうまで知らなかったのだが、雲雀家は、戦前はこの町全体と周辺の山までを所有していた大地主で、戦後の農地改革で没落したものの、旧家としての名は現代まで残っているらしい。
 そして、その末裔である雲雀恭弥は、本家の人間ではあるが長男ではなく、それどころか正しくは嫡出ですらない上に、その激しくも冷淡な気性から、かつての栄光の影にすがるばかりの旧家の一族としては異端児扱いであるらしいが、リボーンによれば、彼は『最も本来の雲雀家の人間らしい』人物であるという。
 田舎の旧家であるゆえに、没落しても尚、町のあらゆる方面に繋がりがあることを駆使して、十代でこの街の僭主(せんしゅ)となった手腕が尋常なものではないことは綱吉にも分かるし、それ以前に、中学時代から雲雀恭弥は街一番の危険人物だったから、リボーンの説明は現実離れはしていても、すんなりと納得できるものだった。
 雲雀さんに世間並みの常識を求める方が間違ってるし、と心の中で呟きながら綱吉は四階まで階段を上がりきる。
 そして、階段ホールから伸びる通路を覗き込み、向かい合わせに一部屋ずつと奥に一部屋、計三つある部屋のうち奥の部屋だけが、各ドアの上から伸びる美しい唐草のような鉄の支えと花型の白ガラス製のほやでできたレトロな照明に光を灯しているのを確認した。
 あの部屋だな、と見当をつけて、ゆっくりとそのドアの前まで淡い明るさに満たされた廊下を歩く。事前に訪問を告げてあることもあり、敢えて足音を消そうとは思わなかった。
 ドアの前に立ち、二度ノックをしてから「沢田です」と名乗る。
「鍵は開いているよ」
 そう返事が返ったのは、すぐのことだった。
「お邪魔します」
 ドアを開けると、その向こうの室内は広く、明るかった。
 ワンルームでフローリングの室内の間取りからすると、ここは元々アパートではなく、雑居ビルか洋風の下宿屋か何かだったのだろう。
 古い洋館そのままに、花のようなガラス製のほやが幾つもついた照明が天井から光を投げかけ、多少色褪せてはいるもののまだ美しい色彩をとどめたモーリス風壁紙と絨毯を照らし出し出している。
 束ねられた薄いカーテンが美しいドレープを作る窓の枠は凝った装飾彫りの木製で、窓と窓の間の壁には、天井の照明と同系デザインの花型のほやの照明がぽつりぽつりと灯っており、室内の明るさにやわらかさを添えていて。
 その正面奥、これまた一目で年代ものと分かる巨大な木製のデスクで、雲雀はパソコンを操作しつつ、積み上げられた書類に目を通していた。
 身に着けているのは黒に近い濃紺のスーツで、暗い臙脂色のネクタイと合わせて一寸の乱れも無い。
 切れ者の青年実業家、といった風情は、レトロで豪奢な部屋の雰囲気に異様なほどぴたりと合っていた。
「ご無沙汰してます、雲雀さん」
「──そうだね」
 綱吉がそう声をかけると、雲雀はやっと顔を上げた。日本人形のような白い肌と対照的な切れ長の漆黒の瞳は、かつてと変わらず鋭く綱吉を射抜く。
 だがもう、その瞳の鋭さに綱吉が萎縮することは無かった。
「お忙しいようですから、手短に用件だけ言います。──俺は高校を卒業次第、イタリアに渡ってボンゴレの十代目を継ぎます。それによって、雲雀さんも正式にボンゴレの雲の守護者として認められることになります」
 雲雀は表情を変えることなく、綱吉の言葉を聞いている。
 その指に、雲のボンゴレリングは無い。
 だが、彼がそれを今も身近に持っていることを綱吉は疑っていなかった。
「あなたは俺の雲の守護者です。この地上のどこにいようと、俺がそれを認める限り、そしてあなたが雲のリングを持っている限り」
「ボンゴレの事情など、僕の知ったことじゃない」
「分かってます。でも、現に雲雀さんは、まだリングを持ってます。そして、リングを持っていることで何らかのメリットがある限り、持ち続ける。──そうでしょう?」
 綱吉が言葉を切ると、雲雀はしばらく綱吉の顔を見つめた後、おもむろに机の引き出しを開け、中から何かを取り出した。
 そして、鈍くきらめくそれを摘み上げて、少しばかり面白げな表情で見つめる。
「確かにね。このリングのおかげで、少しは楽しい思いもできたよ。それ以上に、つまらない思いもさせられたけどね」
「これからもそれは変わりませんよ。そのリングを持っている限りは。ボンゴレリングは、厄介事しか運んでこない」
 それは綱吉の本音だった。
 ボンゴレリングは当主と守護者の絆の証でもあるが、別の見方をすれば、絶対的な権威の象徴であり、その所有者が一騎当千の強さの持ち主であるという証明でもある。
 ボンゴレやその当主、あるいは単に強者に対して少しでもよからぬ気持ちを持つ人間にとっては、格好の標的となり得るのだ。
 おかげで綱吉も仲間たち共々、幾度争い事に巻き込まれたか知れない。
 そして、その生きるか死ぬかの壮絶な戦いを、雲雀が楽しんでいたのは間違いのない事実だった。
「俺が、雲の守護者としての雲雀さんに何かを要請することはありません。あなたは好きなように行動してくれればいい。戦いたいと思えば戦えばいいし、傍観していたいと思えば傍観していていい。リングはあなたを束縛するものじゃないんです」
「随分と心の広いことだね。そんなのでマフィアのボスが務まるのかい」
「さあ? でも少なくとも、俺が何を言っても、雲雀さんが動くのは雲雀さんが決めた時だけだと分かってますから。無意味な命令をする気はありません。お願いをすることはあるかもしれませんけど」
「ふぅん」
 雲雀の顔に浮かんでいた笑みが、ほのかに深くなる。
 そして、その表情のまま雲雀はわずかに目線を伏せ、雲のリングを右手の中指に通した。
「いいだろう。君が、さぞかし面白い厄介事を運んできてくれることを期待しているよ」
「それはリングに言って下さい。厄介事は俺の意志じゃありません」
 肩をすくめるように答えながら、綱吉は一連の会話にまるで動じていない自分の心を何故だろうと考える。
 それはおそらく、雲雀恭弥の生き方のせいだった。
 綱吉がボンゴレ十代目になろうとなるまいと、雲雀は彼の意思の赴くままに修羅の道を突き進んでゆく。それは中学生時代には既に始まっていたことであり、綱吉が口出しする余地のあるものではなかった。
 だから、今も彼を雲の守護者として改めて認定することに、何の良心の呵責も感じないでいられる。
 ボンゴレリングがもたらす厄災ですら、彼を脅かすことは有り得ない。彼は彼のまま変わらない。──そう信じられることが、これほど気分が楽なものだとはこれまで想像したことも無かった。
 ともかく話すべきことは話し、用件も済んだことだから、そろそろ辞去を、と思った時。
 綱吉の背後で、ノックの音が響いた。
「恭さん、ご来客中に失礼します」
 雲雀が答える前に入ってきた低い男の声は、草壁のものだった。
 特徴あるリーゼント頭が綱吉に向かって、軽く、だが十分な敬意を持って下げられる。
「沢田さん、お話中のところを申し訳ありません。少しばかり急な用件が入りましたので」
「俺は構わないですよ。話はもう終わりましたから」
 気にしないで欲しいと辞去を告げようとすると、
「まだ帰るのは早いよ、沢田綱吉。僕の用件が終わってない」
 雲雀が、草壁の持ってきた書類に手早く目を通しながら呼んだ。
「こっちの用件は電話一本で終わるから」
 待っていろ、ということなのだろう。綱吉の返答も聞かずに雲雀は、草壁がダイヤルして相手が応答するのを確認し、「お待ち下さい」と電話相手に告げてから差し出した電話の受話器を受け取る。
「──何の用だはこっちの台詞だよ。いい加減、あなたにできることなんか何もないんだと悟ったらどう。──勝手にすればいい。この計画が通ったところで、僕には何の影響も無い。但し、これ以上動かれるのは目障りだから、あなた名義の口座は全て封鎖させてもらうよ。あと十分も待たずに一円たりとも引き出せなくなる。──僕の足を引っ張ろうとするのなら、最低でもそれくらいの覚悟をしてからやって然るべきだね。それじゃ」
 取り付く島もない冷淡な口調でそう言い切ると、受話器を投げ捨てるように草壁に渡し、「実行しろ」と一言短く指示を与えてから綱吉へと視線を向けた。
「待たせたね」
「いえ、俺はいいんですけど……」
「今の電話? 気にしなくていいよ。相手は父親だ」
「親……?」
 その単語が雲雀の口から出てきたことを信じられず、綱吉は目を丸くして復唱する。
 雲雀の傍らで、草壁もぎょっとしたように雲雀を見たが、その視線に気付いた雲雀が指先だけの仕草でドアを示すと、彼は少しだけ気がかりそうな顔をしたまま机の上の書類をまとめて持ち、無言で綱吉に向かって会釈して部屋を出て行った。
「父親と言っても、戸籍上だけの話だ。血は繋がってるけど、親じゃない。僕に言わせれば彼は単なる寄生虫だ」
「──…」
 真実、虫けらを語るような口調で言う雲雀に、綱吉は中学生の頃に戻ったように気圧(けお)されて言葉を返せない。
 それを見て取ったのか、雲雀はふっと口元に笑みを浮かべた。
「君は知らないのか。雲雀家の醜聞を?」
「……殆ど何も」
 彼が嫡出でないということは、雲雀の口調からすれば事の要(かなめ)ではないのだろう。だから、用心深く綱吉は答えをぼかした。
「何も知らないで、僕を雲の守護者に指名するとはね。君の鈍感力には恐れ入るよ」
 雲雀の声は呆れているようだったが、どこか楽しげでもあり、そのままの調子で言葉を続けた。
「もっとも、そうは言ってもさほど複雑でもない。戸籍上、僕は雲雀家当主の三男だけど、実の父親は祖父で、父親は兄、兄達は甥というのが正しい家系図だけだという話さ。
 でも僕以外にも、雲雀家の家系図には事実と違うところが複数ある。長兄の母親も次兄の母親も、それぞれ僕の母親ではないし、従姉の母親も戸籍と事実は異なる。他にも色々あるよ。女性や子供の人格など認めない時代錯誤の家だから」
 えーと、と綱吉は、雲雀家の家系図を頭の中で組み立て直す。結果、出来上がったのは、いささか歪(いびつ)な系図だった。だが、それすら全てではないと雲雀はいう。
 まるで、それらは何の意味も持っていないかのように。
 そして真実、それらは彼に対して何の影響も及ぼしてはいないのだろう。──彼の人格形成に関わる部分以外は。
「いずれにせよ、祖父が死んだ時は僕は二歳で、戸籍上は孫だったから何の財産も受け継がなかった。けれど、戸籍上の父親は無能で、受け継いだ財産を有形無形問わず活用するということが一切できていなかったから、僕がもらうことにしたんだよ。もっとも彼ら寄生虫は、この期に及んでも諦めが悪いんだけどね」
「もらうことにした、って……」
「その辺を話すつもりはないよ」
 雲雀はくっと笑い、それから右手を差し出した。
「君の携帯電話を出して」
「え? 携帯?」
「そう」
 命令口調で言われ、何だろうと思いながらも綱吉は、条件反射的に上着のポケットから携帯電話を取り出し、二、三歩前へ進んで雲雀の手のひらにそれを乗せる。
 すると、雲雀は二つ折りタイプのそれを開き、手早くボタンを操作して何かを打ち込んだ。
「はい、返すよ」
「ありがとうございます、……って、何ですか?」
「僕の携帯の番号とアドレスを入れておいた。口頭で言って君に入力させるより、この方が早い」
「はあ……って、いいんですか?」
「つまらない用件で連絡してきたら噛み殺すよ」
「……そうでしょうね」
 いつもの雲雀の返答に、何となく安心して綱吉は携帯電話をしまう。
 これまでの経緯が経緯だけに、雲雀が急に友好的になるのは空恐ろしい。辛辣で取り付く島もないいつもの彼の方が、綱吉としてはまだ気楽だった。
「それじゃ、俺はこれで失礼します。会って下さってありがとうございました」
「ああ。またね」
「──はい」
 小さく笑んで、綱吉はレトロで美しい部屋を出る。
 そして、下りにくい階段をゆっくりと下りながら考えをめぐらせた。
 雲雀が雲の守護者であり続けることを承諾するのは予想済みだったし、獄寺や山本もそれには同意していた。
 ただ、今聞かされた雲雀家の事情についてはどうしたものだろうか。
 綱吉が他の守護者たちに話しても、雲雀は気にしないだろう。そもそも家族のことなど、今の彼には何の意味もないことであるのは確かだ。
 けれど、と思う。
 雲雀は、雲の守護者だ。ボンゴレの外で気ままに存在する者。
 雲の守護者がボンゴレの事情に頓着しないのと同様に、雲の守護者の事情もボンゴレには関係ない。
 ならば。
「必要が出てくる時まで、封印、しておくべきだろうな」
 獄寺の家族関係も雲雀ほどではないにせよ複雑であるし、山本も父子家庭で親には独特の感情を持っている。
 そんな彼らに余計なことを考えさせるような話は聞かせたくなかった。
 いずれ話さざるを得なくなることもあるかもしれないが、その時はその時だ。
 そう割り切って、綱吉は建物の玄関のドアを開けて表に出、年代物の建築物をもう一度振り返ってから歩き出した。

11.

 待ち合わせ場所である駅前のファミリーレストランに行くと、獄寺と山本は隅のテーブルで初級者向けのイタリア語テキストとイタリアのスポーツ雑誌を広げ、伊日辞書を片手に何やらやっているところだった。
 二人の間でどんな話し合いがあったのか、毎週土曜のイタリア語のレッスンに山本も加わることになったというのは、先日の山本との話し合いの翌日に獄寺から聞いていたことだったが、実際にその様子を目の当たりにすると、どうにも違和感がある。
 だが、教えている側の獄寺の様子は別段険悪そうでもなく、山本も集中して異国の文字を眺め、時折何かを質問している。
 そんな、もう少年とは呼べないほどの図体に成長した二人が、生真面目な表情でスポーツ雑誌に見入っている様子は微笑ましいというよりも、もう一回り華やかに人目を引くものであるようで、女性客ばかりでなくウェイトレスまでもが、ちらちらと彼らのテーブルを遠くから覗き見ており、何だかなぁと綱吉も、つい苦笑せずにはいられなかった。
「二人とも、お待たせ」
 ウェイトレスの案内を断って、テーブルに歩み寄りながら声をかけると、二人ともぱっと顔を上げる。
「十代目!」
「雲雀はどうだった、ツナ?」
「あっさりOKだったよ。予想通り」
 二人に笑って返しながら、席を空けてくれた獄寺の隣りへと腰を下ろす。
 そして、注文をとりに来たウェイトレスにコーヒーを一つ頼んだ。
「雲雀さんは、ボンゴレには興味ない人だから。リングのおかげで時々厄介な相手と戦えるのならそれでいいみたいだよ。直接連絡を取れるように、携帯電話の番号とアドレスも教えてくれた」
「そりゃすげーな」
「その雲雀の番号とアドレス、念のために俺も聞いておいてもいいですか?」
「うん。でも、つまんない用事で連絡したら噛み殺すとは言われてるから、連絡を取る時は気をつけてね」
「はい」
 携帯電話のアドレス帳から雲雀の名前を呼び出し、画面を獄寺に向ける。
 と、ちらりとそれを見た獄寺は、手早く自分の携帯電話に番号とアドレスを打ち込んだ。
「OKです。ありがとうございます、十代目」
「うん」
 律儀に礼を言う獄寺に小さく笑みかけて、綱吉は閉じた携帯電話をテーブルに置く。そして、小さなサブ液晶に表示されている時刻を確認した。
「雲雀さんの方が予定より少し早く終わったから、時間が空いちゃったね」
「芝生頭に、二十分早く来るように連絡しましょうか?」
「それはいいよ。時間指定したのはこっちなんだし。コーヒー飲みながら待ってればすぐだろ」
「イタリア語の勉強しててもなー」
 笑いながら山本が、広げたままだったスポーツ雑誌を指先でつつく。
「結構難しいのな。定冠詞とか名詞の性別とか、英語にゃなかったから、今の俺の頭ん中、ちらし寿司みてーにごっちゃになってるぜ」
「ちらし寿司?」
「おう。あ、寿司といえば、またうちに食いに来いよ。親父もツナたちにご馳走してーって言ってたし」
「……そうだね。迷惑でなければ」
「迷惑なんてわけねーだろ。いつでもいいって」
「ありがと、山本」
 小さく笑って、綱吉は答える。だが、心中は複雑だった。
 ここしばらく、山本の父親とは顔を合わせていない。敢えて避けているわけではないのだが、しかし、彼に会ったらどんな顔をすればいいのか、何を言えばいいのか全く見当がつかないのは確かだった。
 二人きりの家族で、息子は父親から離れてイタリアへ──それも、まっとうではない世界へと赴く。
 山本の父親とて殺人剣・時雨蒼燕流の継承者であり、裏社会の冷酷さ残虐さを知り抜いているはずであるが、だからといって息子が同じ道を進むことを本心からよしとしているのかどうか、綱吉には本当のところは分からない。
 彼ら親子が、これからのことを納得しているのならいい。実際、関係者とはいえ他人である綱吉が口出しをする筋合いのことではないのだろう。けれど、山本家の問題なのだからとは割り切ってしまえない部分が、綱吉の中にはあった。
 だが、そんな内心の思いを気付かれたくなくて、そういえば、と綱吉は話を切り替える。
「雲雀さんの事務所、なんだかすごい建物だったよ。年代ものって感じで」
「へー」
「階段とか、真ん中の辺りが磨り減ってるんだ。何もかも古いんだけどすごく綺麗に磨いてあって、照明とかもシャンデリアみたいで」
 綱吉の拙い感想に、黙って聞いていた獄寺が微笑んで口を開いた。
「確かに古いものですよ。俺、草壁から住所を聞いた後にちょっと調べてみたんですが、あれは昭和初期の建築らしいです」
「そうなんだ」
 昭和初期というと八十年以上も昔の話だが、確かにそう言われても違和感のないレトロさだった。
「この辺りは当時、生糸の産地で、あの建物は生糸問屋たちの組合会館のような用途で建てられたようです。あの建物の中に豪商たちがそれぞれ出張所を構えて、商談や談合をしてたようですよ。その後、世界恐慌から日中戦争のどさくさで雲雀家が買い取って、二十年位前まで貸しビル業に使ってたとこまでは確認できました」
 獄寺の説明に、なるほど、と綱吉はうなずく。
「そうなんだ。でも、すごく納得」
「そうですか?」
「うん。すごくお金のかかった建物っていう感じがしたし、アパートみたいにエントランスに郵便受けが並んでるのに、部屋の造りは豪華な事務室みたいな感じで、綺麗で広いけど机と書類棚しかないんだよ。何だかお役所っぽいっていうか」
「ふーん。何だか面白そうだな。俺も見てみてーな」
 好奇心をそそられたらしく、目をきらめかせる山本に、綱吉はうーんと考える。
「見る価値はあると思うけど……、雲雀さんの持ち物だからなー」
「勝手に入ったら雲雀のやつ、怒るかな?」
「うん、それは絶対」
 彼自身が(勝手に)線引きした境界を了解なしに踏み越えられることを、雲雀はひどく嫌う。領域侵犯はすなわち、半殺しの病院送りと同義だ。
 ただ、それが山本であるのなら、何となく生還できそうな気はするのだが。特に、時雨金時を持参していれば。
「……まあ、そのうち機会あるんじゃないかな。雲雀さんも一応、守護者だし」
「そーだな」
 楽しみは取っておくか、と山本はうなずく。
「ツナも、今度また雲雀んとこに行く用事があったら、俺を連れて行ってくれな」
「うん」
 綱吉もうなずいて、それからテーブルの上に広げられたままだった雑誌へと目を向けた。
 いかにも山本向けらしい野球の記事にも写真にも何となく見覚えがあって、先週の日曜日に見たやつかな、と綱吉は思い返す。
 あの日は前日に色々あったせいもあって、自分も獄寺も到底雑誌を読む気分ではなく、ただページをめくっていただけで、内容は殆ど覚えていない。
 それでも最新号に野球の代表チームの記事があったことは、イタリアにも野球チームがあるんだな、と妙な感心をした記憶と共にぼんやり意識に残っていた。
「ツナはもうイタリア語、話せるんだよな?」
「日常会話くらいならね、何とか」
「すげーなー」
「でも、学校の英語は相変わらず全然ダメなんだよ。イタリア語の方が多分、簡単なんだと思う」
「ああ、それはあると思いますよ、十代目」
 綱吉の感想に、獄寺が賛同する。
「英語ってのは、イングランドの現地語とフランス語とドイツ語とケルト系のウェールズ語やスコットランド語のちゃんぽんなんです。だから、文法も発音もごった煮で覚えにくいんですよ。その点、イタリア語やドイツ語は規則がはっきりしてますから、一度基本を覚えてしまえば全部それでいけるんです」
「そう言われるとそうだね。特に発音とか。意味は分からなくても、とりあえず読み上げることはできるし」
「ああ、それはさっき、獄寺の説明で何となく分かったぜ」
「何となくじゃなくて、きっちり分かりやがれ」
 山本に対しては渋面で、獄寺は集中しろとばかりに長い指先で雑誌のページを叩いた。
「とにかくてめーの集中力だけは、俺は一応評価してるんだ。テスト前日の一夜漬けの気分を思い出せ」
「んー、そうは言ってもなー。明日はテストじゃねーしなぁ」
「月曜にはリボーンさんが待ち構えてるだろうが。あの人、すげーやる気になってるから、てめーも一旦やるっつった以上、ノルマこなしていかなきゃ絶対に殺されるぞ」
「そういやそうだっけ。じゃあ、ちっと真面目にやるかな」
「最初からやれっつってんだ!」
 呆れと軽い苛立ちの混じった声で獄寺は言い、「とにかく丸覚えしちまえ」と記事を指で追いながら読み上げ、日本語訳を続ける。そして、並んでいる単語の一つ一つの意味を説明するのを、山本はうなずきながら聞く。
 それから意味を確認し直すように、ゆっくりとした発音で文章を読み上げてゆくのを、綱吉は頬杖をついて微笑ましく見守った。
 山本のイタリア語習得については、綱吉は全く心配していなかった。
 獄寺の言う通り、山本の集中力は頭抜けたものがあるし、獄寺の教え方も要点を押さえていて分かりやすい。おそらく三月の渡伊までには、日常会話には不自由なくなっているだろう。
 むしろ不安があるのは、綱吉自身の方だった。
 イタリア語の会話はともかくも、ボンゴレ十代目として覚えなければならないことが多すぎる。
 今日は守護者たちに会うという名目で講義も休みにしてもらえたが、リボーンが計画しているところを聞きかじった限りでは、年末年始休みも自分たちにはないらしい。
 何もかも自分で選んだことではあるが、早くも泣きの入った気分になっていることは否めなかった。
 そうして、山本が記事の半ページ分ほどまで読み進んだ時。
「すまんな、待たせたか」
 張りのある声が、テーブルのすぐ横からかけられた。
「お兄さん」
「ちわっス、笹川先輩」
「やっと来やがったか」
 GパンとTシャツにパーカーといういつものラフな姿で現れた笹川は、空けてあった山本の隣りの席へと滑り込む。
 そして三人の顔をぐるりと見渡してから、綱吉へと視線を戻した。
「この顔ぶれで集まっているということは、イタリア行きが決まったのか、沢田?」
「──はい」
 開口一番の切り込みに、綱吉は思わず笑みが浮かぶのを感じる。九割方、苦笑ではあったが、それは確かにかすかながらも爽快感の混じる笑いだった。
「ずいぶん遅くなりましたけど、やっと決めました。来年の春に行きます。この二人も一緒に」
「そうか」
 綱吉の返答に、満足げに笹川はうなずく。
 そして、やってきたウェイトレスにホットコーヒーを頼んでから、綱吉に向き直った。
「俺も行くからな、沢田」
「……そう言われると思ってました。でも、本当にいいんですか?」
 イタリア行きについて笹川の気質を考えた時、他の答えを思い浮べることはできなかった。
 インターハイチャンピオンに続き、まだ大学一回生ながらインカレチャンピオンとしても名を馳せ、有名ジムからの勧誘は降る雨の如くなのに、いつまで経ってもプロデビューする様子がないことに、綱吉としても幾許(いくばく)かを悟らざるを得なかったのだ。
 だが、イタリアに行ってしまえば──裏社会に足を踏み入れてしまえば、笹川が世界の表舞台で華々しく活躍するチャンスは永久に失われる。
 そしてまた彼は、両親と妹という平穏な家族を持つ身でもある。笹川自身の身以上に、彼の家族の安全が綱吉としては気がかりだった。
「それについてはな、俺も考えた。一生のことだからな」
「はい」
「だが、結論としては、俺は守る戦いの方が性に合っていると思うのだ。タイトルのために戦うより、大事なものを守るために戦う方が力を出し切れる。いや、試合では出てこない力が出てくると言うべきか」
 笹川は考え込むような、自分の心の奥底を覗き込むような目で言い、まなざしを上げて綱吉を見た。
「世界チャンピオンが小さいとは言わん。タイソンもアリも、俺にとっては子供の頃からの英雄だ。だが、お前たちと戦ってきた日々のことを振り返ると、チャンピオンにこだわるのは小さいことのように思える。他にもっと大事なことがある、とな」
 日本人としては少し色素の薄い、ややグレーがかかった笹川の目は、自分たちが中学生だった頃と変わらず、真っ直ぐで潔く澄んでいる。
 その真っ直ぐな輝きは、この先も、どんな世界に彼が身を置こうと変わらないように思えた。
「だから、俺自身のことは構わんでくれていい。だが……」
 それまで歯切れよく言葉を紡いでいた笹川の表情が、ふと曇る。
 それを察して、綱吉は隣りの獄寺へと視線をちらりと向ける。心得て、獄寺は小さくうなずき、口を開いた。
「守護者の家族についちゃ、ボンゴレが責任を持ってガードすることになってる。本人たちには絶対に気付かれないように、てめーの家族を傷つけようとする連中は全部排除されるはずだ」
「ふむ? それが事実ならありがたい話だな」
「人質を取られちまったら、守護者だろうが何だろうが全力は出し切れねえだろ。所詮、人間のやることだから絶対の保障はできねーが、ボンゴレのガードは鉄壁に近い。てめーは安心して目の前の敵をぶちのめせばいいって寸法だ」
「そうか。それは助かる」
 笹川の顔に笑みが浮かぶ。
 安堵とすり替わるようにして浮かんだ覇気に満ちたその表情は、まさに闘士のものだった。
 誇り高く、潔く、敵に背を見せず、敵の後背から攻撃することもない。愚直なほど義に篤い、高潔無比の守護者。
 雲間から差す眩い陽光のようなその表情に、綱吉も小さく微笑む。
「それじゃあ、改めてお願いできますか。ボンゴレ晴の守護者として、俺と一緒に来て下さい」
「おう、任せろ」
 力強くうなずき、右手が差し出される。その手を綱吉は真っ直ぐに掴んだ。
 タコだらけの大きな力強い手。
 その上にもう一つ、同じくらいに大きく硬い手が重ねられる。
「山本?」
「ほら獄寺、お前も手ぇ出せよ」
「……俺もかよ」
 渋々といった様子ではあったが、獄寺は拒まなかった。
 指の長い、古い傷だらけの大きな手が一番上に重なる。
 その重なった手を見て、山本は嬉しげに笑い、笹川も満足そうに目を細める。獄寺だけはいかにも嫌そうな渋い顔をしていたが、今更のことなので誰も気にしない。
 そして、綱吉は。
「ツナ、俺たちはずっと一緒だぜ」
「俺たちはいつでも傍にいるからな。安心して頼れよ」
「俺たちは全力で十代目を支えます。他の何を信じられなくなっても、俺たちがいるということだけは忘れないで下さい」
 はっきりと感じる、温かな手のひらの重み。
 込み上げてくる熱いものをぐっとこらえる。すると、それは笑みになった。
 悲痛かつ強靭な覚悟を秘めているからこその、晴れやかな微笑み。
 その瞳で、綱吉は一人ひとりの瞳をゆっくりと見つめた。

「──皆で一緒に行こう。この先、どこまでも」

12.

「それじゃあ、またね」
「おう。また月曜になー」
「また何かあったら、いつでも呼び出してくれ」
 夕方のファミリーレストラン前でそれぞれに分かれ、片手を上げて歩き去って行く笹川と山本を見送ってから、獄寺は綱吉に並んでゆっくりと歩き始めた。
「……お兄さんは、予想通りだったね」
「芝生頭は単細胞ですから」
 その分、場合によっては突飛なこともするが、基本的には読みやすい。獄寺にしてみれば、山本よりも遥かに分かりやすい相手だった。
「でも、お兄さんは、イタリア語は本当に勉強しなくても大丈夫なのかな?」
 ちらりと獄寺を見上げて、綱吉が問いかけてくる。
 先程、彼のイタリア語学習をどうするかという話になった時、やらなくてもいいと主張したのは獄寺だった。
「はい。ああいうタイプは机で勉強したところで、身になりゃしません。実践あるのみで、必要があれば野性の本能で覚えますよ。幸い、ボンゴレは基本的に日本語が通じますし、イタリアはボディーランゲージでもどうにかなる国です。それに悪口は、意味が分からなくたって通じますしね」
「そうだね。イタリア人はこっちが一生懸命しゃべれば、理解しようとしてくれるし」
 夏の旅行の時のことを思い返したのか、かすかに微笑みながら綱吉はうなずく。
「はい。それにあいつは、イタリア人好みの底の抜けた性格してます。あからさまに困っていれば、誰彼なく助けてもらえるでしょうよ」
「ああ、それは何となく想像つくなー」
 今度はくすっと笑って、綱吉は前を向く。
 そのまなざしがすっと何かに吸い寄せられ、軽い驚きの表情と共に足が止まった。
「十代目?」
 呼びかけながら素早くそちらへと視線を走らせ、獄寺は綱吉が何を見たのかを確認する。
「あれは……」
「クローム……」
 曲がり角の道路交通標識に軽く寄りかかるようにして、所在なげにたたずむ華奢な少女。
 久しぶりに目にする、うつむきがちの繊細な顔立ちと黒い眼帯の組み合わせは、何ともアンバランスな美しさを生み出しており、黒で統一した服装にもかかわらず不思議に可憐だった。
「ボス」
 近づいた二人に気付いて、クロームもまた細い声で綱吉を呼ぶ。
 片方しかない大きな瞳は、明らかにほっとした様子だった。
「どうしてここに……、もしかして骸に言われて?」
「うん」
 こくりとうなずく様子は、五年前と変わらず世間ずれしていない幼さが残る。
 それはおそらく、彼女が十三歳の時から学校に通うことなく、たった二人の仲間と人目を避けて放浪を続けているためだろう。そうでなければ──世間と関わりを持っていたならば、こんな純粋さが保たれるはずがない。
 そう確信できるほど、彼女の大きな瞳は子供のように真っ直ぐで無垢だった。
「ボスが私に会いたがってるって。ここで待ってなさいって言われたの」
「そっか……」
「ボス、私にお話……?」
「うん」
 昔に比べればクロームの背丈は伸びたものの、せいぜいが日本女性の平均身長くらいだろう。向かい合った綱吉の肩に届くか届かないかという辺りだった。
「難しい話でもないし、君たちにはあんまり関係ない話かもしれないけど……。俺ね、今度の三月になったらイタリアに行くんだ。ボンゴレの十代目として」
「本当のボスになるの?」
「そう。だから、君たちも正式な霧の守護者となる。それで君たちの何かが変わるわけじゃないけどね」
 そう言い、綱吉は年下の少女を真っ直ぐに見つめた。
「多分だけど、俺が正式に十代目になれば、復讐者の牢獄についての情報も多少は得られるようになると思う。だからって、あそこから骸を出してあげることは難しいんだけど……、骸は骸の罪を償わなきゃならないから。
 骸が、理由があっても絶対に許されないことをしたのは間違いないんだ。そしてその罪を、ボンゴレや俺が代わって引き受けることはできない。俺はボンゴレを守らなきゃいけないから。骸が霧の守護者でも、それは変わらない」
「──それは骸様も分かってると思う。出たいとか、出して欲しいとかは絶対におっしゃらないから。……私や犬や千種に、危険なことをさせたくないだけかもしれないけど」
「……うん」
 うなずいた綱吉の瞳は、深い優しさとも悲しみとも取れる静かな光を浮かべていて。
「俺は今の骸には何もできないけど、それでもあいつが君にここで待っているように言ったってことは、骸はこれからも俺の霧の守護者でいてくれるんだって勝手に解釈する。でも、クローム、君はそれでいい?」
「うん」
 綱吉の問いかけに、クロームはこくりとうなずいた。
「骸様が駄目って言ったら駄目だけど、私も霧の守護者のままでいい。……ボスはそれでいい?」
 幼い少女のような問いかけは、私でいい?と問いかけているようだった。
 果たして、綱吉の答えはそれを違えることなく。
「うん。君と骸じゃないと駄目だよ。犬と千種も一緒だと、俺はもっと安心できる」
「……ありがと、ボス」
 綱吉の言葉の温かさを感じ取ったのだろう。表情は殆ど変わらないものの、血の気の薄い少女の頬がほんのりと染まった。
「クローム。困ったことがあったら、いつでも俺のところに来て。何もできないかもしれないけど、できることがあれば手伝うし、その代わりに俺も、君たちに手伝ってもらうことが色々あるだろうから」
「うん」
 うなずいて、クロームは改めて真っ直ぐに綱吉を見る。
「それじゃ、これからもよろしくお願いします、ボス」
「俺こそよろしく」
「はい」
 最後だけ、はい、と答えてクロームは体の向きを変えた。
「それじゃボス、私、もう行くね」
「うん。会いにきてくれてありがとう。骸にも、ありがとうって伝えて」
「うん」
 そして、クロームは小走りに駅の方角へと走り去ってゆく。
 その後姿をしばし見送ってから、綱吉はずっと黙って控えていた獄寺を振り返った。
「──これで守護者全員、揃っちゃったね」
「そうですね」
 正確に言えば、イタリア在住のランボだけは、まだ連絡が取れていない。だが、あの幼くして殺し屋を名乗っていた少年が、今更、雷の守護者の立場を返上するとも思えないから、そういう意味では獄寺同様に確認の必要がない相手である。
 それよりも、獄寺は綱吉の顔に浮かぶ、辛さの潜んだどこか疲れ切ったような微笑の方が気になった。
 だが、それでも綱吉がこれで一通りの事が完了したと考えているのなら、まだ付け加えなければならないことがある。
 綱吉が今日、ここまでの守護者たちとの対話で気力を使い果たしかけているのを分かっていて、敢えてそれを口に出すには全身の力が必要だった。
「十代目、守護者のことは片付きましたが、イタリア行きに関してもう一人、問題のある奴がいます」
「え……?」
 綱吉の目が丸く見開かれる。濃琥珀色の虹彩が地平線に近づきつつある陽光に透け、美しい金色にきらめくのを獄寺は真っ直ぐに見つめた。
「三浦ハルです」
 その名を告げた途端。
 何を察したのか、綱吉の顔から血の気が引いた。
 だが、それを間近に見ながらでも、獄寺は続けなければならなかった。それが右腕ということだった。
「あいつはイタリア留学を計画してます。シチリアには日本人が留学するような学科で目立つ大学はありませんから、可能性としてはローマが高いです。ローマからなら飛行機で一時間でパレルモまで飛べますから」
「な…に……それ……!」
「山本の甲子園の祝勝会で、俺とあいつが話していたのに気付かれませんでしたか。あの時に、俺はあの女から直接、イタリアに行くつもりだと聞きました」
「そんな前から知ってたのかよ!?」
「はい。黙っていたことについてはお詫びします。ですが、ボンゴレのことを考えると、優先順位は守護者の方が上です。それが片付くまでは、こうして黙っているつもりでした」
「なんで……!?」
 真っ青な綱吉の顔には、獄寺に対する怒りよりも裏切られたという衝撃の色の方が濃く浮かんでいる。
 夏の終わりにハルから話を聞いた時から覚悟をしていたことだったが、想像以上にそれは過酷だった。
 今すぐ土下座してアスファルトに頭をすりつけ、謝ってしまいたい衝動と戦いながら、獄寺は声だけは平静に続ける。
「十代目が何をおっしゃっても、あの女は諦めないからです。誰の説得も受け付けません。親が反対したら、自分から縁を切って身一つでイタリアに渡るでしょう。それよりはまだ、留学の方がマシです」
「そんなこと……!」
 彼女が何と言おうと止めなければならない。そんな激しさに満ちた光を、綱吉はまなざしに輝かせている。
 こんな時ではあったが、その輝きを獄寺は何よりも美しいと感じた。
「分かりませんか、十代目。あの女は俺たちと同じです。あなたのためなら、地の果てでも地獄の底でも喜んで駆けてゆく。理屈も何もありません。俺たちやあの女を動かしているのは、感情だけなんです」
「だからって……ハルは女の子だよ!? しかも普通の……ビアンキやイーピンとは違う!」
「確かに出自も育ちも違います。でもボンゴレに、マフィアに関わってるのは事実です。敵から見れば、あいつも十代目の関係者です」
「でもそんな、ハル自身がボンゴレに来るなんて……」
「誰かが押し付けたわけじゃありません。あいつ自身が、何度も危ない目に遭ったくせに自分で選んだ道なんです。分かってやって下さい、十代目」
 分かってやってくれ、などという言葉を使うのは生まれて初めてだった。
 それも、綱吉に対して、女などの為に。
 だが、ハルと綱吉を直接対話させれば、綱吉は更に傷つく。
 そして、ハルではなく、男であり右腕でもある自分に対してなら、綱吉はまともに怒りをぶつけることができる。
 そう考えた上での、選択だった。
 綱吉も、獄寺が今まで一度も口にしたことのない、そして口にしそうにない言葉を告げたことで、その意図を悟ったのだろう。
 動揺しながらも獄寺を見上げる瞳からは、非難の色も憤りの色も、またたく間に消え失せる。
 そのまま重苦しい、張り詰めた沈黙が流れて。
「……そうだね」
 やがて、ぽつりと綱吉が呟いた。
「もし、山本の祝勝会の時に聞いてたら、俺は自分がまだ何も決めてないことを棚に上げて、ハルを止めようとしたと思う。今だって、獄寺君が言ってくれたんじゃなくて、ハルから直接聞いたんだったら……」
「十代目」
「……ハルが真剣に考えて決めたことなら、俺には止められない。俺を誰も止められないのと同じように」
 自分自身に言い聞かせるように言い、綱吉は獄寺を見上げる。
 その瞳はハルの話題を持ち出す前と同じ、ただ、疲れの色が更に濃くなった優しい微笑を浮かべていた。
「ごめんね、獄寺君。君が俺のためにならないことをするわけがないのに。俺は君を責めた」
「いいえ、十代目のお怒りは当然です。俺は独断で、怒られて当然のことをしたんです」
「ううん。君は間違ってない」
 優しくそう言って、綱吉は半歩、二人の間の距離を縮め、右手を伸ばす。
 何を、と驚いてその手の行く先を見つめた獄寺の目線は、ゆっくりとした動きで、己の左手へと届いて。
 ほんのりと温かい指先を手の甲に感じた途端、いつの間にか硬く握り締めていた左手の拳が、蕾が花開くようにほどける。
 そして開いた手のひらは、傷つき、赤く汚れていた。
 ピアノを習い始めた頃からの習慣で爪はいつも短く摘んでいるのに、とぼんやり思う獄寺の耳に、綱吉の声が静かに響いた。
「手当てしないと。ここからだと、君の部屋の方が近いね」







 おそらく沢田綱吉という人物は、他人を守ることで自分自身を癒し、精神の安定を得るタイプなのだろう。
 自分で手当てできると言った獄寺を無視して、傷口を水道水で洗い流し、スプレータイプの創傷保護剤を吹き付け終わった頃には、綱吉はいつもの彼に戻っているように見えた。
「はい、終わり」
「ありがとうございます。すみません、お手を煩わせてしまって」
「こんなこと、何でもないよ」
 笑って、救急箱の蓋を閉める。
 そしてソファーの背もたれに体を預け、ほのかに冗談めかした笑みを見せた。
「でも、さすがに今日はちょっと疲れたよ。雲雀さんにお兄さんにクロームに……おまけにハル。覚悟はしてたんだけどなー」
「誰に対しても、お見事でしたよ。十代目の真似は誰にもできません」
「そうでもないと思うけどね。……でも、やっぱり皆で行くことになっちゃったなあ」
「そうですね」
 獄寺からしてみれば自明のことだったが、それくらいは綱吉も分かっていただろう。ただ、彼の性格と立場上、守護者たちの選択を受け止めるには大きな覚悟が必要だったのだ。
 彼らの人生を、丸ごと引き受けるために。
 そして、守護者たちが無残に傷つくかもしれない可能性をも、その身に背負うために。
 それはいかにも彼らしい、優しさに裏打ちされた覚悟だった。
 だが、その優しさは別の面から見れば、綱吉の神経をすり減らすものでしかないのだろう。
 本当に疲れた様子を漂わせて室内を彷徨った綱吉の視線が、ふと、リビングをソファーセットと二分して置かれたグランドピアノに止まる。
 そういえば、しばらく彼の前では弾いていなかったな、と獄寺は思い出した。
「何か弾きましょうか」
 綱吉の返事を聞く前に立ち上がり、ピアノへと向かう。その背中を綱吉の声が追いかけた。
「え、あ、うん……って、手ぇ怪我してるだろ!?」
「これくらい怪我のうちに入りませんよ」
 実際、皮膚の表面がわずかに破れた程度だ。短く切った爪が、肌を深く傷つけることは有り得ない。保護剤を塗布した今は、痛みすらほとんど感じなかった。
 綱吉がそれ以上何かを言う前に、さっさとピアノの天井と蓋を開けて椅子に腰を下ろし、さらりと音階(スケール)を流す。
「何がいいですか?」
「何でも。でも、本当に平気?」
「平気です。リストでもベートーヴェンでも何でも弾けますよ」
 言いながら、獄寺は思い浮かんだフレーズをそのまま弾き始める。
 綱吉の表情はまだ気遣わしげだったが、二十小節も過ぎる頃には心配するのを諦めたらしい。ソファーから少し乗り出していた体が、再び背もたれに深く沈むのが感じられた。
「……その曲、初めて聴く気がする」
「はい、正解です」
 高音域をほとんど使わない、低音でゆったりとしたメロディーは哀感を漂わせてリビングに響く。
「この曲は、もともとはスウェーデンのトラッドなんです。パンフルートとピアノとヴォーカルとで演奏してるCDがあるんですが、そのピアノの伴奏が気に入ったんで、それだけを適当にアレンジして……」
「ふぅん」
 獄寺が、耳に残ったメロディーをピアノにアレンジして弾くのは珍しいことではない。そのことは綱吉も知っていることだったから、さして驚く様子もなく、曲に耳を傾けているようだった。
 蒼く冷たい北の海の、流氷に閉ざされた水底をたゆたう大いなる流れのような響きは、遠いこだまにも聞こえる。
 遠く彼方から彼らを呼ぶもの。
 包み込み、攫(さら)い、突き放し、時には癒すもの。
 うねるような左手のアルペジオと右手が生み出すメロディーが、二人のいる世界を満たしてゆく。
「なんか……安心する曲だね」
 ぽつりと呟いた綱吉に、獄寺は、はい、と答え、弾き続けた。
 その曲を繰り返して二度弾き、同じアルバムからの別メロディーを基にした曲を続けて数曲弾く。
 そうして最後の一音を静かに空気に溶け込ませ、手を下ろしてソファーを振り返ると、綱吉は上半身をソファーに横たえて眠っていた。
 先程彼自身が口にした通り、本当に心底疲れているのだろう。
 まだエアコンを入れる季節ではないが、既に日は落ちており、急速に気温は秋らしく下がってきている。
 疲労しているのなら尚更体を冷やしてはいけないと、獄寺は急いで寝室のクローゼットから予備の薄い毛布を取ってきて、綱吉の眠りを妨げないようそっとその体にかけた。
「───…」
 クッションを具合よく枕にした綱吉の寝顔は静かで、目を閉じると案外に長いまつげが目元に影を落としている。
 日本人の平均よりは色素の薄い頬は、なめらかで、触れたら温かそうに見えた。
 温かな指先だった、と不意に先程の記憶が蘇る。
 綱吉が獄寺に触れたのは、あれが初めてではない。中学生時代から五年も傍にいれば、手や肩が触れ合うようなことはかつては日常茶飯事だった。
 だが、思い返してみれば、ここ一、二年は余程の偶然を除いて、手指が触れ合ったことはない。
 獄寺自身が意図的に避けていたこともあるが、おそらくは綱吉もそうだったのだろう。少なくとも、この数ヶ月は偶然すら皆無だった。
 優しく、温かな指先。
 綱吉には何か意図があったわけではないだろう。一度こうすると決めたからには、強靭に貫く意志の持ち主だ。
 ただ獄寺の手が傷ついていて、そのことに獄寺が気付いていなかったから、触れた。それだけの意味だったに違いない。
 けれど、言葉で指摘することなく触れたことには、無意識の何かが彼の中で働いたのではないか。
 ふと、そう思い、そう思いたがっている自分に気付いて、獄寺は綱吉が手当てしてくれたばかりの左手を握り締める。
 改めて見れば、ゆるく結ばれた綱吉の唇は、女性とは違うほのかな色づきで、とてもやわらかそうだった。
 今、この場で口接けたら、きっと怒るだろう。悲しむだろう。
 けれど、心のどこかで喜んではくれないだろうか。
 自分たちが同じものを抱えているのであれば。
(十代目……沢田、さん)
 握り締めた左手の痛みを感じながら、そっと身をかがめかけ───獄寺は動きを止める。
(──駄目だ)
 自分に全ての信頼を預けると言ってくれた。あの時の綱吉の心を裏切ることはできない。
 身勝手な欲望で、彼の高潔な覚悟を傷つけることはできない。
 心を引きちぎられるような思いで、獄寺は一歩退き、綱吉をもう一度見つめる。
(あなたを愛してます。愛してるからこそ、俺はあなたを何一つ傷つけない。そう誓ったんです)
 互いのこの覚悟こそが、彼自身と自分自身を傷つけるのだとしても。
 それは感じてはならない痛み、無視しなければならない痛みなのだと言い聞かせて、そっとリビングを出る。
 この胸の痛みをやり過ごすには、せめて濃いエスプレッソの一杯が必要だった。






 キッチンからかすかに物音が届くのを聞いて、綱吉はそっと目を開いた。
 そして、やっぱりキスはしなかったな、と小さく呟く。
 別に、最初から寝たふりをしていたわけではなかった。
 低く静かなピアノの音に眠りに引き込まれたのは本当で、獄寺が毛布をかけてくれるまでは、本当にうたた寝していた。
 だが、所詮はうたた寝だ。どんなに気配を殺そうと、間近に寄られて毛布をかけられれば目は覚める。
 しかし、そこで正直に目を開けなかったのは何故かと問われたら。
(期待したから、だよな……)
 一瞬の歓びを望んで、彼が罪を背負ってくれることを望んだ。魔が差したとしか言えない。
 とはいえ、キスをされても眠ったふりを続けるつもりはなかった。自分は何も気付かなかったふりをして、獄寺一人に裏切りの罪をなすり付ける気など毛頭ない。
 そして表面上は……否、心の底から本気で怒り、悲しんだだろう。
 自分たちがボスと右腕の関係を超えて特別に結ばれてしまったら、誰に対しても何に対しても言い訳が利かない。他者に気づかれなくとも後ろ暗い思いを捨てられないだろうし、知られれば、自分たちの信頼関係は情に流された愚昧(ぐまい)なものと見られ、獄寺も正当に能力を評価されることは難しくなるだろう。
 一つの世界の頂点に立つ以上、そんな弱みを持つことはできない。
 だからこそ、自分たちは決して結ばれない道を選択したのだ。
 それなのに。
 獄寺の存在をすぐ傍に感じた時、触れたいと……触れられたいと思った。
 先程自分が手当てした古傷だらけの手を、自分の手で包みたかった。
 本当に好きな人と、愛し、愛されたかった。
(俺、卑怯だ……)
 込み上げてくるものを唇を噛み締めてこらえる。
 そして、どうにか波が静まったところで、ゆっくりと起き上がった。
 獄寺はまだ戻ってこない。先程の物音からすると、おそらくエスプレッソを入れて、そのままキッチンで飲んでいるのだろう。
 獄寺が出て行ってから五分以上は過ぎている。そろそろ彼も自分を取り戻した頃だろうか。
 綱吉は立ち上がり、ゆっくりと丁寧に毛布をたたむ。
 それから、閉められていたリビングのドアに歩み寄って開ける。その音で、獄寺はこちらの動きに気付くはずだった。
「獄寺君?」
 ごく短い廊下を歩いてキッチンを覗くと、カップをテーブルに置いた獄寺が、こちらへ急ぎ歩いてこようとするところだった。
「十代目。すみません、起こしちまいましたか?」
「ううん、もともとそんな熟睡してたわけじゃないから。毛布ありがとう」
 綱吉の笑顔に、獄寺の瞳も優しさを増す。
「お疲れなんですよ。今日は早く休んで下さい。……そろそろ帰られますか?」
「そうだね。母さんにも今日の夜は家で食べるって言ってあるし。あ、でも、送ってくれるのはいいけど、夕御飯、獄寺君も食べていってよ?」
「……はい。でも俺、今月後半はずっと十代目のおうちで御飯をいただいてるんですけど……」
「うちで毎日、勉強会してるんだから、それは当然だろ。いいんだよ。それに母さんの御飯が食べられるのも、今年の冬までなんだし」
「……そうですね」
「またそんな顔する。申し訳ないなんて思わなくていいんだよ、母さんにも俺にも。それより、美味しいって御飯を食べてあげる方が母さんも喜ぶと思うよ」
「……はい」
 ほろ苦さの混じった微笑で、獄寺はうなずく。
 その彼の心のやわらかい部分が剥き出しになった表情に、綱吉は先程、今以上の痛みを獄寺に背負わせなかったことに心底ほっとした。
 自分の胸も痛んではいるが、耐えられないほどの苦しさではない。
 だが、あの時触れ合ってしまっていたら、それは耐えがたい苦痛となって互いを苛んだだろう。
 そうならなかったことに心底安堵し、それから自分の卑怯さを悔やんだ。
 綱吉が絡むと、獄寺は心を鎧(よろう)ことを忘れて、あまりにもたやすく傷つく。それでいて、決して綱吉を責めたりはしない。
 そうと分かっていて、彼の心を試したり弄んだりするような真似は、彼を大切に思うのなら最もしてはならないことだった。
「それじゃ、行こっか」
「はい」
 綱吉が微笑みかけると、獄寺も笑みを見せる。
 痛みと隣り合わせの、けれど決して欺瞞(ぎまん)ではない笑顔を見交わして。
 二人は連れ立って、部屋を出た。

End.





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