誰が為に陽は昇る

6.

 旅行の計画を立てるのは、御迷惑でなければ十代目のお家でやりませんか、と獄寺が提案してきたとき、綱吉はその意図が分からないまま、構わないけれど、と答えた。
 ちょうどそこで授業開始のチャイムが鳴ったこともあり、そのまま授業が終わるまで獄寺も理由を説明しようとはしなかったため、綱吉がその提案の意味が理解できたのは、放課後、連れ立って沢田家に帰った時だった。
 普段なら丁寧な挨拶だけして二階にある綱吉の部屋へと上がる獄寺が、今日に限ってはそうではなく、奈々に向かって、ガイドブック等の資料が多いのでリビングのテーブルを使わせてもらえませんか、と言った時、ああそういうことか、と綱吉は全てが腑に落ちたような気がしたのである。
 獄寺をリビングに案内するのは奈々に任せ、自分の部屋に行って制服から私服へと着替え、階下に戻ってくると、階段を下りる足音を聞きつけたのか、ダイニングキッチンから顔を出した奈々が笑顔で綱吉を手招いた。
「何?」
「何って言うわけじゃないのよ。はい、飲み物とおやつ」
 二人分の氷と炭酸飲料が入ったグラスと、スナック菓子の乗ったトレイを差し出されて、反射的に綱吉は受け取る。
「あ、ありがと」
「どういたしまして。それよりも、ねえツナ。獄寺君って本当にいい子ね」
「え?」
 唐突に言われて、一瞬綱吉の脳内をクエスチョンマークが飛び交う。
 だが、すぐに笑顔の母親が何を言いたいのか理解した。
「ああ。リビングのこと?」
「そうよ。獄寺君ったらね、今日は暑いからドアは開けといて下さいって。そこまで私に気を遣ってくれなくてもいいのに」
 そう言いながらも、奈々は鼻歌を歌いだしそうに嬉しげで、綱吉も自然、頬が緩むのを感じる。
「そういうとこがね、獄寺君のいいとこなんだよ」
「本当にそうね。ツナ、あなたからありがとうって言っておいてくれる? それから、旅行の計画は全部決まってから、私に教えてくれればいいからって」
「分かった。でも多分、獄寺君のことだから、ずっとうちのリビングでやるって言うと思うよ?」
「それは構わないわよ。どこでも好きな場所を使ってくれれば。あと、よかったら今晩、夕食も食べていって、って」
「うん」
 うなずいて、綱吉は両手にトレイを持ったまま、リビングへと向かった。
 奈々の言った通り、大きく開かれたままのドアからは、テーブルの上に広げられているものが一望できる。
 何だかおかしくなって、綱吉は、獄寺君、と笑みの混じった声で名前を呼んだ。
「遅くなってごめん」
「いいえ。それ、お持ちします」
 条件反射のように立ち上がった獄寺は、テーブルとソファーを回りこんで、綱吉の腕からトレイを取り上げる。
 これくらい良いのに、と言いながらも綱吉は、彼の好きにさせた。『これくらい』のことなら逆に言えば、獄寺に任せたところで綱吉のもともと高くも大きくもないプライドが傷付くはずもない。
 テーブルの上に獄寺がグラスを丁寧に置くのを横目で見ながら、綱吉はソファーへと腰を下ろし、そして、獄寺も再びソファーに落ち着いたところで、切り出す。
「獄寺君、母さんがね、君にありがとうって」
「え?」
「そんで、計画は全部決まってから教えてくれればいいってさ。そう言いながらも、母さん、嬉しそうだったけど」
「あ、と……バレバレ、でしたか」
「うん。バレバレ」
 照れた様な困ったような顔で、頬をかく獄寺に綱吉は笑いかける。
 獄寺が沢田家のリビングを、旅行の計画を立てる場所に選んだのは、ひとえに綱吉の母・奈々のためだった。
 一人息子の初めての海外旅行を心配する彼女の不安を少しでも軽くしようと、その気になればいつでも計画の次第を彼女が見聞きできるリビングで、獄寺はガイドブックや地図を広げる事にしたのである。
「すみません、十代目。最初に御説明しなくて」
「いいよ、君の考えてることはすぐに分かったし。それに俺も嬉しかったから」
「え?」
「獄寺君はそこまで考えててくれるんだなーって。上手く言えないけどさ」
「そんなもったいない!……っていうより、当たり前のことしただけっスよ、俺は」
「そうかもしれないけどね」
 それを当たり前にできるのがすごいんだよ、とは綱吉は口に出さなかった。
 言ったところで獄寺は恐縮しまくりの否定しまくりで、どうせまともな会話にはならない。最後はいつもの照れた様な顔で笑ってはくれるのだろうけれど、笑顔自体は別の言葉でも引き出せるのである。
「あと、夕飯も食べていってって。遠慮なんかする必要ないから」
「え、でも俺、昨日も御馳走になったばっかで……そういうわけにはいきません」
「いーんだってば。母さん、賑やかな方が好きなんだから。獄寺君が食べずに帰るって言ったら、かえってがっかりするよ」
「あー、はい。じゃあ御馳走になります……」
 困ったように眉間に小さなしわを寄せながらもうなずく獄寺に、綱吉は自分も人が悪くなったなぁと思いながら、笑顔を向ける。
 戸惑うばかりなのをやめて、少し頭を使えば、獄寺という人間は実に扱いやすい。
 オトモダチごっこと言われようと何だろうと、どうせ今だけなんだし、と綱吉は開き直った気分で、テーブルの上に重ねられたガイドブックの一番上にあるものを手に取った。
「じゃあ、始めよっか。俺、行ってみたい所が沢山あるんだよ」
「はい、十代目。どこでも俺が御案内しますから、任せて下さい」
 綱吉の声に、すぐさま獄寺は眉間のシワを消して笑顔になる。
 それは、綱吉の一番好きな、嬉しげで楽しげな獄寺の表情だった。

7.

「へー。じゃあ、お前らは今年の夏はほとんど居ないのか」
「そういうことになるかな」
「イタリアか。いーなぁ。昔一度、ディーノさんに観光に連れてってもらったきりだし、甲子園がなけりゃ俺も行ってみてーとこだけどな」
 残念、と山本はアイスコーヒーをすする。
 久しぶりに山本と会っているのは、駅前のファミリーレストランだった。
 高校三年の最後の夏を控えている今、強豪校の4番エースには休みなどないといっていい。平日はもちろん土日も部活の練習で埋まり、綱吉たちが彼に会えるのは、練習が終わった後の夜、時間を気にしなくてもいいそれぞれの家かファミレスでと決まっていた。
「誰がてめーなんざ連れてくか」
「あはは。いーじゃん。旅行なんて人数多い方が楽しいぜ、絶対」
「てめーと一緒に行くくらいなら、夏休み中、どっかの馬鹿ファミリーとでも抗争してる方がまだマシだ」
「獄寺君、そう極端なこと言わないの」
 小さな苦笑交じりにたしなめながら、綱吉は山本へと視線を向ける。
 獄寺が山本につっかかるのは、言うなれば挨拶の決まり文句のようなもので、今更綱吉は気に留めない。
 中学生だった頃のように綱吉が血相を変えて止めなくとも、多少の毒舌を吐けば獄寺は後は普通に話し出すし、山本の方は最初から気にもしていない。
 二人の間には、綱吉との間に在るものとはまた違う強い何かが存在しているのは確かであり、慣れてしまえば、そんな二人のやり取りを眺めているのは結構楽しいものだった。
「本当は山本の応援に甲子園まで通うつもりだったんだけどね。去年みたいに町の応援ツアーのバスでさ。でも旅行の計画立ててたら、結構日数かけないと行きたい所全部回りきれない感じになってきちゃって……」
「計算上は、てめーが甲子園の準決勝まで残れば、ありがたくも十代目が応援に駆けつけて下さるって寸法だ」
「準決勝か」
 ふむ、と考え込む顔になった後、山本は彼らしい表情で満面の笑みを浮かべた。
「よし。甲子園での俺の活躍、絶対お前らに見せてやるからな。旅行の日程延ばしたりせずに、ちゃんと間に合うように帰ってこいよ?」
「うん。旅行先からも電話とかするつもりだから、山本も俺たちに試合の結果とか教えてよ」
「とーぜん。楽しみにしてろよ」
 言いながら、山本は楽しげに笑う。
「今年は最後の甲子園だからな。俺も思いっきりやるつもりなんだ。あの鉄板焼きみてーにクソ熱い甲子園のマウンドで投げたり、ホームランかっ飛ばしたりすんのは本当に気分いいんだぜ」
「だろうね。山本見てると分かるよ。本当に楽しそうだもん」
 梅雨明けはまだだというのに、山本の顔や開襟シャツからのぞく腕はこんがりと日に焼けている。そのくせ、ユニフォームやアンダーシャツで隠れている部分の肌は、元のまま白いのだ。
 毎日毎日、屋外で練習していなければ、そんな焼け方をするわけがない。
 そして、本当に野球が好きでなければ、きつい練習の後で疲れているはずなのに、こんな風に屈託なく笑えるはずがなかった。
「俺たち旅行には行っちゃうけど、ちゃんと応援してるから。頑張って、いいとこ見せてよ」
「十代目がありがたくもこんなにまで激励して下さってんだ。最低でも全国優勝しなきゃ承知しねーからな」
「おう。任せとけ」
 脅しなのだか激励なのだか分からない獄寺の言葉にも、山本は笑って答える。
 その笑顔を見ながら、やはり山本の活躍を全部見られないのは残念だな、と綱吉は思った。
 獄寺とのイタリア旅行に替えられるものではないが、しかし、本当に好きなものに打ち込む親友の姿というものもまた、何かと比較できるものでもない。
「俺、母さんに頼んで並盛商業の試合は全部、DVDに録画してもらうよ。で、帰ってきたら甲子園に応援行く前に、全部見るからさ」
「そりゃ嬉しーけど、無理しなくていいぜ、ツナ。俺もイタリア行った時に経験したけど、時差ボケって結構きついからな。帰ってきたら、まずはゆっくり寝て、疲れを取ってからで十分だって。DVDは逃げてきゃしねーんだからよ」
「そうっスよ、十代目。こいつにそんな気を遣う必要はありません」
「気を遣ってるんじゃなくて、俺がそうしたいんだよ。もちろん時差ボケで眠かったら、もともと俺は眠いの我慢できるようなタイプじゃないんだから、ちゃんと寝るし。っていうより、DVD見ながらでも寝ちゃうと思うし。山本も獄寺君も、そっちの方こそ俺に気を遣い過ぎ」
 きっぱりと綱吉が言い切ると、山本と獄寺は顔を見合わせ、それから獄寺は顔を見合わせたことが不本意であるかのようにそっぽを向き、山本はおかしそうに笑う。
「そだな。ま、俺は俺できっちりやるから、お前たちも楽しんでこいよ。せっかくの旅行だろ?」
「当然だ。てめーは真夏の太陽の下で、寂しくボールを追っかけてろ」
「野球やってんのに寂しいわけねーだろ。相変わらず獄寺は面しれーな」
 何やかやと夜更けのファミレスで(一方的な)言い合いを始める二人に、綱吉は、まったくこの二人は、と苦笑交じりの溜息をつき、半ば氷の解けたコーラを飲み干した。

8.

「じゃーな」
「またね、山本。練習、頑張って」
「おう。獄寺も、またな」
「……ああ」
 軽く上げた手を振って、山本が十字路を曲がってゆく。
 その後姿を少しだけ見送ってから、綱吉と獄寺も再び歩き始めた。
「山本、すっごい日に焼けてたね。少し会わなかっただけなのに」
「野球のことしか頭にない馬鹿っスからね、あいつは」
 褒めるようなことでもないと言いたげに獄寺は短く、綱吉に対するにしては素っ気無い口調で答える。
 それが、いかにも彼らしくて綱吉は少しだけ笑った。
「ねえ、獄寺君」
「何スか?」
「俺さ、イタリアに行ったら、山本の甲子園優勝のお祝いになるようなもの、探したいんだけど。食べ物じゃなくて、小さくてもいいから何か記念になるような……」
 身に付けられるものか飾れるもの、と綱吉は続ける。
「俺、そういうの詳しくないから、獄寺君が見立てるの手伝ってくれると助かるんだけどな」
「────」
 そう言うと、獄寺は恐ろしく複雑な表情になり、しばらくの沈黙の後、いかにも不本意極まりないのだが十代目の頼みであるのなら、というのが丸分かりの低く苦い声で答えた。
「……喜んでお手伝いさせていただきます」
「うん。ありがとう」
 真面目にお礼を言おうとしたのだが、どうしても声に笑いがにじんでしまう。
 と、獄寺は困ったように眉をしかめた。
「……十代目」
「何?」
 おそらくは、そんなに笑わないで下さいとでも言いたかったのだろう。
 だが、それでも笑いをこらえきれない綱吉に、獄寺は更に困ったような顔になり、それから諦めたように肩の力を抜いた。
「……いえ。俺は十代目のそういうところも尊敬してますから。どんなことでも、俺を頼みにして下さるのなら嬉しいです」
 獄寺の言葉に、ふと表情を切り替えて、
「──うん。頼りにしてるよ」
 それまでとは異なる微笑みを綱吉が浮かべると、獄寺は驚いたような表情になり、そして今度は本心から嬉しげな笑顔になった。
「はい。ありがとうございます、十代目」
「お礼を言うようなことじゃないよ。俺がしっかりしてないだけなんだから」
「そんなことないです! 十代目は御立派な方ですし、俺は十代目のお役に立てるのなら何だって……!」
「獄寺君」
 津波のような獄寺の言葉を、綱吉は足を止めて名前を呼ぶことでさえぎる。
 最近はこういった発言の回数は減っていたのだが、今夜は久しぶりに山本と会ったことで、獄寺のリミッターが多少緩んだのだろう。
 中学時代に戻ったみたいだな、と思いながら綱吉は、それでも中学時代とは違う、笑みを含んだ静かな瞳で獄寺を見上げた。
「今更言うことじゃないけど、俺は完璧なんかじゃないよ。完璧じゃないから、君を頼りにしてるし、山本や皆が居てくれるとほっとする。俺が何一つ間違えず、一人で何でもできる人間なら、君たちのことも要らなくなるかもしれない。でも、俺はそんな風にはなりたくないんだ」
 静かな綱吉の声に、獄寺ははっと口をつぐむ。
 そして、途端に意気消沈した表情で、綱吉に向かって頭を下げた。
「申し訳ありません、十代目。俺の言葉の選び方が軽率でした」
「ううん。君が俺のことを思って言ってくれてるのは分かってるから。大丈夫」
 もとより獄寺を咎めようとして言ったことではない。だから、綱吉も笑って前を向き、再び歩き出す。
「あの、でも十代目。俺があなたのお役に立てるのが嬉しいのは本当っスから……」
「うん。それもずっと前から知ってるから」
 何を心配してるの、と笑みを向けた綱吉に、獄寺は今度こそほっとしたように、こわばった肩の力を抜いた。
 その様子を横目で見ながら、綱吉は薄い雲がかかって星の見えない夜空を見上げる。
(そろそろ山本は家に着いたかな)
 先程の十字路からの距離でいうと、綱吉の家よりも山本の家の方が近い。途中で何事も無ければ、家に帰り着いている頃だろう。
 そう思った綱吉の思考は、自然、山本ともう一人の人間のことへと流れた。
(獄寺君は、今みたいに俺の一言で一喜一憂する。けれど、山本はそうじゃない)
 獄寺も山本も、共に戦ってきたかけがえのない仲間ではあり、比較する気はなかったが、二人に決定的な差を挙げるとしたら、その立ち位置だろう。
 山本も、自分が次期ドン・ボンゴレの守護者であることの意味は理解しているが、だからといって獄寺のような絶対服従を綱吉に誓ったりはしないし、綱吉の言動によって彼の心理状態や行動が大きく左右されたりもしない。
 彼にとっての綱吉は、あくまでも<友達>だから、どんな時でも揺らがない。揺らぎようがないのだ。
(俺にとっても、山本は獄寺君とは違う。守護者だけど、はっきり<友達>だって言える。)
(だったら<友達>として、山本は俺に何を望んでいるんだろう……?)
 ふと、そんな思いが綱吉の中に浮かぶ。
 このまま自分が正式にボンゴレ十代目になった時、守護者でありながら<友達>である山本は、何をどう見て、どう感じるだろうか。
(それよりも、俺は皆を守りたいと思って覚悟を決めたけど……守るってどういうことなんだろう)
 大切な人々にはそれぞれに違う思いがあるはずなのに、それぞれに違う形のそれらをどうやって守ればいいのか。
 守るというのは、どんなことを指すのか。
 不意に綱吉は、足元に大きな奈落が開いたような気分になる。
「……目、十代目!」
「え?」
 は、と呼ばれていることに気付いて顔を上げると、獄寺が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
「な、何?」
「何って……通り過ぎてますよ、十代目のおうち」
「え!?」
 言われて周囲を見回してみれば、確かに見覚えのある街並みは、自宅よりも数メートル先に進んだ地点のものである。獄寺の言う通り、思考に没頭するあまり、通り過ぎてしまったらしい。
「ご、ごめん、俺、ぼーっとしてて……」
「いえ、それは構いませんが……」
 何を考えていたのか、とは獄寺は尋ねない。それは分を超えた質問だと思っているのだろう。ただ、気遣わしげに綱吉を見つめる。
「大丈夫。本当にちょっと考え事してただけだから」
「……はい」
 芯から自分を案じていると分かる獄寺の真剣なまなざしに、何でもないからと安心させるように笑って、綱吉は彼を促して行き過ぎた道を戻るべく歩き出す。
 だが、不意に心に浮かんだ疑問は、指先に刺さった小さな棘のように、そのまま当分消えそうにはなかった。

9.

「ただいま」
「おう」
 綱吉が自分の部屋のドアを開けると、早々と専用のハンモックに転がった家庭教師が、そのままの姿勢で返事を返してきた。
 見たところ、まだ寝る気はなさそうだったが、かといって階下でエスプレッソを飲みながら奈々と話をする気分でもないのだろう。
 考え事というほどのことではなく、ただ一人きりの時間をゆっくりと感じたい。そんな雰囲気だった。
「山本、元気そうだったよ。この前会った時よりも、もっと日に焼けて黒くなってた」
「だろーな。あいつは手抜きなんかできねーやつだ」
「うん」
 野球も、そして剣も。
 いつでも山本は直球勝負、真剣勝負で、相手を傷つけたくないという思いは強くとも、だからといって勝負を譲るような真似は決してしない。
 そして、そのために、自分にも妥協せずに鍛錬を、それも楽しみながら続けることができる。
 山本はその明朗快活な性格といい友情の厚さといい、元から美点の多い人間だが、一度決めたことを決してひるがえさず、努力し続ける忍耐強さも、また比類ない長所の一つだった。
「甲子園、優勝する気満々みたいだったよ。まだ県大会も始まってないんだけどさ」
「当然だろ。負けるつもりで勝負するアホがどこにいる。そもそも山本も俺の生徒の一人だ。決勝は完全試合で優勝しなきゃ許さねえぞ」
「またそんな無茶を……」
 綱吉は野球にはさほど興味はないが、いわゆるノーヒットノーランの完全試合など滅多にできないことくらいは知っている。
 だから、リボーンがまた無茶を言い出したと思ったのだが、しかし、リボーンは可能性がゼロであることを強要するような家庭教師でもない。山本ならやれると本当に思っているのだろうと見当をつけたが、それについては口には出さなかった。
「とにかく甲子園の準決勝からは、応援に行くって言っといた。お前も行くだろ?」
「もちろんだ」
 実に彼らしいリボーンの即答に、綱吉は小さく微笑む。
 普段はクールで、時には冷淡にすら見えるのに、自分の生徒が試されるような場面には、リボーンは必ず立ち合い、そうしなかったことはこれまで一度も無い。
 綱吉自身、リボーンが勝負に手を出しはしなくとも戦いの場に臨席していてくれることを、心強く思ったことが何度あったか知れなかった。
(そう。リボーンは俺の家庭教師なんだ)
 数々の修羅場をくぐり、多くの生徒を育て上げてきた彼には、今の自分の心理など白い紙に大きくマジックで書いたように透けて見えていることだろう。
 けれど、彼は何も言わない。
 綱吉が間違った判断をしそうになるまで口出しすることは無く、正しいと思われる方向に決意を定めた時だけ、いつもの無表情を少しだけ崩して笑うのだ。
 ならば、今の綱吉がすべきことは一つだけだった。
(自分で……考えなきゃ)
 守るということがどういうことなのか、どうすれば大切な人々を守ることになるのか。
 自分で出さなかった答えなど答えではないとリボーンに教えられて、もう何年にもなる。
 だが、そうと分かっていても、これは一人で回答を出すには余る、とてつもない問いであるように綱吉には思われた。
(少なくとも今夜一晩考えて、答えが出るようなことじゃないよな)
 リボーンに悩んでいることを気付かれないようにと思うのは、無駄な行為でしかない。
 だから綱吉は、途方に暮れた溜息を一つついて、気になっていたもう一つの事柄へと思考を切り替えた。
「なぁ、リボーン」
「何だ」
「イタリア旅行のことだけど……お前が反対しなかったのは、何でかと思って」
 先日、その話を夕食後の席で切り出した時、リボーンは反対するどころか、むしろ援護射撃をしてくれた。
 「大丈夫だろう」というささやかな発言だったが、あれは母が決心するには十分な一言だったように綱吉には思える。
 だが、綱吉の心理も獄寺の心理も見透かしているだろうリボーンが、二人きりでの旅行をすんなり認めたということが、綱吉にとっては不可解だった。
「理由が必要か」
「……うん」
 頭の後ろで両腕を組み、目深にボルサリーノのソフト帽をかぶって半ば表情を隠したリボーンの問いかけに、綱吉はうなずく。
 自分が、いつになく神経質になっているという自覚はあった。
 一月ほど前に自覚した自分の中にある想いについて、獄寺に恋をしたこと自体に後ろめたさはないものの、次代のドンとしては咎められるべき感情だということは分かっていたから、自然、リボーンの言動にも過敏に反応してしまう。
 晴れて両想いになれないことは承知しているから、綱吉としてもこの恋に何をも望むつもりはないが、唯一つ、獄寺と引き離されるような事態だけは絶対に避けたかった。
 そればかりは、何がどうあっても耐えられるとは思えない。
 そして、リボーンはそうできる権限を持っている人物なのだ。
 だから、綱吉はリボーンの反応が怖かった。
「ツナ」
 短い沈黙を挟んだリボーンの声は、静かで落ち着いていた。
「俺はな、お前と獄寺はアホだが馬鹿じゃねえと思ってる。そして、お前がこの時期にイタリアに行くのは、どう転んだって無駄にはならねえ。なら、後はお前たちの自己責任だ」
「自己責任……」
「そうだ。そもそもお前たちが言い出したことなんだからな。──だがな、ツナ。お前らが馬鹿な答えを持って帰ってきたら俺は容赦しねえぞ。それだけは肝に銘じとけ」
「……分かった」
 正確には分かっている、と答えるべきだった。
 そう、最初から分かっていた。
 リボーンは綱吉の……ボンゴレ十代目の家庭教師であり、他の何者でもない。クールに生徒を一人前に仕立て上げようとする彼の選ぶ道はいつでも明快で、揺らぐことは無いのだ。
 ただ、そうと分かっていても、今回ばかりははっきりと言葉で聞きたかった。
 それはリボーンに対する綱吉の甘えだっただろう。だが、珍しくも彼がその甘えを許してくれたことに、綱吉は心の中でそっと感謝しながら口を開く。
「リボーン。俺は……これ以上、お前を失望させる気はないから。ちゃんとイタリアに行って、あの国を見て帰ってくる。それは約束するから」
「何言ってんだ、馬鹿ツナ」
「え?」
「言っとくが、俺はお前に失望したことなんざ一度もねーぞ。勝手に決め付けんな」
 驚いて見れば、ハンモックの上に転がったままリボーンは面白げに笑ってこちらを見ていて。
「ま、ダメダメなのは間違いねえがな。もともと俺に家庭教師の依頼が来るのは、もう手の施しようがねーっていう究極にダメダメな奴だけに限られてんだ。お前といい、ディーノといいな」
「リボーン……」
 褒め言葉と受け取るには微妙な、だが明らかに自分を肯定してくれているリボーンの言葉に綱吉は戸惑い、返す言葉を失う。
 そして、困ったまま小さく笑った。
「ありがと、リボーン」
「礼を言うのは、まだ早えぞ」
「うん。分かってるけど」
 それでも、リボーンは綱吉を否定しなかった。その心の中にある想いも。
 もちろん決して許されたわけではない。だが、頭ごなしに否定されなかったことで、ようやくここしばらく張り詰めていた肩の力が抜けるのを綱吉は感じる。
 久しぶりに今夜は良く眠れそうだ、と思いながら、綱吉はリボーンとの会話に切りをつけ、風呂に行く支度を始めた。

10.

「大体、こんなもんっスかね」
「そうだね」
 レポート用紙に書かれたイタリアの略地図を覗き込んで、綱吉はうなずいた。
 地図上の点であらわした主要観光地を結んだ導線は、複雑ながらもほぼ一筆書きとなっていて、線の横には獄寺の字で、小さく移動手段とそれに要する時間が記入されている。
 全体としては、導線は北から南へ。そういう動きとなっていた。
「結局……全部で二十日間?」
「帰りの飛行機の時差がありますから、プラス一日です」
「計二十一日かぁ。ちょっとした大旅行だね」
 うーんとうなりながら、綱吉は地図を見つめる。
 だが、これでも行き先は絞り込んだのだ。ガイドブックを開いていると、あれもこれも見てみたいものばかりで、全部列挙したら、それこそ半年ほどかけてイタリア全土を回らなければどうにもならないくらいだったのである。
 それを、獄寺の意見やインターネットで拾った情報を参考にしながら、ああでもない、こうでもないと取捨選択して、ようやく計画がまとまったのだった。
「行くのは本土だけなのにね。イタリアってほんと、観光地だらけなんだ」
「本当は島の方が、海は綺麗なんですが……」
 すまなさそうに獄寺は謝る。
 だが、綱吉は構わないと首を横に振った。
「それはもういいんだよ。南部のカラブリア州あたりの海も、写真で見るとものすごく綺麗だし、いくら綺麗で有名な海岸でも、観光客だらけの海じゃ俺はあんまり嬉しくないと思うから」
「すみません」
 謝罪を繰り返す獄寺に、ああもう、と綱吉は思う。
 ───旅行の計画を立て始めた一番最初に、獄寺は綱吉に、申し訳ないが今回は本土だけに行き先を絞って、シチリアやサルディーニャ、そしてカプリは外して欲しい、と告げた。
 理由は単純で、超高級リゾート地である真夏のサルディーニャのコスタ・エスメラルダやカプリには、マフィア関係の大物も当たり前の顔で闊歩しており、彼らに遭遇する危険は避けた方が良いから、そしてシチリア本島では、獄寺の顔がスモーキン・ボムの名と共に知られているから、だった。
 十代目にとって初めてのイタリア旅行を、つまらないいざこざで台無しにしたくない。
 そんな獄寺の思いを綱吉も素直に受け取り、了承して、旅の候補地には最初からそれらの地名を入れなかった。
 けれど、獄寺はそれを詫びるのだ。
 綱吉の希望をすべて通せない、ただそれだけの理由で。
 仕方がないなぁと心の中で苦笑しながらも、綱吉は獄寺の名を呼んだ。
「もう謝らないで、獄寺君」
 そう言うと、おそるおそる、という形容がぴったりな仕草で獄寺は顔を上げて、綱吉を見る。
 そのしゅんと耳を垂れた犬のような風情に、綱吉はこらえきれずに微笑んだ。
 まさか今更自分が怒るとでも思っているのだろうか。彼が綱吉のために、良かれと思って下した判断であるというのに。
「あのね、俺もこの旅行は目いっぱい楽しみたいと思ってるんだよ。だから、島に行かない方がいいっていう君の意見も当然だと思って、賛成した。君が強制したわけじゃない。俺と君とで、いいと思った方を選んで、決めたんだよ」
 獄寺が我を通したわけではない。綱吉が意に染まぬ選択をしたわけではない。
 二人で、良いと思うことを選んだのだ、と諭すように言うと、ようやく獄寺の表情が少しだけほぐれた。
「……はい。そう、でしたね。俺と十代目とで、決めたんだ」
「そうだよ。だから、君が謝る理由なんて何もないんだ」
「──はい。十代目」
 ようやく獄寺がうなずくのを見届けて、綱吉は満足する。
 そして、同時に、ほのかな温もりが心の奥に広がってゆくのも感じた。
(そう、こうやって二人で決めてゆける。この先も、色々なことを)
 綱吉がボンゴレの十代目である限り、そして獄寺が綱吉の右腕である限り。
 ありとあらゆる場面で互いの存在は不可欠であり、第三者の意見を交えながらも、二人で、良かれと思われる道を模索してゆくことになるのだろう。
 無論、綱吉が主で獄寺が従だという関係は揺らがない。
 それでも二人で、様々なことを成してゆくことはできる。互いに触れることも、抱き合うことも叶わなくとも。
(それで、いいんだ)
 少しだけ、自分たちの想いが行き着く場所を見つけられたような気がして、綱吉は安堵する。
 もっともその安堵は、恋心の前では決して長く続くものではないと、心のどこかで分かってはいたのだけれど。
「じゃあ、日程は決まったから、次は旅行に必要なものの準備だね。そのあたり、俺は全然分からないから、また教えてくれる?」
「はい。それじゃあ、俺が必要なもののリストを作ります。でも、海外ったってイタリアは一応先進国ですし、そんな大荷物は必要ないですから」
「そうだよね。人が住んでる所だもんね」
 笑って、綱吉は再び手書きの地図にまなざしを落とす。
 地図上の地名は流れるような筆記体なのに、細かな書き込みは漢字と平仮名という組み合わせが、いかにも獄寺らしくて、何だか微笑ましい。
「ねえ、獄寺君」
「はい?」
「楽しい旅行にしようね」
「……はい!」
 中学時代のように派手なリアクションを、獄寺が見せることはもうない。
 だが、あの頃と同じように瞳を輝かせ、はっきりとうなずく獄寺に笑んで、綱吉はしばしの間、海の向こうの国に思いを馳せた。

to be continued...






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