天国まで何マイル?

7.

「いい天気だよねー。なんか俺、午後からの授業、サボりたくなってきた」
「十代目がおっしゃるのなら、俺はいつでも抜け出しますけど」
 真昼の空を見上げながら言った綱吉に同意して、獄寺も上空へとちらりとまなざしを向ける。
 確かに今日は、教室で鬱々と退屈な授業を聞いているのが惜しくなるような、澄み切った日本晴れだった。
「うーん。本当にそうしたいのは山々なんだけど」
 溜息混じりに言い、綱吉は弁当の御飯を一口ぱくりと食べる。
 秋とはいえ十月下旬の日差しはまだ眩しく、昼間だと日光がじりじりと照りつけるのに暑さすら感じる。
 それゆえに、二人が今日、屋上で昼食を食べるのに選んだ場所は、ちょうど膝から先だけ日が当たるような給水塔の傍らの半日陰だった。
「でも、いざ学校を抜け出したら、速攻でリボーンにばれると思うんだよね。でもって、そんなに元気が有り余ってんなら、っていつもより倍くらいハードなトレーニングメニューを用意される羽目になって。……いつも思うんだけど、リボーンって一体どうやって俺を見張ってるんだろ」
「さあ。俺にもあの人のことはちょっと……。いずれにせよ、学校の近辺にいらっしゃるのは確かだと思いますけど」
「うん。とにかく人間離れしてるからなー」
 アルコバレーノ云々を除いても、リボーンの能力は尋常なものではない。
 世界最高のヒットマンを名乗る以上、元より普通であるわけがないのだが、それにしても知識知略といい身体能力といい、桁外れの存在だった。
 それこそ生身の人間とは到底思えないレベルであるのだが、彼の性情はクールではあるものの決して冷酷ではなく、そのことが彼をただの殺戮マシンとは一線を画したものになさしめている。
 ゆえに、綱吉も諸々の建前を取り払ってしまえば、ほぼ無条件に彼を信頼し、慕っているといっても決して間違いではない。
 だが、リボーンの能力はあまりにも卓越しすぎており、綱吉の限界ギリギリを見極めた地獄のトレーニングメニューを課された時の恨み節とはまた別に、言葉にしがたい畏怖を彼に感じることも、これまでの月日の中では間々あることだった。
「ねえ、獄寺君」
「はい?」
「ボス教育って言っても、リボーンは俺に何を教える気なのかな。見当つく?」
「そうですね……」
 問われて、獄寺は箸を動かす手を止める。
 余談ではあるが、獄寺が食しているのは、見た目も中身も綱吉と全く同じ、奈々の手作りの弁当だった。
 一人暮らしの獄寺の食生活を心配した奈々が、一つも二つも変わらないからと弁当を用意するようになったのは、二人が高校に入学した直後からのことである。
 中学校時代は、綱吉のもう一人の親友である山本も一緒に昼食を食べていることを彼女も聞き知っていたために、そこまでするのは、と気を回していたようなのだが、高校進学を機に山本の進路が二人と分かれたことから、獄寺のような性格の少年がそう簡単に新しい友人を作るはずはない、とりあえず綱吉と二人で食べるのなら、全く同じ弁当でも構わないだろうと思いついたらしい。
 そして、出来合いの惣菜や冷凍食品は最低限しか使わない、栄養バランスとボリュームの双方を考慮した最高クラスの手作り弁当を、奈々を敬愛してやまない獄寺が無碍(むげ)にできるはずがなく、結局、ほぼ三年間、学校のある日は毎日、奈々の弁当をありがたく頂戴することになったのだった。
「色々あるでしょうが、まず最初はファミリーの概略じゃないでしょうか。ボンゴレの成り立ちや現状、組織の構成……。そこから派生して、あとはファミリーが手がけているビジネスや他ファミリーとの関係や、その他色々と言ったところですかね」
 考えつつ、獄寺は自分の意見を述べる。
「でも、リボーンさんですから。正直、全然見当つきません」
「うん」
 だから困るんだよね、と綱吉も同意してうなずいた。
「情報を出し惜しみせずに教えて欲しいって、九代目を通して頼んだのは俺だけど、どんなスパルタが待ってるかと思うと気が重いよ」
「──十代目が?」
 綱吉が何気なく言った言葉に、獄寺は目を丸くする。すぐに綱吉は気付いて、うなずいた。
「ごめん、言ってなかったね。──俺、ずっとリボーンがボンゴレについて肝心なことは教えてくれてない気がしてて。何でだろうって、理由を考えたら一つしか思いつかなくてさ」
「それは……」
「うん。俺が、ボンゴレの人間じゃないってこと」
 かすかに眉の辺りを曇らせた獄寺に、しかし、綱吉は笑って見せた。
「リボーンの判断だったかもしれないけど、リボーンは九代目の頼みで俺の家庭教師をやってるわけだから、リボーンが肝心なことを教えてくれないのは、やっぱり九代目の気持ちなんだろうなと思って。 それには色々理由があったと思うんだ。俺が知りたがってなかったとか、俺をあんまり危ない目に遭わせたくないとか、部外者に大事なことは教えられないとか」
「……はい」
「多分、俺がわざわざ頼まなくても、九代目はリボーンに、俺に全部教えるように言ってくれたと思う。でも、ちゃんと頼みたかったんだ。自分で選んだことなんだって、はっきりさせたくて。だから、九代目に電話した時にお願いしたんだよ」
「そうだったんですか」
 なるほど、とうなずく獄寺の表情には、綱吉の心構えに対する賛嘆だけではない、何か沈痛なものが奥の方に潜んでいるようだったが、綱吉はそれには気付かないふりで、そうなんだ、と応じる。
「ごめんね、また言うのが遅れて」
「いえ、それは構いませんよ。十代目は十代目の御判断で動いて下さればいいんです」
「そんな立派なものじゃないけどね」
 何もかも全面的に肯定する獄寺の言葉に微苦笑して、綱吉は再び箸を動かし始める。
 そうして、弁当の大半を食べ終えたところで、また思い出したように口を開いた。
「あと、進路の話なんだけどさ。担任に言っておかないといけないよね。就職決まりましたって」
「……まあ、そうですねえ」
 返答に微妙な間が空いたのは、就職という単語に違和感があったからだろう。その気持ちは綱吉にもよく分かった。
 獄寺は六年も前からボンゴレのファミリーであったのだし、綱吉もボスの座に就任するのであって、それを就職と言い換えるのには、決して間違ってはいないものの、正しいとも言い切れない感がある。
 そのあたりのニュアンスの微妙さにだろう、獄寺は軽く眉をしかめてみせた。
「就職といえば、就職、ですね」
「うん。少なくとも、進学、就職、フリーターのどれかなら、就職だろ」
「はい」
「で、担任には、親戚の会社を手伝うことになりました、くらいでいいかな」
「十分でしょう。企業名まで言う必要はないですよ」
「聞かれるけどねー」
 学校も統計を取っているわけだし、と綱吉は考え込む。
「……コネでの就職はみっともないから言うなって、親に釘を差されてるっていうのじゃ通らないかな?」
「担任がどう反応するかは分かりませんけど、とりあえずそれでいきましょうか。駄目なら、ノーザン・フーズ株式会社と言えばいいですよ。ボンゴレの末端に繋がる輸入食品会社で、都内に実在します。業務内容は健全なとこで、裏取引のカモフラージュに使われたこともありません」
「ふぅん、そんな会社もあるんだ。じゃあ、そうするよ」
 ノーコメントで駄目だったらね、と小さく笑って、綱吉は弁当の最後のプチトマトを口に放り込んだ。
 それから手元の弁当箱へと、ふと視線を落とす。
「……母さんに弁当を作ってもらうのも、あと四ヵ月くらいだね」
「……そうですね」
 獄寺も綱吉に倣うように、綺麗に空になった弁当箱を見つめた。
「──俺、お母様には本当に申し訳がないです。そうするしかないと頭では分かってるんですけど、この六年、とても良くしていただいたのに、何一つ本当のことは言えないままで……」
「……うん」
 その気持ちは自分も同じだ、と綱吉はうなずく。
 けれど、とまなざしを空に向けた。
 秋の空は雲ひとつなく、切ないほどに青く、目がくらみそうに高い。
「でも……何度、選択肢を示されても、俺はやっぱり同じ道を選ぶよ。いつだってそうだった。ギリギリのところで、右か左か、進むか退くかを選んでここまで来たんだ。どこまで遡ってやり直しても、やっぱり俺はここにしか辿り着けないと思う」
「そう、ですね」
 獄寺もまた、視線をうつむけたまま同意する。
「俺は今からやり直せるのなら、違う選択肢を選びたかったことばかりです。……でも、どんなに時間を巻き戻しても、やっぱりその時その時の俺は、同じ選択をするでしょう。俺も、何度やり直してもきっと今の俺にしかなれません」
「……それで、いいよ」
 そのままでいい、と綱吉の声が、ひそやかに優しく真昼の屋上に響く。
 本来、生徒は進入禁止となっている屋上には、二人以外誰もいない。ただ、教室からのざわめきだけが風に乗って潮騒のように届く。
 その中で二人は、手を伸ばせば簡単に触れ合える距離で瞳を見交わした。
「これでいいんだよ、全部。正しいとは言わない。言えないけれど、これでいいんだと思う。俺も、君も」
「十代目」
 綱吉の濃琥珀色の瞳を見つめていた獄寺が、ふっとまなざしを伏せる。
 そして、そうですね、と呟いた。
「俺もあなたも、ここまで精一杯に生きてきた。少なくとも、この六年間は。それだけは本当です」
 獄寺のまなざしが再び上がる。
 霧がかった湖を思わせる、深い深い銀緑の瞳がまっすぐに綱吉を捕らえた。
「行きましょう、どこまででも。あなたがどこに行かれようと、俺はこの世界が終わるまでお供します」
「……うん。ありがとう」
 その言葉を綱吉も真っ直ぐに、静かに受け止める。
 そして、かすかに笑んで空を仰いだ。
「それじゃ、とりあえず担任の所に行こっか。進路のこと、言わないと」
「はい」
 淡い微笑に、ほのかなやるせなさを紛らせながら、二人は立ち上がる。
 そのまま振り返ることなく、人気(ひとけ)ない屋上を後にした。

8.

 風が涼しくなった、と思う。
 とりわけ朝夕の空気の冴え方は、遠からず訪れる錦秋を予感させた。
 海と山、双方の自然に恵まれた並盛には市街地に寄り添う形で森林公園があり、その向こうの山並みと共に、森林公園の雑木は秋が深まると鮮やかな赤や黄色に染まる。
 その時節にハイキングと称したサバイバルキャンプを敢行するのは、昨年までの綱吉たちの恒例行事だったが、今年はどうやら家庭教師の予定表にそれはないらしい。
 少なくとも今日までは、リボーンはそれについてはうんともすんとも言ってきていなかった。(もっとも事前に通知があったためしもない。ただ感触として今年はなさそうだ、というだけである。)
 だからといって綱吉の身辺が静かなわけではなく、何が何でも春までに一通りの知識を綱吉に叩き込んでしまいたいらしいリボーンは、早速昨日、恐ろしげな棘の生えた金棒を手に生徒二人の帰宅を迎えた。
 そこから先、夕飯を挟んで夜九時までは綱吉は地獄を見たし、その傍らでボンゴレに関する膨大な資料──主に組織や商売に関するもので大半が数字と専門用語で構成されている──を山と積み上げられ、「テメーなら春までに全部暗記できるだろ。できなきゃ死ね」の一言を突きつけられた獄寺にとっても、その数時間はひたすらに拷問だった。
 そんな二人にとって不幸中の幸いだったのは、リボーンは夜九時ですっぱりと講義を切り上げる主義だったことだろう。
 寝る間を惜しんで勉強することも時には必要だが、基本的に夜九時を回ると人間の脳の働きは鈍る。加えて、綱吉が夜更かしが得意でないこともあり、舌打ちしつつもリボーンは生徒たちにそれ以上の無理を強いなかった。
 とはいえ、スパルタはスパルタである。
 久しぶりに脳細胞を猛回転させる羽目になった綱吉は、一夜明けた今日の学校の授業は大半をうとうとしていたし、そんな綱吉を横目で眺めつつ、唐突に得たファミリーに関する様々な情報が脳裏を回遊し続けたおかげで寝つきの悪かった獄寺も、何度あくびを噛み殺したか知れない。
 授業をサボることが許されるのなら、二人して屋上辺りで昨夜の復習をしつつ半日寝ていたいところだった。
「今日もまた、アレの続きだよねえ」
「でしょうね……」
 学校からの帰途、呟く綱吉の声も答える獄寺の声も、まったくといっていいほど覇気がない。むしろ生気がないといった方がいいかもしれない。それくらいに世を儚んだ声だった。
「分かってたことだし、自分で選んだことだけど……なんかもう俺、負け犬気分だよ」
「俺もです。リボーンさんにかかったら誰でも尻尾を巻いて逃げ出すしかないですよ」
「獄寺君までそんなこと言うわけ? 俺、ますます立つ瀬がないじゃん」
 恨めしそうにぼやき、綱吉は、あーあと溜息をついた。
 それから腕時計の時刻表示を確かめる。
「そろそろバス来るね。……乗って帰らなきゃ駄目、だよね」
「すみません、十代目。その場合、俺もどうしたらリボーンさんから無事に逃げおおせられるのか分かりません」
「それは地球が逆回転したって無理だよ。絶対に捕まって殺される」
 そもそも四、五ヶ月でボス教育を完遂しようっていうのが無理なんだよね、と溜息混じりに言って、それきり綱吉は口をつぐむ。
 終業時刻を過ぎたばかりの高校前のバス停には、帰宅部の高校生があふれている。並盛高校は駅から程々の距離にあるため自転車通学者も多く、銀輪が次から次に歩道を通り過ぎてゆくから、危うい意味を持つ言葉は一切口にできない。二人共に人目を惹きやすいために殊更、注意は必要だった。
 それから二分ほど待って、少し遅れ気味にやってきたバスに乗り込む。
 路線バスではあるが、商店街も病院も経由していないために一般の乗客は少なく、九十パーセントを高校生が占めるバスは、どうしても朝夕は混み合うことは避けられない。
 一時間でも下校時刻をずらせば、こんな窮屈な思いはしなくてすむのだが、そんな怠惰は恐ろしい家庭教師様が許してはくれない。
 ゆえに、諦めの溜息をつきつつ、背中に当たる誰かの肘に小さく眉をしかめつつ、二十分余りの道程をやり過ごして、駅前で下車した時には綱吉は大きく息をつき、深呼吸した。
「はー。毎日毎日、嫌になるね。せめて先週までみたいに、もう少し空いてる時間帯に乗れたらなー」
「教室で少し時間を潰すだけで大分違いますけど……。リボーンさんに特別な理由がない限り四時までに帰れって、厳命されてますからね」
「これで帰ったら、また夕飯まで休みなしだもんな。こんなのが春まで続くと思うと……」
 それ以上の言葉は言わなかったが、たまらないとばかりに綱吉は溜息をついた。
 それから、まだ日差しの眩しい空を目を細めて見上げ、仕方がないよね、とでも言うように獄寺を見やる。
「帰ろっか」
「はい」
 十月下旬は、夏に比べれば日暮れが早いものの、まださほど日は短くなかった。
 東に向かって歩く二人には背中方向から傾いた日差しが辺り、前方へと少し長い影を作る。
 その傍らを、小学生の子供たちが元気よく自転車で走りぬける。商店街からの買い物帰りらしい年配の女性が大きなエコバッグを下げて歩いてゆくのを、歩幅の広い二人が追い越す。
 何の変哲もない、秋の初めの遅い午後だった。
「……獄寺君」
「はい」
 名を呼ばれた時、不意に何かを感じたのは、獄寺の勘が特に冴えていたわけではない。綱吉の声が、いつもとどこか違っていたからだった。
 静かで穏やかで、凛として、けれど、まだ何かを迷っている。
 それを獄寺の耳は間違いなく聞き分けた。
 綱吉に合わせて歩き続ける。だが、耳と綱吉を見つめる瞳に全神経を集中した獄寺に、綱吉は静かに続けた。
「そろそろ言わなきゃいけないと思うんだ。山本に。俺が春になったらイタリアに行くこと」
「──はい」
 獄寺は静かにうなずく。
 それは獄寺自身も思っていたことだった。
 山本が、ボンゴレ十代目の雨の守護者であることは四年も前に認定された事実であり、それは取り消されてもいなければ、彼がリングを返上する気配を見せたこともない。
 ひとたび認定された以上、本人が雨の守護者であることを自認し、ボンゴレ十代目がそれを望む間は、その立場は継続する。ゆえに、綱吉の六人の守護者は、四年前の認定時からその顔ぶれを変えてはいなかった。
 ボンゴレの中でも特殊な存在である『守護者』は、他の構成員とは異なり、当主との個人的な繋がりから成るものであるがために、必ずしもボンゴレに属す義務はなく、総本部のあるイタリアに居住する必要もない。
 それぞれの立場で、それぞれのやり方でボンゴレと当主を守り、必要な時に必要なことを成せば足りるとされ、それ以上のことを当主は守護者に求めない。
 その繋がりの根幹にあるのは忠誠ではなく、むしろ個人的な思惑──親愛であったり興味であったり執着であったり、それさえも一定ではないのが常だった。
 そして、形や規範に縛られないがゆえに当主と守護者の絆は強く、また守護者同士の絆も強い。
 組織の誰が裏切ろうと、守護者は決して裏切らない。ボスの望みを違(たが)えない。守護者同士が仲間を出し抜くことはあっても、組織の不利益になることは決してしない。
 ボンゴレ当主を中心とした、絶対的な六芒星。
 その比類なき輝きと圧倒的な強さが、百五十年余のボンゴレの歴史を支えてきたのである。
 そして、伝統に則(のっと)るかのように、これまでの綱吉と守護者との関係もまた、友人とも仲間とも言えないような微妙な繋がりだけで成っている。
 その関係が、綱吉が正式にボンゴレ十代目を継いだ後も続くのか──続ける意志が彼らにあるのかどうか。
 獄寺は綱吉から覚悟を聞くと同時に、右腕としても嵐の守護者としても忠誠を誓ったが、残りの五人は──そのうちの雷の守護者ランボは、本来の所属であるボヴィーノから話を聞いたかもしれないが──まだ何も知らず、当然、今後の在り方を表明してもいない。
 だが、綱吉と獄寺が答えを出したように、彼らもまた答えを出さなければならない。
 そして、それを問うのは、綱吉の役割だった。
「いつにされますか?」
 獄寺は、憶測や個人的な意見を差し挟むことはせず、端的に問う。
 対する綱吉の答えは、きっぱりとしたものだった。
「早い方がいい。今夜にでも」
「──はい」
 一瞬、驚きを小さく瞳によぎらせたものの、獄寺はうなずく。
 綱吉がそうと決めたのなら、逆らう理由はなかった。もとより延期して良いことがある問題でもない。
 それに週末も、どうせリボーンがぎっしりとスケジュールを組んでいるだろうから、結局はその日のノルマが済んでからしか山本に会う時間は作れないはずであり、となれば、そこまで日程を延ばす意味もなかった。
「少し遅くなるけど、そんなに長い話にもならないと思うし。今からメール入れておけば、山本も時間を合わせてくれると思うから」
「分かりました。奴への連絡は……」
「俺がするよ」
 言いながら、綱吉は早くも携帯電話を取り出す。
 まずは時刻を確かめたのは、メールを打ちながらゆっくりめに歩いても、リボーンに強制された門限には間に合うことを計算したのだろう。
 それから、さほど文面を考え込むでもなく、おそらくは「今夜、話をしたい」という用件だけの短いメールを作成して送信した。
「あ、もう返信来た。OKだって」
 山本も、綱吉に負けず劣らず短文メールを得意とするタイプである。
 綱吉の携帯電話がメール受信を告げる着メロを鳴らしたのは、送信から三十秒も経っていない頃合だった。
「野球馬鹿も部活を引退しましたからね。暇なんでしょう」
「うーん。野球部を引退してもお店は手伝ってるんだから、そう暇じゃないと思うけど……まだ開店前だもんね」
 山本の父が経営する竹寿司の午後の営業時間は、午後五時から十時までであり、その間は店内に客がいる限り、山本は携帯電話には応答しない。
 おそらく今は、タイミング的にちょうど学校から帰宅した頃合ではないだろうか。少なくとも、山本が身近に携帯電話を置いていて、見ることに支障がない状況であったには違いない。
「そういえば山本、この間会った時、車の免許取りたいって言ってたけど、どうなったのかな」
「十代目に連絡がないってことは、まだ車校に行ってねーんじゃないですか」
「どうかなー。山本も案外、黙って免許取って俺たちを驚かせようとする所があると思うけど」
 小さく首をかしげながら、綱吉はもう一度短いメールを打って送信する。
 それに対する返信も、またすぐのことだった。その文面を見てから、綱吉は獄寺を振り仰ぐ。
「獄寺君、今夜九時半に駅前のファミレスで会うことにしたから。いいかな?」
「はい」
 綱吉は、獄寺に対しては一度も、今夜共に行くかとも聞かなかったし、来て欲しいとも言わなかった。
 獄寺が行動を共にすることを当然の前提として、ただスケジュールの可否だけを問う。
 ボンゴレを継ぐ決意を表明する以前の綱吉ならば、決してしなかったそのやり方は、獄寺の心の最も深い部分を静かに揺さぶった。
 が、表情には何も出すことなく、獄寺はボスの問いかけに答える。
「問題ありません。もし不都合が起きたら、その時は臨機応変にゆきましょう」
「うん」
 ありがとうとでも言うように微笑みながらうなずいて、綱吉は携帯電話をバッグにしまい、前方へとまなざしを向けた。
 傾いた日差しが陰を作るその綺麗な横顔は、何を思っているのかをたやすく見抜かれることを拒み、静かに凪いでいる。
 中学生の頃の彼は、それとは真逆だった。可愛らしいほどに他愛なく、考えていることが全部、表情から透けて見えていた。──それでさえも自分は、彼の表情の意味をいつも見誤っていたのだけれど、とひそやかに考えながら獄寺は、綱吉には気付かれないように体の影でそっと拳を握る。
 ───自分が、彼の右腕であることは決して揺らがない。
 自分はその立ち位置から決して動かないし、彼もまた、自分がそこから動くことをきっと望まない。
 自分たちの関係は不変であり、永遠であり。
 ───二度と、あの日に戻ることはない。
 遠慮なく、容赦もなく、右腕として遇される喜びは、何にも勝る。
 だから、これで良い。
 それは間違いない。
 けれど。
 あの日までの自分たちの間にあった、友人であるような、そう思いたがっているだけであるような曖昧な関係は、今から思えばたとえようもなく甘く、きらめいていた。
 奥底に秘めた感情があったがゆえに、よりいっそう甘かったことも今なら分かる。
 何の誓約もなく、部下でも何でもない一人の人間として遇されることは、おこがましいとは思いつつも、心が震えるような喜びだった。
 けれど、もうそれは過去のことであり、自分たちの間にはボスと右腕、それ以上もそれ以下もない。
 彼はもう、自分の名を友人としては呼ばず、自分もまた、姓であれ名前であれ彼を本名で呼ぶことはない。
 ───そう。
 傍らに在ることを当然の存在として遇される喜びは、何にも勝る。
 けれど、二度と名前を呼べない、決して呼ばないことへの悲嘆も、何にも勝る。
 どれほど現状に納得し、満足していようと、それだけはどうしても否定しきれない。
 唯一無二の存在の役に立てることに歓喜しながら、辛い、苦しいと何かが心の一番深い部分でうめいている。
 ───ああ、けれど。
 自宅の前まで来て、綱吉はぴたりと足を止める。
 そして、獄寺を振り返った。
「じゃあ、今日も一緒に頑張ろっか」
 ポーカーフェイスを少しだけ崩して、困ったような諦めを含んだような笑顔で、そう告げる。
 辛いのも苦しいのも君一人ではないのだと、獄寺を見つめる透明な濃琥珀色の瞳がささやいている。
「はい、十代目」
 だから、獄寺も笑んだ。
 自分は何も知らない、気付かない。あの日起きたことは、互いの名を初めて呼んだ、ただそれだけ。そこには何の意味もない。
 けれど、分かっていますから、とうなずいて。
 二人は沢田家の門をくぐった。

9.

 綱吉と獄寺が駅前のファミリーレストランに着いたのは、約束の九時半ちょうどだった。
 店内に入るよりも早く、窓ガラス越しに店内の席から右手を上げる山本を見つけて、綱吉も軽く手を上げる。
 並盛は大都市郊外の小さな町であるがゆえに、いささか夕食には遅い時間帯、それも平日のファミレスには山本を含めても三組の客しかいない。煌々と照明は灯っているものの、どことなくがらんとした印象の店内のうち、角のテーブルで山本は二人を待っていた。
「ごめん、待たせた?」
「うんにゃ。俺も来たばっかだぜ」
 山本はいつものように笑って、テーブルに広げていたメニューのページを軽くぱたつかせて見せる。
 そうする間にウェイトレスが、二人分の水とメニューをテーブルに置いて、「メニューがお決まりになった頃にお伺いします」とお決まりの台詞を残し、去っていった。
「時間も遅いし、俺はコーヒーだけでいいよ」
「そーだな。俺もいいや。獄寺は?」
 山本の問いかけに、獄寺は小さくうなずいて同意する。それを受けて、山本は先程のウェイトレスに向けて手を振った。
 ホットコーヒーを三つ頼んで、さて、と山本は二人に向き直る。
 その長袖のコットンシャツから覗くその左手首には、細長い金のプレートと漆黒の細い革ベルトを組み合わせた精悍なブレスレットが照明を受けて鈍く光っており、その輝きに綱吉はふと目を留めた。
「そのブレス、してくれてるんだね」
「ああこれ? 当然だろ」
 綱吉の指摘に、山本は笑って左手を掲げる。
「いっつもしてるぜ。朝起きた時から、夜に風呂入る前まで、毎日」
 ものすごく気に入っているのだと笑む山本に、綱吉も微笑む。
 ──そのブレスレットは、甲子園での優勝記念に綱吉と獄寺が贈ったものだった。
 フィレンツェの小さな工房で、金のプレートに彫り込んでもらったメッセージは、“L’alloro brilla per te.”──栄冠は君に輝く。
 日本の高校野球に少しでも興味のある人なら誰でも知っているだろう歌曲のタイトルは、店頭でメッセージを考えあぐねていた綱吉の脳裏に、ふっと閃いたものだった。
 とはいっても、浮かんだのは歌詞ではなくメロディーで、綱吉の「なんていうタイトルだっけ?」という問いに答えたのは、無論、獄寺であり、それをイタリア語に訳して金細工職人に伝えたのも獄寺だった。
 それゆえに、プレートの裏面には甲子園決勝戦の日付(試合が日程通りだったのは幸いだった)と共に、綱吉が嫌がる獄寺を説き伏せて追加した、“T&H”の文字も入っている。
 それを山本が大切に身に着けてくれているのは、綱吉にとっては何よりも嬉しいことだった。
 けれど。
 ───そんなに大事にしないで。
 山本が、自分たちが贈ったものを無碍(むげ)にするわけがない。なのに、何故そんなに嬉しそうなの、何故そんなに大切にするの、と問いかけたい気持ちが無性に込み上げる。
 口に出したら、きっと足元の薄氷が割れてしまう。そうと分かっていても、篝火に蛾が吸い寄せられるように問いたくなる。
 ───駄目だ。
 不意に揺らいだ自分を抑え込むように、綱吉はテーブルの下で拳を握り締めた。
 山本は、まだ何も言っていない。
 自分もまだ、何も問うてはいない。
 今ここで動揺してはならない。まだ、動揺すべきではない。
 唐突に湧き上がった緊張感に気分が悪くなる寸前、「お待たせ致しましたぁ」と、少し間延びしたウェイトレスの声が響いた。
 その緊張感の欠片もない声と、少しばかりおっとりした手つきでコーヒーカップがテーブルに並べられる硬質で小さな音が、ふいに綱吉を現実の地平に引き戻す。
 救われたような気分で彼女が立ち去るのを待ちながら、握り締めていた手のひらをそっとほどくと、薄く汗が滲んでいるのが感じられた。
 何を今更動揺しているのかと、綱吉は自分の小心ぶりを自嘲しながらコーヒーカップを引き寄せ、獄寺が寄せてくれたシュガーポットから砂糖をすくって溶かし込む。
 そうして一口、味はともかくも熱いコーヒーをすすると、知らず張り詰めていた緊張がほんの少しだけ和らぐようだった。
 けれど。
「で? ツナ、俺に話って?」
 ほんの数秒の綱吉の葛藤に気付いていないのか、あるいは気付かなかったふりをしているのか。コーヒーをブラックのまま一口飲んでから、山本がいつもと同じ屈託のない口調で問いかけてくる。
 途端、一旦は鎮まったはずの綱吉の鼓動が、どくんと胸の内側で大きく響いた。
 ───言うべきなのか。
 本当に言ってもいいのか。
 口にしたら最後、取り返しのつかないことになるのではないか。
 覚悟を決めてここに来たはずなのに、唐突に靄(もや)がかかったように思考がぼやけ、目の前に奈落がぽっかりと暗い穴を開けたような錯覚にさえ囚われる。
 駄目だ、と思ったその時。
「ツナ?」
 山本が、どうした?と言うように……それこそ何でもない調子で名前を呼んで。
 更に視線を感じて隣りを見ると──獄寺が自分を見つめていた。
 いつもよりも少しだけ銀色の輝きを増している気のする瞳は、鋼を思わせた。
 冷静で強い、心配をあからさまにするのではなく、ただ『俺はここに居ます』と告げるようなまなざしに、綱吉は思考がすうっと冴えるのを感じる。
 緊張は解けない。
 手のひらの汗も、まだ滲んでいる。
 だが、言わなければいけないこと、言うべきことだけはくっきりと脳裏に思い浮かぶ。
 まなざしにほのかな感謝を含めてから──それでもきっと獄寺は気付いただろう──、綱吉は静かに目線を山本へと戻した。
「あのね、山本」
「うん?」
 山本の目は、昔と変わらずまっすぐだった。
 明るく強く、そして──底が見えない。
 だが、見えないことを怖いと思ったことは一度もなかった。
 生まれ持ったものなのか、それとも成長の過程で獲得した気質なのか、山本は常に最善を考え、最善を選択する本能のようなものを持っている。綱吉もまた、山本のその気質を本能的に信じており、彼の選択を疑ったことはなかった。
 けれど、彼はあまりにも最善を考えすぎるから。
 守ると決めたものを、必ず守り通すから。
 本当にそれが彼にとっての『最善』なのかと、時折、不安を覚えないではいられないのだ。
 勿論、山本自身は、そんな綱吉の表情を見るたび、「心配するなって」と闊達に笑い飛ばしてしまうのが常であり、綱吉もまた、彼がここまで何一つ後悔していないことは、ちゃんと分かっている。
 それでも。
 テーブルの下でもう一度軽く手を握り締め、綱吉は目を逸らすことも伏せることもせずに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺、高校を卒業したらイタリアに行くことにしたんだ。ボンゴレの十代目として」
 そう告げた瞬間の山本の表情に浮かんだのは。
 ───喜び、だった。
「そっか。行くのか、ツナ。もちろんお前も一緒だろ、獄寺?」
「ああ」
 それまでずっと黙っていた獄寺の声は、低く、いつもよりも一際無愛想だった。
 獄寺は山本の目を見つめ、それから手にしていたコーヒーカップにすっとまなざしを落とす。
「来年三月頭の卒業式が終わり次第、こっちを発つ予定だ」
「そっか」
 獄寺の答えに、山本は頬杖をついて笑顔を見せる。

「なら、そん時俺も行くぜ、ツナ。お前らと一緒に」

 がたん、という耳障りな音が、自分が席を立ち上がりかけたからだということに気付くには、数秒が必要だった。
 十代目、と獄寺に少しだけ鋭く呼ばれて、綱吉は、ああ、と糸の切れた操り人形のようにぎこちなくソファーに元通り腰を下ろす。
 その間、まなざしは呆然と山本を見つめたままだった。
 そんな綱吉の表情に、山本は困ったように笑う。
「ツーナー、そんな顔すんなよ。俺だけ仲間外れにする気だったのか?」
「……仲間外れって……」
「仲間外れだろ? 俺は嫌だぜ、お前らが行くのに俺だけ残るなんて」
 朗らかに、けれど明らかに本気を含んだ声で言われて、綱吉は呆然と首を横に振った。
 それをはずみに世界が揺れて、そのままぐらぐらと回り続ける。
 ───そう、これが怖かったのだ。
 ずっと心の片隅で不安だった。
 山本が、あまりにも自分と獄寺を大切にしているから。
 大切なもののためには、彼はあまりにも迷わなさ過ぎるから。
 『一緒に行く』。いつかこの言葉が彼の口から出ることを、ずっと心のどこかで恐れていた。
 そして今、彼との間にあった薄氷はあっさりと割れて消え失せ、昏い淵が顔をのぞかせている。
 底の見えない、沈んでしまったら二度と浮かび上がれない、深い深い淵が。
「仲間外れなんて……そんな気はないよ。でも……俺がイタリアに行くのは、観光や遊びじゃない。何をしに行くのか……俺が何になりに行くのか、山本は知ってるだろ……?」
「ああ、知ってるぜ。だから、俺も行きてーんだ」
 山本の答えに迷いはなかった。
「ツナ、獄寺。俺は、お前らと一緒に居たいんだよ。お前らが楽しい時には一緒に笑いたいし、お前らが困っている時には力になってやりたい。そんなのはダチなら当たり前だ。でも、日本とイタリアじゃ、そうするには遠すぎるだろ?」
「そんな甘い世界じゃねーぞ」
 その言葉に応じたのは、綱吉ではなく獄寺だった。
 冷めた銀の瞳で、山本の本意を測るようにねめつける。
 だが、
「だからこそ、一緒に行くつってんだよ」
 獄寺の険しい視線を受けても、山本は動じなかった。
「俺だって分かってるさ、どんな世界に行くのかくらい。ずっとお前たちと一緒に戦ってきたんだからな」
 言いながら、首元から服に隠れて見えなかったシルバーチェーンを引き出す。
 ややごついそのチェーンに通されたヘッドは。
 雨のリング、だった。
「これは俺のもんだろ? 絶対誰にも譲らねーよ。ツナ、お前が何と言ってもな」
「山本……」
 まだ呆然としたまま、綱吉は親友の名を呼んだ。
「でも……野球は? お店は? おじさんはどうするんだよ……?」
「親父のことは心配ねーよ。ああ見えて、まだ俺に三本に一本は勝つし、店のことも、俺はどうやったって親父以上の寿司職人にはなれねーだろうし。親父は本当に天才だからよ」
 尊敬と誇らしさの混じった口調で父親を評し、そして山本は、左腕のブレスレットへとまなざしを落とす。
 この夏、二人が贈ったメッセージに、いとおしげに指先を触れて。
「野球も、やり切ったよ。この夏の甲子園は地方大会から本戦まで全試合、一つのプレーも手を抜かなかった。誰に何と言われたって、先を考えてない馬鹿だの無茶だの言われたって、どの試合も全力で投げて、打って、走った。
 そんで、全試合無失点記録と、全試合打点と、決勝戦の完全試合。目標は全部達成して、真紅の大優勝旗と、これを手に入れた。野球では、もう何にもいらねーよ」
「そんな……大リーグからもスカウトが来てるって聞いたよ?」
 震える声でそう尋ねた綱吉に、山本はおかしそうに笑った。
「あのな、ツナ。俺が大リーグとお前らを天秤にかけると思ってんのか? だったら、ちょっとひでーぞ」
「十代目、何を言っても無駄ですよ」
 獄寺の声が低く、更に反論しようとした綱吉の声を遮る。
 驚いて振り返った綱吉の瞳を、獄寺はいつもよりも少し重く沈んだ色の瞳で見つめ返した。
「この馬鹿は本気です」
「俺が馬鹿なら、お前だって馬鹿だろ、獄寺」
 冷ややかに言い捨てた獄寺の言葉に、山本は笑って言い返す。そして、改めて綱吉を見つめた。
「獄寺の言う通り、俺は本気だぜ、ツナ。俺も連れて行ってくれよ。そんで、お前がやろうとしてることを少しでも手伝わせてくれ」
「───…」
 共に背負うと、修羅の道を共に歩くと、温かな光を浮かべた山本の瞳が告げる。
 綱吉が堪えられたのは、そこまでだった。
「……ごめん、山本……。それから……」

 ───分かっていた。
 山本が、必ず一緒に行くと言うと分かっていた。
 説得できないことも分かっていた。
 何故なら。
 ───心のどこかで、そう言ってくれることを望んでいたから。

「ありがとう……」
 そう告げる声は、嗚咽交じりにしかならなかった。
 堪えきれない涙が、後から後から零れ落ちる。獄寺に、綺麗にアイロンを当てられたハンカチを渡されても、それは簡単には止まらない。
「俺こそありがとうな、ツナ。こんなにも俺のことを考えてくれて」
 優しい声に、そんなことはない、と綱吉は目元にハンカチを押し当てたまま、首を横に振る。
 優しいのではない。弱いだけだ。卑怯なだけだ。
 本当に友達なら、彼の平穏と幸福を望むのなら、ここで突き放さなければならないのに、突き放せない。
 山本が共に行くことを──修羅の道を歩むことを悲しみながら、この先も彼が居てくれることを心のどこかで安堵している。
 本当に酷い人間だった。
「ごめん、ごめんね……」
「謝んなよ、ツナ。お前は何にも悪くない。それどころか、俺はずっとお前に感謝してるんだぜ。お前にも獄寺にも、小僧にも」
 温かな声に、また目の奥が熱くなる。
 もう十八にもなったのに、一体何を人前で泣いているのかと思うが、どうしても止まらなかった。ここがファミリーレストランでなければ、外部から遮断された一人きりの空間であったら、声を上げて泣いていたかもしれない。
 己の悲劇に酔うような卑怯な涙であることは分かっていたが、それでも山本の覚悟を受け入れることは、身を切られるほどに辛かった。
「……ありがとう、山本。獄寺君も」
 やっと落ちついて綱吉が顔を上げようとすると、氷水で濡らしたおしぼりが隣りから手渡される。
 いかにも獄寺らしい気遣いに、綱吉は小さく微笑んで、ありがたくそれを目元に当てた。
 そして、深呼吸してからゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「一緒に……行こう。この先、俺たちがどこに行くことになるのかは分からないけど……」
「ああ、それでも一緒だ。俺はお前たちから離れねーよ」
「どこまででもお供します」
 即座に返る声に、目元に冷たいおしぼりを当てたまま綱吉は微笑んだ。
 どうしようもないほど辛い、悲しいと心が悲鳴を上げているのに、それでも二人の声を聞くと、自然に微笑みが浮かんでくる。
 ───ああ、そうだ。
 獄寺と山本と。
 何よりも大切な二人が傍に居てくれれば、きっと自分はどんな環境でも笑える。どんなに辛く苦しい状況でも、笑って乗り越えられる。
 山本は、そのことを既に知っていたのだろう。あるいは山本自身が、自分たちがいれば、どんなに辛く苦しいことでも笑って乗り越えられると感じているのか。
「ありがとう」
 唯一無二の親友と、唯一無二の右腕と。
 無慈悲な夜の底で、変わらず傍にいてくれる二人に、綱吉はもう一度心の底から、ありがとう、と告げた。

to be continued...





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